2020年01月25日

思い出話 10

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夏休みに入るころから、同級生達は大学受験を意識するようになったのだろう、クラスの雰囲気が2年生の夏休みとは全く変わっていた。私といえば、大学受験を真剣に考えることが難しく、受験という意味では、まったくしまりのない夏休みを過ごしていた。それにそのころには目の検診は一か月に一度となっていたし、モータバイクに乗っての、プロパンガスの配達を手伝うようになっていた。だから育ててもらっている家の商売の手伝いが、夏休みの日課であったというのが正直なところである。
母の従弟のHちゃんは、神戸にある「お坊ちゃま大学」に入学し、毎日片道二時間半をかけて通っていたので、我々との関わり合いは、あの頃には減っていた。向かいのY君と隣村のR君はさすがに大学受験を意識してだろう、これまた頻繁には顔を見せなくなった。一人私だけが、ある意味高校三年生の夏休みの目標もなくなってはいたが、彼らの立場を慮って、意味もなく訪ねていくことは、少なくなっていた。
そんなわけで私の高校三年生は、高校としての充実感はなく、今でいうフリーターのごときであったのかも知れない。ただ読書だけは目に負担をかけない程度にというお墨付きをもらって、結構楽しんだ。夏目や芥川を読み漁り、下村湖人の次郎物語を読破したのもあの頃だったろう。三島由紀夫にも手を伸ばし、早朝の読書を続けていた。そして心の中では、「高校三年は留年して、来年もう一度高校三年生をやろう!」と考えていた。そう考えるとこの闘病も気楽に考えることができるようになった。とはいえ早寝早起きをしての、早朝読書、英会話の練習だけは続けていたのは言うまでもない。
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2020年01月24日

思い出話 9

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阪大病院の主治医から、通常の生活に戻って良いという判断を貰ったのは、4月の最後の検診日であった。そして5月からの通院は、二週間に一度でいいだろう、だから高校にも通っていいだろう、まぁ体育は二学期に入るまでは差し控えようか、といった細々とした助言も貰った。当面サングラスを着用のことというのは、高校生には大いにうれしい通学許可の条件であった。だから私の登下校時は、学生服にサングラスといういで立ちとなった。
私は高校二年の学年末試験は受けていなかったが、それでも三年生に進級できていた。
5月の声を聴いて登校してゆくと、担任は
「この時期からなら、出席日数は十分足るから皆と一緒に卒業できるだろう。4カ月以上も勉強していないから、皆に追いつくのは大変だろうが・・。」
と、事務的に話して、教室に私を連れて行った。この担任は新任の若い先生で、やけに身長の高くなった私が、サングラスをかけていたので、病気のことを知っていただろうに、対応に困っていたのかも知れない。ともかくまるで転校生並みの扱いであった。
私達の高校は毎年クラス替えをする制度だったので、級友の半分以上はなじみのない顔だった。それでも入学以来ずっと一緒という級友も何人かいて、大した違和感、疎外感なく三年四組の一員となることができたように記憶している。
その日の帰りには、木下書店で教科書を買い求め、翌日からは普通の高校生に戻った。数学や物理の授業では、学習済みの単元の入試問題の演習が中心で、さすがにわけのわからない内容が多く、本当に退屈した。英語や国語はそれでも何とか対応が可能で、登校後三週間目に始まった一学期の中間試験を受ける羽目になった。ただ驚いたことに、成績は全くの最下位というわけではなかった。それに英語と国語だけは、それなりにいい点をとった記憶がある。
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2020年01月23日

思い出話 8

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愛犬アリス二歳の誕生日 Happy Birthday Alice

大阪大学付属病院石橋分院からの退院は、四月の上旬であった。
昭和41年(1966年)のことである。
祖母の妹で、母の叔父にあたる人が、わざわざ貝塚から車で迎えに来てくれた。大阪府北部の池田市から、大阪南部の貝塚市まで、直線距離なら60km程度であろうか、高速道路などまだない時代のことである。母の叔父は、綿織物の工場を経営していて、日産のセドリックを所有していた。そのセドリックを駈って、迎えにきてくれたのである。運の良いことに天気の良い日で、昼過ぎに石橋を出て、夕方貝塚に到着。水間観音の桜は満開であった。
ちなみにこの母の叔父が、Hちゃんの父親で、日中戦争初期には従軍して北支界隈を転戦していたと漏れ聞いたことがある。確か大尉で、戦況が悪くなった頃には、もはや退役していたそうである。
退院にあたっての主治医の指示は、
「過激な運動や、長時間の読書はよくない。当面一週間に一度通院して、経過をみる。高校はしばらく休むように。電気の髭剃りや、バリカンもよくない。」
ということで、自宅での療養を余儀なくされた。自宅といっても母の叔母の家での居候生活で、本来の実家はまたまた空き家となってしまい、我々三人いや四人の集まる口実がなくなってしまった。私はと言えば、またまた早寝早起きの生活パターンだけは守って、朝六時からのラジオの英語講座だけは続けていた。
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2020年01月22日

思い出話 7

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高校2年生の秋は、私なりに充実していた。
昨日も話した様に、夜は読書三昧の毎日であった。
正確には、早寝早起きしての読書三昧というべきだろうか。
中学に入った頃から朝四時起きの習慣が定着し、私は俗にいう朝方人間であった。ちなみに大学受験に失敗して予備校に一年通ったのだが、この生活パターンが崩れることはなかった。
ところが高校二年生の12月中頃、私の目に異常が起こった。
体育の授業時間中に偶然ぶつけられたバスケットボールの衝撃が、直接の引き鉄だろうというのが眼科医の見立てで、当時としては大病であった網膜剥離をわずらっってしまったのである。1月末には大阪大学医学部の附属病院に入院し、おおよそ3カ月の闘病生活を強いられた。当然高校生の気ままな生活も、終止符を迎えた。三国志を読み始めていたのだが、以来どういうわけか読む機会には恵まれず、吉川栄治とはおさらばしてしまった。
阪大病院での闘病生活は、ただただ退屈でひたすら天井を見ての毎日であった。そもそも本や新聞を読むわけにもいかず、娯楽と言えばラジオを聴くぐらいで、まさに修行僧のようなそれでいて、あおむけで寝ているだけの二か月半であった。
この二か月半の寝たきりで、唯一良かったのは身長が20p近くも伸びたことであったろう。手術後初めて立ち上がることになった3月10日ごろ、看護婦さんの第一声は
「あらこの子、背ぇ伸びたわ!」
だったことからも、理解して頂けるだろうか。
話は変わるが退屈な入院生活の中で、例によって何の前触れもなくR君が見舞いに来てくれたことや、バスケットボールを誤ってとはいえ私の頭部にぶつけた、高校の同級生I君が申し訳なさそうに顔を見せてくれたことが大いに救いとなった。
私の入院した大阪大学医学部の附属病院は、眼科はあの頃石橋キャンパスに在ったので、二人とも大阪府をほとんど縦断してやって来てくれたということになろうか。
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2020年01月21日

思い出話 6

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仲の良かった三人に、母のいとこのHちゃんが時々加わることは既に述べてある。
高校生になった私は、母が旅立って後育った、Y君宅の向かいの家ではなく、自分の家で夜を過ごすことが多くなった。いや正確には高校生になってすぐの頃の、母の叔母、私を実質育ててくれていて。私がおばあさんと呼んでいた人の
「善一郎も、もう高校生やさかい、自分の家で寝起せなあかん。壽エ吉さんの建てた家やさかい。」
という言葉がきっかけであった。早い話夕食後には、歩いて五分足らずの自宅に寝泊まりに行き、朝には6時前に起きてラジオで英語番組を聞き、7時には朝食にもどるという生活が始まった。
考えてみれば、大人の目から自由になるという環境が偶然にもできて、ある意味高校生には却って好都合、渡りに船というところであったろう。だから夏休みの声を聴くと、まずHちゃんが顔を出すようになり、やがてY君が、最後にはR君が加わった。如何に夏休みといえども、連日というと親が許す筈もないので、だいたいは何日かおきに集まってきた。ただHちゃんは身内ということもあり
「善さんが一人寝てるんやさかいなぁ。」
という私にかこつけての言い訳で、夏休み中ずっとやって来ていたような記憶がある。とはいえあの頃の高校生は純情なもので、夜に皆で集まって宿題をしたり、取り留めない話をしたりという生活だった。
夏休みが終わると、私は結構大きな家で一人で寝起きするという生活に戻った。虫の音を聴きながらの読書三昧を楽しんだのはあの頃のこと、吉川栄治の太閤記や宮本武蔵にはじまり、井上靖、川端康成を読み漁った。なぜか自宅での勉強の記憶が無く、高校生だったのになぁと長く不思議に思っていたが、数年前その謎が突然解けた。
岸和田高校の卒業50年の同期会で、
「河崎君は、授業のあとの休み時間によく数学の問題を解いていたわね。私はそのことをよく覚えているのは、一度なぜ今頃って尋ねたら『家に帰ってやる暇ないよって。』て応えてくれて、不思議に思ったから。」
と、見覚えのない同級生から声をかけられたからである。
私自身、なるほどなぁと納得した次第である。
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2020年01月20日

想い出話 5

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薄々は感じ始めてはいたけれど、
「べっぴんやったのう。」
という言葉で、私はR君の本当の気持ちを確認できた気がした。
それにしてもと私は思った。
「20歳も過ぎて、えらい純情なやっちゃなぁ。」
本来R 君はえらく腕白な小学生だった筈である。いやガキ大将だった。そして身長も高かった。幼稚園で初めて会った時、¥私は怖かった。小学生になっても、やはりガキ大将であった。模型飛行機つくりが上手でいくつかの競技会の予選に参加し、6年生の時には大阪府の大会にも泉南地区代表で参加した筈である。ただガキ大将ではあったが、私はいじめられた記憶はない。
ところが中学生になった頃から身長が延びなくなり、かろうじてガキ大将としての面目は保っていたけれど、少しずつ輝きを失くしていた。ただガキ大将失権とは裏腹に、学校の成績は上向きとなったから、人生ゼロサムなのかもしれない。そんな風だったから、異性に目が行くのはいささか遅かったのかも知れず、「20歳の純情」事件の目撃者に私はなったのである。
南海電車の車中あれこれ問いただすと
「大学に行くとき会ったんやしょう。ほんで先生が住所教えてくれて『一度訪ねてきなさい。』言うてくれたんやしょう。」
ということであった。その後どうなったのかは、今となっては知る由もないが、「20歳の純情」よりは進まなかった筈と、私は理解している。
時期も同じころ、R 君と私は阪大の石橋キャンパスに出向くことも多かった。彼の大学のクラブのコーチが、阪大のコーチも兼任しているとのことで、まさかクラブ活動にまでは乗り込まなかったのではあろうが、講義には一緒に出席した。一般教養の、経済や地理、文学などの講義で、私達は最後尾の席に座ってぼんやりと聞いているのであった。
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2020年01月19日

思い出話 4

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先生の実家は、ぶらくり丁から路地を二三本入ったところにあり、今から考えると何となくうす暗い感じのする通りに有った。R君もそこを訪ねるのは初めてらしく、多分住所を書いたメモ書きだったのだろう、を見ながら、ようやく探し当てたという感じであった。
「善さんあったでぇ!ここやここや。」
と嬉しそうに、大声を上げた。実のところそれでも私は、彼が私をどこに連れていきたいのか、まったく理解できていなかった。
「このうちなんやねん?」
と尋ねる私に、R君が答える間もなく開き戸があいて女の人が顔を出した。そして私達二人をじっと見つめて
「あれあなた達、中学校の時の生徒さんよね、確か?」
と、尋ねた。
「今日は何か?それにしてもよく訪ねてきてくれたわねぇ。」
という先生にR君は
「僕達大学生になったんで。僕は和歌山大の2年生、善さんは一浪して阪大に入ったんや。」
と誇らしげに答えていた。
立ち話もなんだからと促されて私達二人は、客間に通されたのだが、行きたいと言っていた筈のR君はいかにも居心地が悪そうで、止むを得ず私は中学の頃のことを話すことにした。
「そうねぇもう六年もなるのねぇ。君達の学年が卒業した次の年に転勤したの。でも君達の中学校は、初めてのお勤めだったから、なんとなく印象が強いの。」
と、ようやく話が盛り上がってきたというのに、いきなりR君は
「そろそろ帰ります。」
と訳の分からないことを言い出した。先生は、
「わざわざ来てくれたんだから、晩御飯くらい御馳走するわよ!」
と仰られたのに、R君は怒ったように
「善さん帰ろう!」
と腰を上げた。
先生の家を出てから和歌山市駅までは、R君は一言もしゃべらなかった。私といえば、何やらキツネにつままれたようで、それでも話しかけることもできず、二人して南海電車に乗り込んだ。そして電車が動き始めるのを待つかのようにR君はそれこそ満面の笑みで
「先生やっぱりべっぴんやったのう。」
とつぶやいた。
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2020年01月18日

思い出話 3

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中日ドラゴンズの名二塁手高木守道さんの訃報、現役の頃には「いぶし銀」といった評価もあり、中日のファンでもない私ながら好きな選手であった。享年78歳 合掌

昭和44年(1969年)、大学には入学したものの,講義はなかなか始まらない。
それでも10月も終わりになった頃、京橋に有った工学部の旧校舎を使って一日おきの講義が始まった。一日おきの講義だけに、多くの同級生達は、容易には大学生としての自覚を持てなかったというのが実際のところだったろうか。それに授業開始までには入学後7か月も経っており、遊び慣れてしまったというか、アルバイト慣れてしまったというかの状態では、真剣に勉学するといった雰囲気はほとんどなかった。私はといえば、R君の大学について行って講義に参加したり、Y君の出張について行ったりと、20歳の春を気ままに謳歌していた。高校生、受験生の頃に比べ当然行動範囲も圧倒的に広くなり、南は和歌山から北は滋賀県湖東辺りまで、とりわけ名神高速道路をY君の運転する車で茨木ー高槻間の長い直線の下り坂を疾走したときには、絵も言えぬくらいに感動したのを覚えている。そして栗東という地名は、なぜか心に長く残るのだが、いまだにその理由は分からないでいる。
R君との行動で覚えていることの一つに、中学の時に臨時教員で来られた先生の御自宅を訪ねて行ったことがある。御自宅は和歌山市の繁華街の近くにあり、R君の家の近くに嫁いで来られていたが、そのころは離婚されて実家に戻っていらっしゃった。R君がどうしてそのことを知っていたのか、どうして実家を探し当てたのかは謎である。あの日は講義にもぐりこんだ後
「善さん今日はクラブの練習無いねん。行きたいとこあるんでついて行ってくれるか。いや和歌山市内なんや。」
ということで、私はついて行ったのである。
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2020年01月17日

思い出話 2

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今日は私の71歳の誕生日、そして神戸大地震25年

私達三人の結びつきの強さは、それぞれの家庭環境にも強く関係していたものとは、この歳になっての理解である。即ちY君は物心つく頃には母上と生き別れ、私といえば中学一年12歳の夏休みに母が他界、R君は高校生の頃に母上が、心臓発作だったと思が、急逝といった具合で、三人三様ながら母親との縁が薄かったのである。三人とも互いにそんなことで慰めあったりは決してなかったけれど、ある種の仲間意識が深層心理にあったのかもしれない。そんな三人の社会人としてのスタートは、同級生ながら全く違うのだから、自身のことながら興味深い。
Y君は高校卒業直後まず社会人となったが、大怪我をしたこともあって20歳の春が再スタートということになろうか。そのころR君は大学二年生、私はといえばこれまた網膜剥離という大病をして2年遅れでようやく大学生となった具合である。ただ私の大学生としての最初の一年間は学園闘争のあおりを食った関係もあって,まともな講義を受けなかった。それでも所属した学科の教授の紹介で、大阪高等技術研究所という名前だったろうか、抵抗やコンデンサの性能試験のアルバイトにありついていた。そんな具合だから、時間の許されるときは、Y君の出張について滋賀県に出かけた。出張といっても会社の車で得意先回りをするYの車に同乗していったものであった。
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2020年01月16日

思い出話 1

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明日の誕生日を控え、しばらくは昔の思い出話を披露したい。
昨日の内容からも想像頂ける様に、10代の後半は同級生のY君、R君そして時々は一歳年上のHちゃんに私を加えた3人または4人で行動することが多かった。Hちゃんには大学の仲間達との生活もあったのだろうが、私の育った大阪南部の山村ではあの当時大学に進学するものはまれで、田舎の仲間と一緒になっての行動は、H ちゃんには盆や祭り以外は現実的には無くなってしまった結果、一級下の私達に近寄ってきたというのが正直なところだったろうか。Hちゃんの通っていたのは、神戸市にある俗にいう「お坊ちゃま大学」で、なんと片道2時間30分もかけて通っていた。H ちゃんの家は経済的には恵まれていた筈だが、子離れのできない母上が、下宿を許さなかったらしい。
話は前後するが、H ちゃんは私の母のいとこで、母の叔父の最後の子で、私との年齢差が一歳、だから小学生時代から私達は半ば兄弟の様にして育てられた。このように書いても、なかなか判り辛いかも知れないが、祖母の兄弟姉妹の繋がりはある意味尋常でないほど強く、徒歩5分以内に4家族が住まいする家があったのである。そんなだから、私が物心つくころには、家屋はそれぞれ別乍ら大家族構成を彷彿とさせる風であった。
本題から少しずれてしまった。私達三人、R君、Y 君それに私の話題に戻す。
Y 君と私はむかいどうしということもあり、夕方から夜にかけては絶えず行き来していた。R君は隣村の在住で毎日というわけではないものの、高校生になってからはホンダのスーパーカブに乗ってやってきた。もちろん無免許なのだが、あの頃の駐在さんは、いうなら見て見ぬふりをしていてくれたのだろう。逆に私もスーパーカブでR 君の家に出かけることもあった。とりわけ定期試験の頃には、お互いに尋ねあい教えあうこともあり、行き詰ると出かけていくのである。そんなだから行き違いとなることも何度もあった筈で、今日のようにスマホで連絡を取り合っての行動は、ありえなかった。行違った場合は、私の方が彼の部屋で待つのが常で、R君のおばあさんが、山盛りのゆで卵やミカンで歓迎してくれたものである。実はR 君の家は大農家で、庭には1000羽を越す鶏を飼っていたのである。
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