2020年01月16日

思い出話 1

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明日の誕生日を控え、しばらくは昔の思い出話を披露したい。
昨日の内容からも想像頂ける様に、10代の後半は同級生のY君、R君そして時々は一歳年上のHちゃんに私を加えた3人または4人で行動することが多かった。Hちゃんには大学の仲間達との生活もあったのだろうが、私の育った大阪南部の山村ではあの当時大学に進学するものはまれで、田舎の仲間と一緒になっての行動は、H ちゃんには盆や祭り以外は現実的には無くなってしまった結果、一級下の私達に近寄ってきたというのが正直なところだったろうか。Hちゃんの通っていたのは、神戸市にある俗にいう「お坊ちゃま大学」で、なんと片道2時間30分もかけて通っていた。H ちゃんの家は経済的には恵まれていた筈だが、子離れのできない母上が、下宿を許さなかったらしい。
話は前後するが、H ちゃんは私の母のいとこで、母の叔父の最後の子で、私との年齢差が一歳、だから小学生時代から私達は半ば兄弟の様にして育てられた。このように書いても、なかなか判り辛いかも知れないが、祖母の兄弟姉妹の繋がりはある意味尋常でないほど強く、徒歩5分以内に4家族が住まいする家があったのである。そんなだから、私が物心つくころには、家屋はそれぞれ別乍ら大家族構成を彷彿とさせる風であった。
本題から少しずれてしまった。私達三人、R君、Y 君それに私の話題に戻す。
Y 君と私はむかいどうしということもあり、夕方から夜にかけては絶えず行き来していた。R君は隣村の在住で毎日というわけではないものの、高校生になってからはホンダのスーパーカブに乗ってやってきた。もちろん無免許なのだが、あの頃の駐在さんは、いうなら見て見ぬふりをしていてくれたのだろう。逆に私もスーパーカブでR 君の家に出かけることもあった。とりわけ定期試験の頃には、お互いに尋ねあい教えあうこともあり、行き詰ると出かけていくのである。そんなだから行き違いとなることも何度もあった筈で、今日のようにスマホで連絡を取り合っての行動は、ありえなかった。行違った場合は、私の方が彼の部屋で待つのが常で、R君のおばあさんが、山盛りのゆで卵やミカンで歓迎してくれたものである。実はR 君の家は大農家で、庭には1000羽を越す鶏を飼っていたのである。
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posted by zen at 13:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白