2020年05月31日

そんな無茶な!

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UT君のことで思い出深い一件が有る。
1994年の5月の事だったろうと思う。
ICOLSE(International Conference on Lightning and Static Electricity)が、アメリカ合衆国オハイオで開催された。雷と静電気に関しての国際会議である。私はこの会議に、1983年以来継続して出席していたので、当然その年も出席のつもりで準備していた。発表内容は、修士2年になったばかりのUT君の、電界多地点観測の成果であった筈である。私はあくまでも付き添いのつもりで、UT君の国際会議デビューを飾る予定であった。あの頃UT君当人は、まだ博士課程に進学するかどうかを決断できかねていたので、国際会議の場で外国人の仲間たちに評価をしてもらえば、本人も踏ん切りがつくだろうというのが、私の本音であった。
ところが出発の直前になって、私の出張がどうにもこうにもできなくなった。大学の委員会、電気学会の委員会がダブルブッキングで、おまけに絶縁診断の委員会にも松浦教授の代理で出張せねばならなくなってしまったのである。止むを得ず、オクラホマのマズールさんに国際電話をかけ、
「私の弟子のUT君がICOLSEに出席する。私も行くつもりだったが、どうにも行けなくなってしまった。申し訳ないが面倒を見てやって欲しい!」
とお願いした。マズールさんとは、1985年以来の付き合いで、何度か来日もしており、北陸のロケット誘雷も経験している間柄。二つ返事で引き受けてくれたので、次はUT君を呼んで
「申し訳ない。一緒に行けなくなった。マズールさんに頼んであるので、ともっく一人で頑張ってくれ!」
と因果を含め送り出した次第である。それでも会議場には毎日のように電話をして、マズールさんに様子を聞きながら、
「UTの発表内容は、非常に良かった。発表も、質疑応答もそつなくこなしていた。」
との報告を聞いたときには、我が事のように嬉しかったのを覚えている。
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2020年05月30日

弟子を叱る

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UT君は、四年生で電力工学講座に配属されてきた。当時すでに中国からのWD君が研究生という形で来日していたし、本来電力工学講座の雷観測を仕切っていた山本さんも健在であった。だからこの二人に、UT君の導入教育をお願いした。そして課題として与えたのが、雷放電に伴う電磁界変化を、高い時間同期の下複数点で記録するというテーマである。そのためには電界変化の測定とGPSの扱いに精通せねばならず、電界変化の測定は、WD君が詳しい筈だからというのが私の理解であった。大気電気学の分野で、スローアンテナとかファーストアンテナとか呼称されているアンテナ回路の製作のイロハは、空電研究所に出張して学習もしてもらった。私はといえば、レーザ誘雷とSAFIRの稼働に消耗しきっていた、といえば言い過ぎかもしれないが、ともかく時間がなかった。冬の観測が近くになった頃だったから、1993年の10月の末頃だったろうか、実験室に行くとスローアンテナの準備が全くできておらず、思わずWD君を呼んで
「準備はどうなっているんや。これでは全然間に合わへんやないか。君もやる気がないんやったら、中国に帰ったらどうや。ともかくスローアンテナの観測は、私が自分でやるから。」
と、叱責した。今にして思えば、あの頃のWD君は決して電界変化観測に精通していたわけではなく、おまけにレーザー誘雷の実験にせわしなくしていた筈で、気の毒なことをしたなぁとの反省もある。ただ結果論ながら、これがきっかけとなり、UT君が自発的に研究に関わるようになり、思わぬ成長を促すことになったのは、ある意味幸運だった。
話はそれるが、私は日頃のふるまいから学生達に厳しいと、研究室外の方々から思われているようだが、研究内容の喧々諤々はともかく、大声を上げて叱ることはめったになかった。大阪大学での24年間で、大声で学生を叱り飛ばしたのは数度、WD君に対してがその最初、二度目が今は名古屋大学で教鞭をとっているYS嬢(当時)、三度目が当時修士二年だったOY君なのである。ただOY君は、修士2年を終了して、自動車メーカーに就職していったので、私の叱責を覚えていないかもしれない。会う機会があれば、尋ねてみたいような気がしている。
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2020年05月29日

弟子三号

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弟子たちの話をしていたつもりが、話題の中心がどんどん発散してしまった。
もう一度弟子達との思い出に戻りたい。
博士号指導という意味での一番弟子は、中国からのWD君、二番弟子はWM君、その次の年度は五十音順にUT君、OJ君、KM君に加え韓国からのLJ君と4名同時に博士課程に進学して、まさに大所帯となった。先日も紹介したようにKM君は、絶縁診断・予防保全が研究主題で、他の三名は雷放電の研究である。
このうちUT君は、四年生の卒業研究配属(1992年度)で松浦研究室に配属されてきた、俗にいう内部たたき上げの博士課程学生で、大阪大学にとっては「金の卵」であった。ただ四年生の配属時には、絶縁診断・予防保全のテーマでやってきたのだが、あれこれ話し合ってみれば、くじで外れた結果の卒研テーマで
「雷放電の研究に興味がある。」
ということであった。そこで大学院入学試験後修士進学が決定した時点で、直接の指導教官として私は、松浦教授に対しての造反を試みた。松浦教授は、研究室内の研究テーマに関しては、常にバランスを考慮される方針であったのに対し、私は学生の希望に合わせ延びる方向に育てることに重きを置いていたので、造反に舵を切ったのである。
「造反」と、いささか大仰な言い回しをしたけれど、UT君はまだ四年生で何の罪もなく、卒研を始めるにあたって、私は松浦教授に
「本人は、将来博士課程にまで進学する意思があるようですし、雷放電に興味があるようですから、テーマを変えさせてもらいます。」
と願い出た。松浦教授は、少し不快感を示されたけれど
「絶縁診断・予防保全は、留学生の李さんとで、今のところ十分回っていますから。」
と付け加え、ある意味強引に納得してもらった。
ただ研究室の談話会で、他の教官が
「UT君は、絶縁診断が卒研のテーマではなかったですか?」
と、詰問され本人は浮足立っていたようだが、松浦教授の
「了解していますから。」
の一声で、この件は沙汰止みになった。
ちなみにUT君は、現在大阪大学の教授として教鞭をとっておられ、あの時の造反はあれでよかったのだと、今更ながら納得し安堵している。
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2020年05月28日

蘭州からの客

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憧れの郭昌明教授に初めて出会ったのは、1987年の事であった。
当時私は名古屋大学空電研究所に助手として勤務していた。その研究所に中国から二人の教授、郭教授と劉教授が雷放電研究のリーダーであった竹内助教授を訪ねてこられた。竹内助教授は、北陸の冬季雷に、自然の落雷としては存在が明らかにされていなかった、正極性落雷のあることを世界で初めて明らかにされた研究者であった。1970年代にドイツでの国際会議で「北陸の正極性落雷」を報告したところ、欧米の科学者からはなかなか賛同が得られなかったという苦労話もある。
その後の経緯はさておき、二人が訪ねてこられた頃には、自然の正極性落雷の存在が明らかになっていた。そして蘭州には夏季にも正極性の落雷が頻繁にありそうだということで、相談に来られたのであった。蘭州は中国のほぼ中央に位置し、海抜1500mほどあり、正極性落雷を頻繁に発生させる要因なのだろう、といった話し合いがもたれたと記憶している。
余談ながらその折、私は郭教授と話し合い、翌年の私の中国での野外観測が実現しのであるが、これはまた別の機会にでも。
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2020年05月27日

弟子一号

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WM君が、かっちゃんの時のように他の大学に在籍しながら、修論の研究に大阪大学にやってきたのは1993年の春の事であった。科学研究補助金の試験研究で、「雷放電観測のための干渉計」製作の費用を獲得していたし、確かその前年度に昇進祝いにと、当時としては優れもののワークステーションを某社から寄贈してもらっていたので、WS君をその研究の担当とした。私はといえば、1990年の冬から、フランスONERAが実用化したVHF干渉計(製品名SAFIR)の稼働に悪戦苦闘していたので、WM君が大阪大学に来てくれたのは、まさに渡りに船であった。WM君より2年ほど早く、中国の蘭州高原大気物理研究所から、今日では岐阜大学で教鞭をとっている、WDさんが博士課程に進学してきていたが、彼の場合にはレーザー誘雷やその光学観測に関わってくれていた。ちなみにWD君は私にとっては、博士号取得という意味では一番弟子である。WD君の進学に当たっては、彼の師匠である郭教授から
「博士号取得の後には、中国に帰国させてほしい!」
と、釘を刺されていたのだが、結局帰国することなく今日に至っている。
またまたの脱線になるが、郭教授は中国の文化大革命時代には、大いに苦労された方で、文化大革命の終焉とともに、米国アリゾナ大学に留学の機会を与えられた。彼の論文が米国の地球物理学会誌に掲載され、私はその論文に啓発されて、ますます「雷放電」の研究にいそしむ様になった。だから郭昌明は、ある意味私のあこがれの研究者であった。その郭教授が、米国の留学を終え、帰国して蘭州高原大気物理研究所の所長となり、同僚でライバルの劉教授と二人で、五名の若手研究者を彼らの後継として教育したのである。その一人が、WD君なのだから、帰国を条件に送り出したのも当然なのである。ちなみに残る四名の内、一人は米国に、もう一人は香港に移り住んでおり、結果的には二名が中国国内に残り、指導者となっている。
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2020年05月26日

再び弟子達の事

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1990年代の我が国は、バブル崩壊による失われた10年とも呼称される時代ながら、私にとっては実り多い10年間であったといえるだろう。名古屋大学空電研究所時代に、10年間かけて基礎固めをした「雷放電」の研究が、花開き実を付け多くの弟子を輩出できたことに加え、新しく取り組んだ絶縁診断・予防保全の研究が、比較的短期間で一応の成果を出すことができた。後者に関しては、KM君、US君それにタイからの留学生アンポール君等の頑張りに負うところが大きい。
自画自賛はさておき、弟子たちの話である。
1992年10月私は、アメリカ合衆国アトランティックシティでの国際会議に出かけた。あの頃は私も元気だったのっだろう、最寄りの飛行場から会場まで、レンタカーを借りて移動した。それもたった一人で。元気というより、若干無鉄砲だったというべきかもしれない。そしてその会議で、弟子としては二人目にあたるWM君と出会った。
WM君は関東の私立大学の修士課程学生で、先日来紹介してきたKM君の一年先輩にあたる。同じ国際会議に出席していた名古屋工大のNK教授(当時はまだ助教授だったかもしれない)から、
「河崎さん、WM君のフォロー頼むで。S教授からも伝言されてるんで・・。」
と紹介された。
「ポスター発表ですから、何とかなるかも。」
と、いささか心もとない感じで、聞けばまだ修士一年生の事、それならと「安請け合い」した。
この縁があって、WM君は翌年から内地留学という形で、修士2年関東の大学に在籍のまま、大阪大学にやってきたのである。
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2020年05月25日

弟子からの苦言

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KM 君のことを、もう少し続けたい。
関東の私立大学から、大阪大学工学部の博士課程に進学してきてくれた逸材である。
そもそも彼が進学してくるようになったのには、浅からぬ縁がある。その大学での指導教授はSさん。豪快というかワンマンというか、今日ならさしずめパワーハラスメント間違いないような御仁である。
ある学生が、便に血が混じっているので、診察に行きたいと申し出たところ
「多分痔だろう。万が一癌なら、君の歳なら進行も早く治らない。痔なら生活習慣に配慮すれば必ず治る。病院に行く暇があったら、研究せよ!」
と答えたというのである。
さて浅からぬ縁とは、Sさんはニューヨーク州北部のクラークソンの大学にサバティカル出張、その何年か後に先日紹介した山本さんも同大学に1年半のサバティカル出張しているのである。こういうご縁もあって、KM君は大阪大学に進学してきたのだが、自宅が生駒にあった。ただ転勤族の御父君は東京近郊に住んでおり、生駒の自宅は空き家同然だったので
「一人で生駒の自宅に住んでいます。」
ということであった。小学4年生頃は吹田界隈に住んでいたという話も聞いたような気がするが、これは定かには覚えていない。
ある日偶然、KM 君と帰宅が一緒になった。吹田キャンパスから北千里の駅に歩きながら話したのだが、
「河崎先生は、雷放電研究に熱心ですが、私の研究には随分と無関心みたいな気がします。」
と、チクリと刺された。私自身差別していた気はないのだが
「後輩のUS君ともよくそんな話をします。」
とも付け加えられ、耳が痛かったのを、覚えている。
研究上の議論はよくしていたつもりでも、学生諸君には
「えこひいきしている。」
と、受け取られているのだろうと、私なりにも反省したことを記憶している。
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2020年05月24日

予防保全

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弟子のことを思い出そうとすると、ついつい野外での雷観測が話題の中心になってしまう。今日はあえて、絶縁診断の話題を取り上げようと思う。何日か前にも書いたように、大阪大学工学部電力工学教室に採用の条件として、松浦教授から
「電力機器の絶縁診断や予防保全に、河崎君の得意な電波による観測を適用すること。」
を命ぜられた。そしてそのころ中国からの留学生に李さんがいて、一緒に取り組むこととなった。現場での実験という意味で、地元の電力会社の系列会社に世話になった。この系列会社には、雷の野外観測も併せて長く世話になることになり、転勤しての頃は大いに有り難かった。
さて最初に取り組んだのは、変電所構内の絶縁異常をUHF 波もしくはSHF 波を複数点で受信して、可能性のありそうな電力機器を特定しようという課題である。早い話これは、電磁波による方向探知という課題に外ならず、将来の雷放電研究の広帯域干渉計につながっていくのだから、考え様によっては、研究はそれこそ「縁は異なもの」ということになろうか。この成果は、早速というべきだろうか、1991年に早稲田大学で開催された国際会議で発表することになり、私の絶縁診断研究者としての初舞台となったのである。電磁波の方向探知そのものは、古い研究主題ながら、実用という面でいわゆる「強電」分野に応用されたのは、あの頃には目新しかったに違いない。私自身はといえば、ありふれた手法だしと、内心あまり期待していなかっただけに、専門家の諸先生の反応の良さに、
「この分野でも、十分やっていけそうだ!」
と、自信めいたものを持ったのは事実である。
李さんの研究の後を継ぐ形となったのは、関東の私立大学から博士課程に進学してきたKM君、修士学生ではUS君、さらにはタイからの留学生のアンポール君がいた。やがてKM君は、名工大、徳島大学と移り、今ではこの分野の学者として派をなしていてくれており、松浦教授との約束を十分果たし得たと、私自身は理解している。
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2020年05月23日

仲間の事

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大阪大学に転勤して数年間は、ともかく我武者羅だった。
雷観測だけでも、私自身が計画したカナダトロントでの光学観測、これは夏6月から9月、名古屋大学グループが中心であった晩秋から冬の初めにかけての、奥獅子吼でのロケット誘雷実験、松浦研が古くからやっていた雷観測、年明けから二か月間福井県と滋賀県の県境山中峠でとあり、年中研究室を留守にしがちであった気がする。ただ名古屋大学空電研究所当時と違うのは、学生に対しての講義の義務があることで、一週間は休講で切り抜けたとしても翌週には帰阪しておかねばならなかったのはある意味辛かった。
その反面有り難かったのは、松浦教授が、
「フィールドの仕事は、研究室の学生が全員手伝うこと。卒研のテーマが雷放電であろうがなかろうが・・。」
といった方針を貫いていてくださったこと、えてやん、いっちゃん、K君達と仲良くできたのも、野外観測で寝食を共にする機会が多かったからであろう。ちなみに山中峠での観測は、今は鬼籍に入られてしまった山本さんが仕切っていらっしゃった。山本さんは温厚な性格の反面、頑固一徹な一面もあり何度か衝突もしたけれど、長く良好な関係を築けたと信じている。
この山中峠の観測は、私の転勤後二冬続いたと記憶しており、私自身も何泊か観測に参加した。敦賀界隈は、冬季雷の訪れが遅く、卒業研究にその成果を盛り込もうと考えている学生諸君には、いささか酷な条件であった。研究を委託してくれている電力会社の基幹送電線が、冬季雷の被害を受けて以来だったが、やがて山中峠の観測はやらなくなってしまうのであった。というのも科学研究費でアメリカでの観測が採択され、その流れからオーストラリアダーゥインでの観測が、これまた採択され、山本さんが協力してくれることになったからである。
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2020年05月22日

えてやん、いっちゃん、K君

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私が、大阪大学に転勤したのは1989年7月、電力工学教室の講師としてであり、その後二年で助教授に昇進した。教授の松浦先生は、電力工学やパワーエレクトロニクスが主で、私に課せられたのは、本職の雷放電・高電圧の研究に加えて、電力機器の診断、予防保全に関わることであった。早い話松浦教授が定年退官するまでは、電力工学講座の一員であったということになる。それに電力会社の立場からは、落雷による被害は決して無視できるものではなく、雷放電の研究は、私にとってのみならず、所属している電力工学講座にとっても、重要なテーマであったことは間違いない。
話題は、弟子たちのことである。
直接研究指導した学生ではなかったけれど、私が「えてやん」と呼んだ学生と、その一級下に
「いっちゃん」と呼んだ学生がいた。えてやんは,本人が猿顔であることを売りにしていた(?)ことから、同級生達もそう呼んでいたので、私もついつい真似た次第である。えてやんとは一年半近く、いっちゃんとは二年半近く、同じ釜の飯を食った中である。さらにもう一人、いっちゃんと同じ学年にK君がいた。K君は、上記の二人とは違って愛称で呼びかけ難い雰囲気があり、私はさん付けで呼んでいた。えてやんといっちゃんは、ともに地元の電力会社に就職、
「同じ研究室で、一年違いやのに、若いうちはいいが40歳後半以降は、気まずい関係になったりはしないかしらん?」
なんぞと、取り越し苦労したものである。ちなみにK君は、鉄鋼関係の会社に勤務しており、その後も定期的に研究室の学生をリクルートしている。
直接の弟子ではないが、この三人とは話がよく通じ、彼らの在学中は楽しい関係だったと私は信じているが、
「彼らはどうだったのだろう?」
と、考えることもある。ただ昨日にも紹介した私を祝う会に集まってくれたので、
「悪くは思われていないのだろう?」
と勝手な理解をしている。
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