2020年09月20日

何かの縁でしょう

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私の阪大での研究生活の比較的早い頃時期に、私の研究室に在籍したNM君のことである。
彼の話をする前に、まず彼の伯父さんのことから始めねばならない。
私がまだ名古屋大学空電研究所に在職当時、電気学会の高電圧研究会で、大阪避雷針という会社の西上さんという方と知り合った。西上さんは、大阪の今宮工業高校野球部から、今はソフトバンクホークスとなっているかつての南海ホークスに投手として入団されということであった。戦後間もない頃の話だと聞いているが、結局野球人としては大成されなかったとも聞かされた。野球人としての道を断念後、避雷針の会社に活路を見出され、私が知り合った頃には、取締役を務めていらっしゃったように覚えている。私が大阪人であることと関係してか、はたまた私が野球狂だったこととも関係してか、ともかくあれこれと目をかけてくださった。
西上さんの私に対しての口癖は
「先生、大学辞めてうちの会社に来た方がええんちゃいますか?先生にはきっとそのほうが向いてますよ!」
であった。これは30歳代後半で依然として助手であった私を慮っての、大阪人特有の口説き文句だったのだろう。
私は私で、西上さんの経歴を知っていることもあって
「大学辞めるんやったら、一日で良いから野球の監督してみたい。そしたらその後大阪避雷針にお世話になりますよ。」
なんぞと、まぜっかえしたものである。実際1988年中日と西武で戦われた日本シリーズに関連して、どちらが勝利するかで賭けをして
「西武が勝ったら、オープン戦でベンチ入りさせてあげますよ。」
なんぞと言質まで取ったものであった。
この約束は当然ながら守られることはなかったけれど、それから二三年して、
「野球監督は無理ですけど、甥っ子が阪大に合格したんで、四年になったら先生の研究室にいかせます!」
と、満面の笑みで話しかけられた。
ちなみにその頃、私は大阪大学の助教授に昇進しており、
「これも何かの縁でしょう。喜んで研究指導させてもらいますよ。」
と、返事した筈である。
その後研究会で会う機会もなくなったけれど、1995年の春にNM君が
「伯父さんに、先生の研究室に行くように言われてますから。」
と、やってきたのである。聞けば西上さんは体調を崩しておられるとのこと、やがて間もなく鬼籍に入られた。かかる意味でNM君は、西上さんの置き土産となったのである。
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posted by zen at 01:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白