2022年06月30日

一年の半分終わった!

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水無月晦日
昨日も書いたように、日本では梅雨明けだそうな。
記録的に速い梅雨明けだし、記録的に短い梅雨の期間だったそうな。
だから今年の夏、日本は水不足で大変かもしれない。
この様子なら旱魃で、米のとれない地域も出てくるかもしれない。
30年程前の米の不作は、日照不足によるものだったのじゃ無かったろうか。
あの時は、日本はタイからコメを輸入した筈で、国内産のコメのおいしさに慣れている我々としては、輸入米に閉口した。ともかく今はひたすら、水不足なんぞによる飢饉とならないことを祈るだけ。
ここ数年は、豪雨による水害の報に接してきただけに、一転しての水不足は何やら不合理なものだと考えこんでしまう。
間の悪いことに、記録的な円安が進み、これなどせっせと日本銀行券を印刷して、ゼロ金利を続けている日銀総裁の所為だから、人災というべきかもしれない。友人などフェースブックに、ドルに換算すれば老後の蓄えは目減りしたそうで、
「訴えることが許されるなら、日銀総裁を訴えたい!」
なんぞと過激な言葉を上げている。
この調子だと、日本という国の存在価値はますます下がりそうだ。
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2022年06月29日

小学五年の夏 10

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日本では梅雨明けの報が、色々な地方から続いている。各地域とも、観測史上最短の梅雨だという。この記録的な梅雨の短さの因であろうラニーニャ現象は、以前として続いており、今年の日本の夏は、ことのほか暑いという予報だ。

さて1959年の夏。
母の長期入院と二つの大事件を機に、私の生活が一変したことは、何度も繰り返し述べている。
9月になって新学期を迎え、私はおばあさんの家の向かいのY君や、母の従弟にあたるHちゃんと一緒に登校するようになった。母の従弟とはいえ、Hちゃんは私より一歳だけ年上で、それまでにも遊び仲間だった筈だが、行動を一緒にする機会が増えたのは、おばあさんが、それとなくそうなるように仕向けていたのかもしれないが、今となっては知る由もない。本家筋のDちゃんや自宅迎いのYちゃんは、私に悪影響を及ぼしたわけでもないのに、おばぁさんの理解はそうだったのだろう。
母の退院を期に、もう一点私の劇的な変化がある。
私は母のことを「あぁちゃん!」と呼んでいた。伯母やおばあさんは、私が三年生になった頃、
「もうすぐ10歳にもなるのだから、ああちゃんは止めて『おかあさん』と呼びなさい。」
と諭したけれど、私が頑として譲らなかったのである。それが母の退院して来た日、おばあさんの家の居間で母のちょこんと座っているのを見て、思わず
「おかぁさん、お帰り。」
と声をかけたのである。母は私の呼びかけに、ちょっと驚いた顔をして、その後少しの間中空を見上げていた。私は五か月間母と離れて過ごしていたことになり、この五カ月が私を大いに変えてしまったのであると私は理解している。
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2022年06月28日

小学五年の夏 9

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日本では、昨日27日に一部地域ながら梅雨が明けたそうだ。このまま本当に開けたとすれば、空梅雨となる。またぞろ温暖化と騒ぐお方も多かろうなぁ。

さて時間は数日前から、1959年私が小学五年であった夏に戻っている。
この年もだが、あの頃は本当に台風が多かった。
この年の台風は、台風15号・伊勢湾台風である。あまりうれしくない記録ながら、阪神淡路大震災の起こるまで、この伊勢湾台風による死者の数が記録として残る自然災害として最高だったという。ただ私の住む貝塚は、この台風の上陸が潮岬で、台風の西側に位置していたこともあり被害は意外と少なかった。台風の来襲は9月26日で夏というより秋という方が正確だったかもしれない。ただ台風が去って世間に落ち着きが戻ってきた頃、母は退院してきた。
私が小学校から帰ると、おばぁさんの家の居間に母がちょこんと座っていた。母はあの当時の情勢としては大柄であったけれど、私にはえらく小さく感じられた。ただ何日か前から子の退院の日は大人たちの間では判っていたのだろうが、私には一切知らされていなかった。しばらくすると伯母がやって来て、
「今晩からでも、懸田で寝れそうやなぁ。おばあさんが毎日言ってくれてたんやなぁ。」
と、ねぎらいの言葉をおばあさんにかけた。
「おばぁさんと僕が毎晩泊りに行ってたにんやでぇ。」
という私のことばには耳もかさず、おばぁさんは
「今日はうちで泊まって、明日から三人で眠りに行く。しばらくはご飯はここで食べたらええんやから!」
と、話を打ち切った。
次の日学校に行くと、担任のY先生が
「善一郎、お母さんが退院して来たそうやな。良かったなぁ。何回か見舞いに行ったんか?」
と尋ねたので、一度も見舞いにはいかなかったことを告げると
「お前は薄情な子供やなぁ。何で見舞いに行かなかったのじゃ!」
またぞろ叱られてしまった。ただ真空ポンプの時のような叱り方ではなく、私を諭す叱り方であった。
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2022年06月27日

小学五年の夏 8

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自宅におばぁさんと二人で寝るようになったことと関係して、私の早寝早起きの習慣は、この頃から始まった。朝四時起床、夜九時就寝という習慣で、体調の悪いときを除いて、私が63歳で大阪大学を退職するまで続いた。
おばぁさんはそんなはやおきの私に、
「毎朝起きたら、土間を掃いてきれいにするように。」
と言って日々の役割を命じた。
私の場合、自宅で四時頃起きだして、しばらく本を読んでゴロゴロするのがつねであったが、6時となるとおばぁさんも起きだしてくるので、それから歩いて五分足らずのおばぁさんの家に行くのである。そして私はといえば、まず朝刊に目を通す癖があったのだが、そんな気儘な振る舞いは禁じられたに等しかった。
後になって私は、世話になっている家族を差し置いて、いの一番に新聞に目を通すという習慣は、居候の身にとってまことに「厚かましい」振舞であったことを認識するようになるのだが、あの当時はよく言えば天真爛漫でったというべきだろう。そしておばぁさんに感謝するのは、
「世話になっているのだから、遠慮をせよ。」
といった、ある意味卑屈な言葉を一つもかけることなく、日々の行動を通じて矯正してくれたことである。
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2022年06月26日

小学五年の夏 7

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頬を何度も叩かれたのは、確かに痛かったけれど、私はむしろ
「母が長期休職中で、このことを知らないのは助かった。」
と、心のどこかで安堵する自分を感じていた。ただこの事件は、なぜか学校では話題にもならず、それぞれの家庭に知らされることはなかった。そして次の日、何事もなかったように普段通りの授業が行われ、数日後には夏休みをむかえた。ただ壊れた模型の真空ポンプは、理科実験室の棚の所定位置に長く置かれたままで、卒業の頃になっても新しい模型には置き代わることがなかったように記憶している。
私はそれまでにもそれ以後にも、Y先生のあのような激怒は見たことがなく、
「何故あそこまで?」
と、時折思い出しては不思議であった。とはいっても、私はY先生のことを怖い先生だと恐れることもなかったし、叩かれたこで嫌いになるということもなかった。さらには、ある意味理不尽な叱られ方をしたことを認めたうえで、敢えて弁解したりしようとも考えなかった。
二つの大事件と、急に自由の無くなってしまった夏は、例年通りの暑い夏で、慣れない農作業の手伝いと、庭の草抜きに明け暮れながら過ぎて行った。夏休みの後半になって、おばぁさんは
「善一郎、今日から懸田の家で寝よう。」
と、言い出した。懸田とは私の家のあった土地の呼び名で、屋号の役目をしていたようだ。
金に糸目をつけず祖父が建てた家だけに、天井が高く夏の日中でも結構涼しかった。ただ時折、独りで行って寝ておくように、後で行くからとおばあさんから命ぜられるのには、閉口した。なんといっても一人で寝ていると、時々家のきしむ音が聞こえてきて、気味が悪かったのである。
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2022年06月25日

小学五年の夏 6

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私にとって小学5年の夏は、この歳になって思い返しても、人生の大きな曲がり角であったことは間違いなかったと思える。この二年後には母は他界し、私は天涯孤独の身となるのだが、二年間の経験が、母と別れてしまってからの、私の身の処し方に役に立ったに違いないと理解している。
さて小学5年の夏である。もう一つ大事件があった。
昼の休み時間だったと記憶しているが、理科実験室から真空ポンプの模型を持ち出して壊してしまったという事件である。言い訳をするつもりはさらさらないけれど、持ち出したのも、壊したのも私ではなかったけれど、たまたま担任のY 先生が通り過ぎたとき、持ち出した友人達が、洗い場であれこれ試しているのを眺めている私を見咎め
「善一郎、理科の実験機材で遊んだらいけん!すぐしまうように。」
と声をかけたのが発端であった。
私はあれこれ試している、S君、T君、M君に
「Y先生しまえいうてるでぇ。はよ片付けよう。」
と声をかけたのだがM君は
「善さん、すぐに片付けるから、任しといて!」
と、上の空で応えた。私はその返事で安心して、教室に帰ったら間もなくS君とT君がやって来て
「ポンプ壊した。ガラスの部分が飛んで割れたん。」
というので、急ぎ洗い場に向かった。洗い場にはY 先生が顔を真っ赤にしてたっておられた。そして最初持ち出しを提案したというM君の姿は見えなかった。Y先生は私達三人、私、S君、T君を並べ
「実験器具で遊んだらいけん言うたじゃろ!」
とだけ大声で怒鳴って、後は俗にいう「ビンタ」それも往復ビンタで三人を叩いた。今日なら体罰で問題になるところだろうが、太平洋戦争が終わって15年、教員が生徒をひっぱたくというのは珍しくはなかったのである。
いずれにしても、弁解の余地も与えずひたすら両頬をひっぱたかれた。間もなくT君は恐怖心も手伝って脳貧血を起し倒れ、誰かが保健室へ連れて行った。それでもY先生の体罰は止むことがなく、私とS君はその後しばらく叩かれ続けた。
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2022年06月24日

カレーの作り方

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小学5年の夏は今日は休んで、昨日の傑作な話題とちょっとした皮肉な主張を。
実はこの爺、知り合いのお子さん・中学二年生に数学、英語、理科の言うなら家庭教師というか、チューターというかをやらしてもろうてるんや。ほんで今テスト期間やちゅうて、昨日は主に数学の問題を解いて見せたり、解いてもろうたりや。
最後残り時間十五分ほどになって
「明日、技術科もテストあります。」
言いやって、技術の問題出してきよった。
「技術言うてもなぁ?」
ちゅうて問題観たら、ほとんど理科の生物の問題なんや。
「こらぁ、ほとんど理科やなぁ!」
ちゅうて感想言うてる間に、すらすらと答え書きやって
「家庭科もあるんやけど、それはもう良いです。」
言いやった。それで興味本位に
「家庭かて、どんな問題出るんや?」
いうて尋ねたら、
「去年は、カレーの作り方がでました。どんな野菜を買って、どういう手順でという問題でした。」
ちゅうんで、
「ボンカレー買って、電子レンジでチンする、と書いたらどないや?」
と尋ねたら、
「去年そう書いたら、真面目に答えなさいと言われました。」
とのこと、さらに
「母親に見せたら、肩で息してました。」
との落ちまで付いた。
さてここからが、天邪鬼爺の皮肉である。
近年、中学校や高校では、ディジタル辞書を奨める。書籍型の辞書は時代に合わないということなのだろう。私自身も、ディジタル辞書の便利さを知っていて、使うことが多い。ただしそれは単語帳として使うのに等しい。だから真剣に調べたいときは、昔ながらの紙の辞書である。だから古風なようながら、中高生などはまずは紙の辞書から入っていくべきと、信じている。紙の辞書で引けば、正解に至るまでにあれこれ周辺の知識も目に留まる。若い時のこういう知識の増やし方は、将来の血や肉になる。相撲でいう、稽古は三年後に効いて来るというのに、近い。野球狂の立場でいうなら、今日の投高打低は、新型コロナウィルス禍三年間の、練習不足も関係しているという説もある。こういう風な意見を主張すると
「時代が変わっているのですから。技術の進歩でディジタル辞書や、ディジタル教科書で・・す。」
と切り返す、御仁も多かろう。それならレトルト食品も解の一つとすべきでは・・・。
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2022年06月23日

小学五年の夏 5

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私は、大阪府南部に位置する貝塚市で生まれ育った。
貝塚市とは言っても市の東端に位置する、和泉山脈の支脈に近い小さな村・里山である。それこそ石を投げれば、村はずれのから始まる林にとどきそうなほどであった。そんな生まれ故郷から大阪市には、水間電車と南海電車を乗り継いで、一時間余りで行ける距離で、今日でも大阪市内に勤務して通っている人も少なくはない。
母は、夏休みと冬休みには、私を連れて大阪市内に出向き盆暮れの買い物をするのだが、まず四ツ橋にあった電気科学館に私を連れて行って、二三時間遊ばせてくれた。三年生になってからは、同い年の従姉も同行するようになり、心斎橋の大丸での母の買い物の間は、二人で展示物を観たりプラネタリウムでその日の星空を見て楽しんだ。子供の頃の母と一緒に出かけた思い出の、それもあまり多くはない思い出なのだが、ただ母の入院を期に、そんな習慣が全くなくなってしまった。そんな甘えん坊の私の思い出にとってかわったのは、おばぁさに連れられ、教えられての畑作業の手伝いや、夏草抜きの毎日で、それが小学五年の夏から始まった。甘やかされて育てられていた私にとっては、とんでもない生活一変ながら、この歳73になって思うのは
「子供ってのは、意外と環境に順応できるもんなんだ!」
ということである。私にとって運がよかったのは、私にはまだ反抗期が始まっておらず、おばぁさんが怖くて、言われるとおりに従ったことだろう。ご近所のお母さん方が
「善ちゃんは、お母さんがいないのに、おばあさんの言うことはいはい聞いてえらいなぁ。」
と誉め言葉をくださっても、私にはおばぁさんに反抗することなど、考えすらしなかった。
ついでにいうと、高校生になった頃には、おばあさんと衝突するようになったけれど、それは高校生の狡さが働いての反抗で、いずれ話す機会もあるだろうと思う。
さて小学五年の夏休み、一変した生活で日は過ぎてゆき、二三週間に一度伯母(母の姉が)、母を病院に見舞って報告にやって来た。伯母のおばあさんへの報告では、夏休み中の退院は難しく秋になってからだろうということであった。
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2022年06月22日

小学五年の夏 4

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甘やかされて育てられている私に、もともと厳しかったおばあさんであったが、温度計事件を境にさらに厳しくなった。すぐに夏休みが始まって、四六時中おばぁさんの目の届くところにいるというのも、おばぁさんには好都合だったのだろう。ともかく自由な時間が少なくなった。早朝の涼しいうちは畑に連れていかれ、おばあさんの捥いだ水茄子を畔のかごまで運ぶのが、私の与えられた最初の頃の役目だった。そのうち時折は水茄子を捥ぐこともやるようになったが、
「お前のやることは、雑だ!」
という小言が付いて回った。午前八時頃には家に戻り、朝食を食べて後しばらくは、夏休みの宿題をする時間となったものの、十日もすれば宿題はすっかり片付いてしまった。それで八月の声を聞く頃からは、午前中は自宅の庭の草抜きが日課となった。自宅は祖父が一代で財を成し、身分不相応とも思える家を建てたので、庭も広かった。家の表にも、裏にも前栽が有り、おばあさんと二人で雑草抜きをするのだが、いつまでたっても終わることがないように思われた。
「お前の抜きかたは、雑だ!」
とこれまた小言を言われながらの二三時間であったろうか。
昼食後は昼寝をしたり近くの川で水遊びをしたりすることもあったが、夕方ともなるとあれこれ手伝いを命じられた。中でも日が暮れて後、自宅の雨戸を閉めに行くのは、あまり好まなかった。小学五年生の子供にとっては大きな家で、真っ暗な家は自宅ながら何やら不気味であったのである。
温度計事件の後は、DちゃんやYちゃんと一緒になって遊ぶことは、めっきり少なくなった。その代わりというわけでもないが、おばあさんの家の向かいのY君とはすっかり仲良くなり、生涯を通じての友人となるのだが、当然この頃にはそんなことはまるで気付いてはいななかった。
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2022年06月21日

小学五年の夏 3

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夏至 沖縄では梅雨が明けたらしい。
さて今日の話題は、小学5年生の夏の続きである。
私にとって、小学5年生の夏は、母親と初めて離れて住むようになった年である。
何度もこのブログにも書いているように、我が家は母子家庭で、祖母を加えた3人家族であった。時折伯母が里帰りを兼ねてだろうか、従姉達を連れてやって来て二三日泊っていくようなこともあったが、原則三人暮らしであった。私が小学一年生になった夏休みに、母は生涯で一度だけ、一週間近く同僚の先生方と関東に旅行に出かけたことがあったけれど、私の記憶ではそれ以外はなかった筈である。老人性の痴呆症の始まっていた祖母と私だけをおいて、旅に出ることは考えられなかったろうし、まだまだ戦後の匂いも残っていて、レジャー、レジャーと言えるような時代でもなかったからでもあろう。
ただ私が小学四年生の12月末祖母が他界し、旧家でもないけれど、田舎の家を守っていかねばという緊張の糸が切れてしまったのだろう、春先あたりから母が体調を崩し、私が小学五年生になった4月半ばから、長期の入院をすることになった。そして私は「母の叔母、おばぁさん」の家で暮らすことになったのである。
甘やかされて育った私は、このおばぁさんが苦手で、ぎょろりたし目で見つめられると、身動きが取れなくなるほどであった。だからというべきだろうか、おばぁさんの家で住むようになって、私の毎日は一変した。そんな状況下での先日紹介した事件なのである。
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