2023年03月31日

日本紀行 16

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私自身の性格を、面白いと思うのは、近所の同年配の子が上手に株切ができるとおばぁさんから言われたとき
「ほな僕も上手になろう!」
と素直に考えることのできることであったろうか。
一口で株切とはいうけれど、深く掘り起こしては株がそっくり出てきてしまうのでだめだし、浅すぎではからすきを引っ張る牛がスムーズに進めないという事になるので、これまただめなのである。一反の田の株を一つずつ切っていくのだから、結構な時間になる。単純作業とはいえ、深すぎた、浅すぎたと一喜一憂しながら、秋の日のつるべ落としの日が沈む頃まで、続けたものである。私自身結構うまくできるようになったと、自画自賛したい気もあったのだが、一二年で私達の村にも耕運機が入ってきて、飼っていた牛がいなくなった。当然株切は必要なくなった。
秋の農繁期が終わると、それまでの水田が畑に代わり、当時泉州地域の名産であった玉ねぎが栽培されるのが普通だった。畑作業は中学生の手伝いとしては毎日というわけではなく、それでもたまの日曜日には朝早くから借り出されることもあった。玉ねぎの成長に応じて、畝の谷の部分の土をかいて、玉ねぎの根元にかぶせていく作業で、私達の地方では「かて」と呼んでいたような記憶がある。半世紀以上も昔の事ゆえ記憶は定かではないものの、真冬の凍てつく寒さの中での、これまた根気仕事であったのは間違いない。いずれにしても育ててもらうようになって、こういった作業は短期間に覚えこまされた。最初にも書いたように、
「近所の子に負けとうない。」
という気持ちが後押しをすることとなり、甘えたで不器用だった私にしては、うまくこなしていたと信じている。
(この稿続く)
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2023年03月30日

日本紀行 15

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もともとおばあさんは、祖母や母に対して
「善一郎を甘やかしすぎる!」
と厳しかった。だから小学生低学年までは、そのぎょろっとした眼でにらまれると、怖かったものである。ついでに言うと、伯母もよく母に
「あんた、善ちゃんを厳しくしつけなあかんで。」
と、苦言を呈していたのを、私は覚えている。つまるところ、伯父を戦争で亡くした、祖母や母にとって、跡取りの男児である私が、宝物だったのだろう。そして健康に育って河崎家を継いでほしいという願いが、私を甘やかせることになったのだろう。
そんな私が12歳の晩夏から、おばあさんの家の子になったのである。
そしておばぁさんは、それまでにも増して私に厳しくなった。
朝のお手伝い、中学校から帰って来てのお手伝いを、私に課した。
もともと朝早く起きる習慣のあった私には、朝のお手伝いの庭掃きは、文字通り朝飯前であった。
が、午後中学校から帰って来てのお手伝いは、中学生になってのクラブ活動を憧れを持って期待していた私にはつらかった。あの頃の課外活動・クラブ活動は、授業時間の一コマ分と、放課後毎日一〜二時間というのが普通であったのだが、おばあさんは農繁期ともなると
「善一郎、学校終ったら早よ帰ってこな。S家のKちゃん、今日も田んぼでお手伝いしてたで。お前より一学年下やのに、株切もうできるんやで。」
と、言った具合に放課後はすぐ帰ってくるよう促した。
ちなみに「株切」とは、稲の株をひとつずつ特別な鍬で切る作業で、当時農耕には牛にからすきを引かせて耕すので、稲の株を切っておいてやらねばならなかったのである。そしてこの株切は根気仕事ながら、まだ非力の中学生にはもってこいの作業であった。稲の株をそっくり掘り起こしてはならず、かといってあまり浅すぎると牛への負担が大きくなる。稲を刈った後の田んぼの株を、一つずつ切っていくので、根気仕事には違いなかった。そして私はその株切を教えられ、学校から急ぎ帰って単純な作業を繰り返すことになった。
(この稿続く)
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2023年03月29日

日本紀行 14

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貝塚の自宅にいると、子供の頃を思い出す。
このブログで何度も紹介しているように、私は満12歳と7ヶ月で孤児となった。幸いだったのは、母の叔母、言い換えれば祖母の妹の家庭に引き取られ、大学生になるまで育てて頂いたことであろう。12歳から20歳の8年間ということになるのだが、育てる側にしてみれば、多感な青少年時代を育て上げる苦労は、並大抵のものでなかったに違いないと、30歳になる頃からしみじみ考えるようになった。ただ育てて貰っているその時には、あれこれ葛藤もあった。それに孤児だからという僻みが、頭をもたげることも確実にある。それでも私が道を踏み外すこともなく成人し、国立大学に合格できたのは、育てる側、育てられる側にそれなりの努力があったものと私は理解している。育てられる側の努力を私自身が言うのもおかしな話ながら、そういった自覚は確実にあったし、その自覚がないようだと道を踏み外している場合が多い気がする。 とはいえ、私自身をよく頑張ったと特別視しているわけでは決してない。
母には三、四歳上の姉がいた。さらに数歳上の兄もいたが、徴兵にとられ戦死した。だから本来なら年長の姉、私の伯母が家を守らねばならねばいけないところだったのだろうが、ちょっとした手違いもあって、妹である母が跡継ぎとなってしまった。その母が亡くなってしまったのだから、これまた本来なら伯母が引き取って私の面倒を見る筈のところ、同じ町内の母の叔母の家庭が私を引き取ることとなった。母の叔母の家には、息子とその息子に嫁いできた女性がいた。私は母の叔母を「おばあさん」と呼び、息子夫婦を「兄ちゃん、姉ちゃん」と呼ぶようおばあさんから教えられた。私にかかる経費は、伯母の家がまかなっていたと記憶している。
(この稿続く)

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2023年03月28日

シンガポールの風 2

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素早く去るの三月もあと四日。
瞬くうちに、一年の四分の一が過ぎる。


昨日は久しぶりに職場に顔を出した。
CEOのアンドリューさんにあれこれ報告。
家人の具合と私の眼の具合は、いずれも気に懸けて下さっている。
一方ではご本人も
「時折胸が痛む!」
とおっしゃっていたが、これは心労からくるものだろうとは、この天邪鬼爺の直感である。気を付けて観察してみるに、素人目には悪いとは思えない。
実際昼前には、颯爽として外出なさっていたほどだから。
ただ来月半ばに精密検査をするとおっしゃっていたほどだから、ご本人には気懸かりなのだろう。
一方天邪鬼爺の観察によれば、三年間のコロナ禍で会社の資金繰りがすっかり悪くなり、さらには設備工事を主体とする会社だけに受注も目減りしてしまったよう。さらに悪かったのは、コロナ禍の直前に会社を買い戻され、大手企業の傘下から外れてしまったこと。まさか新型コロナがここまで社会を疲弊させるとは、だれも予想していなかった。
くわえて、ロシアのウクライナ侵攻。これは戦争がらみで武器産業には潤いがあるのだろうが、一般企業とりわけ設備工事をする会社には、あまりにも重い。一刻も早く侵攻の中断をと願うものの、大国の身勝手や思惑は、一般人のことを肯んじる筈もない。
いずれにしても爺の眼とCEOの胸、気懸かりは続く。
(この稿続く)
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2023年03月27日

日本紀行 13

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一時帰国から戻って、5日経った。
帰国中は、主に大阪南部の自宅に寝泊まり、柴島の病院と奈良を行ったり来たり。
実はコロナ禍の三年間の間に、電気もガスも水道も止められてしまっていたのを、昨年10月と今年1月の一時帰国を利用して、復活にこぎつけた。そんなわけで寝る前には自宅の風呂にも入れる。エアコンは動くので、暑さや寒さには対応できる。ただ問題は冷蔵庫で、これは多分使い物にはなるまい。だから廃棄処分にしなくてはならないが、現時点では持ち出すすべはなく業者さん任せとなりそう。
家電量販店を訪ね引き取りを依頼したが、
「購入していただけるなら、引き取りますが。」
との事で、今回は断念した。
もう一つの懸案は、テレビやインターネット、次回の一時帰国時には整備しなくてはなるまい。俗にいうスマホのテザリング機能で、対応はできるとはいえ、自宅にいてシンガポールのスマホでは、経済的には決して嬉しくない。
ついでと言っては何だが、故郷の山並みの写真を掲げておこう。
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(二階の寝室から南を臨む)
(この稿続く)
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2023年03月26日

シンガポールの風 1

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実は、もうすでにシンガポールに戻っている。
日本滞在中に、シンガポール在住の友人から
「雨季は終ったようで、快晴の日が続いています。」
と、連絡を頂いていた。
ところが戻ってみれば、二日目あたりからどうも雨が多い。
さすがに二月の頃のような、終日雨というのはないけれど、ワンコ達を散歩に連れ出そうとすると、いつの間にやら振り出していて、ワンコ達をがっかりさせることになる。
日本在住のY君からは
「雨が降り出す前に、行ったらええやん。」
と、コメントも届くが、熱帯のこの地で炎天下の散歩は、正直頂けない。
まぁワンコ達もそんな時刻にはとても行く気にはならないだろう。
そして今は午後二時半、雨は降らず日差しはきつい。
せめて夕方まで雨が落ちてこないように。

さて今日は大相撲春場所千秋楽。
横綱は休場、大関は途中から休場で、寂しい大阪場所ながら、大栄翔が頑張っている。もし優勝なら二度目の優勝なのに、今は小結、来場所は多分関脇になるのだろうが、大関にはまだ届かない。元大関の朝乃山は十両筆頭で好成績だけに、来場所は幕内に入る。ぜひ活躍してほしい!
(この稿続く)
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2023年03月25日

日本紀行 12

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大和路快速に戻る。
王寺を過ぎると、列車は渓谷に沿って走る。
生駒山脈と金剛山脈の合間を縫って大阪府に向かう大和川沿いである。
トンネルも二つばかり、ほどなく大阪平野の東端となり、風景が一変する。
確かに田畑も見えたりはするが、住宅が多く工場らしき建屋もある。一つ山を越しただけなのに、人口密集具合がかくも違うものかと、改めての認識となる。
そんな奈良県から、私の住む大阪南部の里山に、今では半世紀を越す親友のY君がやって来た。
「奈良県からやって来たらしい。」
とは知らされていたけれど、今思い出しても垢抜けした街の子という感じであった。
だから何となく近づきがたい反面、我々田舎の子にはありがちな、
「引っ越してきたよその子には意地悪を!」
したい気持ちを抑えるのが難しかった。
おばさんという人が、Y君を紹介してくれて
「仲良くしたってや!」
と言われたときは、考えていることを見透かされているようで、思わず
「うん分かった。」
と答えてしまった。早い話意地悪をする機会をなくしてしまった。
当時私はそのY君のやって来た家から200m程離れた家に住んでいたのだが、二年後の小学五年になって私が向かいに移り住み、親しくなった。
小学校は一学年二クラスなのに、一度も同じクラスになったことはなく、だから登下校は小学生の間は、あまり一緒になった覚えがない。
これが中学校に進級すると、一緒に通いだすようになったのだから不思議なものである。何がきっかけだったのかは、全く思いあたらない。ともかく卒業までの三年間は、どちらかが病気で休まない限りは、少なくとも登校時は一緒だった。(この稿続く)
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2023年03月24日

日本紀行 11

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電気系三学科の五十音名列の前半と後半を、それぞれ一クラスにして講義を受ける形がおおよそ半分以上もあったろうか。そんなわけで新しいクラスメートと一緒に行動することが多くなった。通信工学科、電子工学科は昔でいう弱電あるいはエレクトロニクスが主であったのに対し、電気工学科は強電の科目が多く、そんなことも関係してだろうか、通信工学科の仲間に加え、電子工学科のA君、I君とはなぜか気が合い、麻雀仲間となった。麻雀そのものは京橋に通いだした頃、GM君に連れられて雀荘に行き、覚えることを強制とまではいわなくとも、
「一人足りないから、座って適当にやっていたら覚えるから。」
といった調子で、雀卓に座らされて、結果的には覚えてしまったというのが正直なところであった。講義が石橋キャンパスに移ると、阪急石橋駅前の雀荘を誰かが探してきて、ちょっとした時間があると、雀卓を囲むようになった。
そんな中でも記憶に残っている思い出は、石橋キャンパスイ号館でなんかの講義を受けていたら、麻雀仲間がやってきて
「手ぇたらへんね、貸してくれるか?」
と誘うので、講義自体はあまり面白くなかったこともあって、教室の外に出たら、
「これであと二人や!」
と、白状され大笑いしたことである。
さて私に無理やり麻雀を覚えさせたGM君の事である。
彼はある意味「理論家」で、運動にせよゲームにせよ、とにかく入門書を漁って覚えるといった具合。遊び以外にも受験生時代には、物理の成績が伸びなくて困っていたら、
「参考書を丸ごと写し書きしながら、理解するんや!」
と教えられ、目からうろことなったことを覚えている。この件に関しては、いまだに感謝の気持ちが絶えずにいる、何ぞというと、大いに青臭い思い出だろうか。
(この稿続く)
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2023年03月23日

日本紀行 10

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半世紀昔の思い出に戻る。
大学には入学したけれどといった状態が半年ほどいた10月初旬、大阪大学にも機動隊が入って、強制的に封鎖解除が行われた。私はその日、中之島の松下講堂の封鎖解除を見にでかけた。大阪大学の立場は、
「あくまでも封鎖解除は、教職員の手で。機動隊は見守るだけ!」
という事で、機動隊の隊列が作る空間を、教職員が進むといった具合であった。私は心情的にはどちらにも味方したいという、極めてあいまいな態度で、当時の言葉でいうならノンポリという事になるのだろうか?活動派の知り合いからは、
「機動隊には絶対逆らうな。逮捕されると後々面倒になる。」
と教えられていたし、大学当局側の知り合いからは、
「後ろの付いて行くだけでええんや。運び出すもんがあったら手伝うだけでいい。絶体に前面には立つな!」
と教えられていた。
封鎖している学生側からは、石が時折飛んでくる程度で、東京大学安田講堂の時の封鎖解除のような華々しい(?)立ち回りなどなく、機動隊に囲まれながら進む教職員によって、松下講堂はあっけなく封鎖解除されてしまったのには、本当のところ拍子抜けであった。それでも石橋地区は完全に封鎖解除にはならなかったようで、私達の講義は吹田地区に移転した京橋の工学部あとで開始の運びとなった。それでも最初は二日に一回の変則日程で、何やら実の入りにくい大学生生活を経験することになった。私達の講義は、電気系三学科電気・通信・電子120名をひとまとめとして受講する分と、それを半分の60名ずつとして受講する二つの形式であった。ただこういった変則日程の講義では、効果の上がらないことも事実で、年が新たになる頃には、石橋地区での講義が再開され、ようやく自宅から阪急宝塚線の石橋まで通う事になった。
(この稿続く)
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2023年03月22日

日本紀行 9

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JR大和路快速で、奈良盆地を奈良から王寺に向かっている。
奈良と言えば、中学生や高校生時代に東大寺、薬師寺なんぞを遠足で巡ったくらいで、ほとんど知らなかったというのが正直なところ。
前日の雨もあがり、早春の日の光が温かさを取り戻し、車内はそれなりに心地よい。
それにしても列車の窓から見える両側の奈良盆地は、田畑ばかりで、古希を越えてようやく
「奈良県は農業県だったのだ!」
との認識を新たにする始末である。
それにしてもというべきだろうか、この奈良の地にわが国最初の都がおかれたというのは、いったいどうしてなんだろう。奈良愛の強い家人は
「奈良は地震にも台風にも、影響を受けないから!」
とうそぶくけれど、柔らかな山並みにもあるのだろうとは私の理解。
都造りに影響を及ぼしたであろう半島からの渡来人達は、この山並みに郷愁を感じたに違いない。20年以上も昔に訪れた旧百済の熊津が、大和三山を彷彿させた時以来、渡来人たちの郷愁説を私は勝手に信じている。
ついでに言うと、これまた20年ほど昔に、雷観測のためサンパウロを訪問
「昔日本人がこの地に多く移住したのは、この風景に日本の原風景を感じたからではないのか?」
と、考えたこととも私の中では無縁ではない。
(この稿続く)
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