半世紀昔の思い出に戻る。
大学には入学したけれどといった状態が半年ほどいた10月初旬、大阪大学にも機動隊が入って、強制的に封鎖解除が行われた。私はその日、中之島の松下講堂の封鎖解除を見にでかけた。大阪大学の立場は、
「あくまでも封鎖解除は、教職員の手で。機動隊は見守るだけ!」
という事で、機動隊の隊列が作る空間を、教職員が進むといった具合であった。私は心情的にはどちらにも味方したいという、極めてあいまいな態度で、当時の言葉でいうならノンポリという事になるのだろうか?活動派の知り合いからは、
「機動隊には絶対逆らうな。逮捕されると後々面倒になる。」
と教えられていたし、大学当局側の知り合いからは、
「後ろの付いて行くだけでええんや。運び出すもんがあったら手伝うだけでいい。絶体に前面には立つな!」
と教えられていた。
封鎖している学生側からは、石が時折飛んでくる程度で、東京大学安田講堂の時の封鎖解除のような華々しい(?)立ち回りなどなく、機動隊に囲まれながら進む教職員によって、松下講堂はあっけなく封鎖解除されてしまったのには、本当のところ拍子抜けであった。それでも石橋地区は完全に封鎖解除にはならなかったようで、私達の講義は吹田地区に移転した京橋の工学部あとで開始の運びとなった。それでも最初は二日に一回の変則日程で、何やら実の入りにくい大学生生活を経験することになった。私達の講義は、電気系三学科電気・通信・電子120名をひとまとめとして受講する分と、それを半分の60名ずつとして受講する二つの形式であった。ただこういった変則日程の講義では、効果の上がらないことも事実で、年が新たになる頃には、石橋地区での講義が再開され、ようやく自宅から阪急宝塚線の石橋まで通う事になった。
(この稿続く)

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