私が大阪大学で工学博士の学位を取得し、一年の研究生生活という就職浪人を経験して、名古屋大学空電研究所に籍を得たのは、本当に幸運だったと思う。
博士課程に進学するにあたって、指導教授の故熊谷教授からは
「大学教官への就職の世話は、保証できないよ。」
と念を押され、それでもゲーヤンと私は進学した。そして自分達でいうのもおこがましいながら、二人とも規定の三年間で博士課程を終えることになった。二月初旬の学位公聴会が終わっても、指導教授からは当然のように就職先の話しは出なかった。当時私は大阪市内の進学予備校で数学の授業を受け持っており、その実入りが結構良かったので、一年か二年は我慢できるだろうと気楽に考えていた。いずれにしても我々二人は、一般企業に就職するつもりはさらさらなく、当然のことのように二人とも就職浪人となった。だからゲーヤンも私もその年の四月には、所属していた研究室の研究生となった。今日ならインターネットで教員公募の情報が流れるけれど、当時は大学教員公募の案内は、関連学術雑誌での広告か、指導教授を通じての斡旋ぐらいしかなかった。そして私達の属していた研究室には、二年先輩と一年先輩の二人が就職浪人を続けており、我々二人を加えると四月からは四名の研究生を抱えることとなった。
私は、毎月届く電気学会や電子情報通信学会で、大学教員公募の欄を読み漁ったものである。そしてその年1978年の九月号だったと思うのだが、名古屋大学の空電研究所が
「環境電磁工学(EMC)の研究に取り組む意思のある者」
との公募を出しているのを見つけた。ただ環境電磁工学という研究主題にはとんと疎く、電気系図書室でIEEE(米国電気電子学会)の分冊にElectro Magnetic Compatibility(EMC)というのを見つけだし
「あぁ、これだ!」
と理解した。早速指導教授に
「応募したいと思うのですが。」
と相談に行ったら、
「一年上の先輩が応募したいといっている。君が応募するのは止め立てしないが、推薦状は先輩にしか書けないよ。」
と念を押され、それでも応募しますと応えて教授室を後にした。

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