阪神淡路大震災から30年と2カ月。
ブログにも何度かあげたが、その日に私は関西空港を発ってシンガポール経由で、ジャカルタに向かった。1995年1月17日のことである。
ただ本来なら正午過ぎに離陸する筈のシンガポール航空機が、離陸したのが夕闇迫る午後5時過ぎであった。当然乗り継ぎ便は既にシンガポールを出発しており、
「乗り継ぎ便に乗れなかったお客様は、ホテルで一泊していただき、明日の便を用意いたします。」
という事で、真夜中のシンガポール着、そのままオーチャッドのホテルにチャーターバスで運ばれた。バスの窓から見るオーチャッド界隈は、旧正月を控えてのイルミネーションが、結構派手に輝いていたが、ホテルに到着して長い一日だったこともあって、翌朝まで一気に眠った。
翌早朝にはフロントから電話があり
「チャーターバスが迎えに来ますから、朝食を早めに済ませてください。」
との事、午前9時頃だったろうか、ホテルを後にした。
この間全くうといことに阪神の惨状を確認する知恵も回らず、ともかく12時間以上遅れて到着したジャカルタのホテルで、愛知工業大学のYさんと引継ぎを行った。
あの頃は名古屋大学チームの主導で、ボゴール郊外のプンチャ峠で、ロケット誘雷実験を行っており、私もその一員であったのである。
引継ぎの際Yさんの第一声は
「河崎さんよう来たねぇ。来れないとばかり思っていて、自分の帰国は遅れるだろうと、諦めていたんだよ。」
で、その時初めてすでに亡くなった方つまり震災の犠牲者が3000人を超していると知ったのだった。

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