2020年01月18日

思い出話 3

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中日ドラゴンズの名二塁手高木守道さんの訃報、現役の頃には「いぶし銀」といった評価もあり、中日のファンでもない私ながら好きな選手であった。享年78歳 合掌

昭和44年(1969年)、大学には入学したものの,講義はなかなか始まらない。
それでも10月も終わりになった頃、京橋に有った工学部の旧校舎を使って一日おきの講義が始まった。一日おきの講義だけに、多くの同級生達は、容易には大学生としての自覚を持てなかったというのが実際のところだったろうか。それに授業開始までには入学後7か月も経っており、遊び慣れてしまったというか、アルバイト慣れてしまったというかの状態では、真剣に勉学するといった雰囲気はほとんどなかった。私はといえば、R君の大学について行って講義に参加したり、Y君の出張について行ったりと、20歳の春を気ままに謳歌していた。高校生、受験生の頃に比べ当然行動範囲も圧倒的に広くなり、南は和歌山から北は滋賀県湖東辺りまで、とりわけ名神高速道路をY君の運転する車で茨木ー高槻間の長い直線の下り坂を疾走したときには、絵も言えぬくらいに感動したのを覚えている。そして栗東という地名は、なぜか心に長く残るのだが、いまだにその理由は分からないでいる。
R君との行動で覚えていることの一つに、中学の時に臨時教員で来られた先生の御自宅を訪ねて行ったことがある。御自宅は和歌山市の繁華街の近くにあり、R君の家の近くに嫁いで来られていたが、そのころは離婚されて実家に戻っていらっしゃった。R君がどうしてそのことを知っていたのか、どうして実家を探し当てたのかは謎である。あの日は講義にもぐりこんだ後
「善さん今日はクラブの練習無いねん。行きたいとこあるんでついて行ってくれるか。いや和歌山市内なんや。」
ということで、私はついて行ったのである。
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posted by zen at 11:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白
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