私にとって小学5年の夏は、この歳になって思い返しても、人生の大きな曲がり角であったことは間違いなかったと思える。この二年後には母は他界し、私は天涯孤独の身となるのだが、二年間の経験が、母と別れてしまってからの、私の身の処し方に役に立ったに違いないと理解している。
さて小学5年の夏である。もう一つ大事件があった。
昼の休み時間だったと記憶しているが、理科実験室から真空ポンプの模型を持ち出して壊してしまったという事件である。言い訳をするつもりはさらさらないけれど、持ち出したのも、壊したのも私ではなかったけれど、たまたま担任のY 先生が通り過ぎたとき、持ち出した友人達が、洗い場であれこれ試しているのを眺めている私を見咎め
「善一郎、理科の実験機材で遊んだらいけん!すぐしまうように。」
と声をかけたのが発端であった。
私はあれこれ試している、S君、T君、M君に
「Y先生しまえいうてるでぇ。はよ片付けよう。」
と声をかけたのだがM君は
「善さん、すぐに片付けるから、任しといて!」
と、上の空で応えた。私はその返事で安心して、教室に帰ったら間もなくS君とT君がやって来て
「ポンプ壊した。ガラスの部分が飛んで割れたん。」
というので、急ぎ洗い場に向かった。洗い場にはY 先生が顔を真っ赤にしてたっておられた。そして最初持ち出しを提案したというM君の姿は見えなかった。Y先生は私達三人、私、S君、T君を並べ
「実験器具で遊んだらいけん言うたじゃろ!」
とだけ大声で怒鳴って、後は俗にいう「ビンタ」それも往復ビンタで三人を叩いた。今日なら体罰で問題になるところだろうが、太平洋戦争が終わって15年、教員が生徒をひっぱたくというのは珍しくはなかったのである。
いずれにしても、弁解の余地も与えずひたすら両頬をひっぱたかれた。間もなくT君は恐怖心も手伝って脳貧血を起し倒れ、誰かが保健室へ連れて行った。それでもY先生の体罰は止むことがなく、私とS君はその後しばらく叩かれ続けた。

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