頬を何度も叩かれたのは、確かに痛かったけれど、私はむしろ
「母が長期休職中で、このことを知らないのは助かった。」
と、心のどこかで安堵する自分を感じていた。ただこの事件は、なぜか学校では話題にもならず、それぞれの家庭に知らされることはなかった。そして次の日、何事もなかったように普段通りの授業が行われ、数日後には夏休みをむかえた。ただ壊れた模型の真空ポンプは、理科実験室の棚の所定位置に長く置かれたままで、卒業の頃になっても新しい模型には置き代わることがなかったように記憶している。
私はそれまでにもそれ以後にも、Y先生のあのような激怒は見たことがなく、
「何故あそこまで?」
と、時折思い出しては不思議であった。とはいっても、私はY先生のことを怖い先生だと恐れることもなかったし、叩かれたこで嫌いになるということもなかった。さらには、ある意味理不尽な叱られ方をしたことを認めたうえで、敢えて弁解したりしようとも考えなかった。
二つの大事件と、急に自由の無くなってしまった夏は、例年通りの暑い夏で、慣れない農作業の手伝いと、庭の草抜きに明け暮れながら過ぎて行った。夏休みの後半になって、おばぁさんは
「善一郎、今日から懸田の家で寝よう。」
と、言い出した。懸田とは私の家のあった土地の呼び名で、屋号の役目をしていたようだ。
金に糸目をつけず祖父が建てた家だけに、天井が高く夏の日中でも結構涼しかった。ただ時折、独りで行って寝ておくように、後で行くからとおばあさんから命ぜられるのには、閉口した。なんといっても一人で寝ていると、時々家のきしむ音が聞こえてきて、気味が悪かったのである。

クリックして投票を!