貝塚の自宅にいると、子供の頃を思い出す。
このブログで何度も紹介しているように、私は満12歳と7ヶ月で孤児となった。幸いだったのは、母の叔母、言い換えれば祖母の妹の家庭に引き取られ、大学生になるまで育てて頂いたことであろう。12歳から20歳の8年間ということになるのだが、育てる側にしてみれば、多感な青少年時代を育て上げる苦労は、並大抵のものでなかったに違いないと、30歳になる頃からしみじみ考えるようになった。ただ育てて貰っているその時には、あれこれ葛藤もあった。それに孤児だからという僻みが、頭をもたげることも確実にある。それでも私が道を踏み外すこともなく成人し、国立大学に合格できたのは、育てる側、育てられる側にそれなりの努力があったものと私は理解している。育てられる側の努力を私自身が言うのもおかしな話ながら、そういった自覚は確実にあったし、その自覚がないようだと道を踏み外している場合が多い気がする。 とはいえ、私自身をよく頑張ったと特別視しているわけでは決してない。
母には三、四歳上の姉がいた。さらに数歳上の兄もいたが、徴兵にとられ戦死した。だから本来なら年長の姉、私の伯母が家を守らねばならねばいけないところだったのだろうが、ちょっとした手違いもあって、妹である母が跡継ぎとなってしまった。その母が亡くなってしまったのだから、これまた本来なら伯母が引き取って私の面倒を見る筈のところ、同じ町内の母の叔母の家庭が私を引き取ることとなった。母の叔母の家には、息子とその息子に嫁いできた女性がいた。私は母の叔母を「おばあさん」と呼び、息子夫婦を「兄ちゃん、姉ちゃん」と呼ぶようおばあさんから教えられた。私にかかる経費は、伯母の家がまかなっていたと記憶している。
(この稿続く)

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