2023年03月30日

日本紀行 15

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もともとおばあさんは、祖母や母に対して
「善一郎を甘やかしすぎる!」
と厳しかった。だから小学生低学年までは、そのぎょろっとした眼でにらまれると、怖かったものである。ついでに言うと、伯母もよく母に
「あんた、善ちゃんを厳しくしつけなあかんで。」
と、苦言を呈していたのを、私は覚えている。つまるところ、伯父を戦争で亡くした、祖母や母にとって、跡取りの男児である私が、宝物だったのだろう。そして健康に育って河崎家を継いでほしいという願いが、私を甘やかせることになったのだろう。
そんな私が12歳の晩夏から、おばあさんの家の子になったのである。
そしておばぁさんは、それまでにも増して私に厳しくなった。
朝のお手伝い、中学校から帰って来てのお手伝いを、私に課した。
もともと朝早く起きる習慣のあった私には、朝のお手伝いの庭掃きは、文字通り朝飯前であった。
が、午後中学校から帰って来てのお手伝いは、中学生になってのクラブ活動を憧れを持って期待していた私にはつらかった。あの頃の課外活動・クラブ活動は、授業時間の一コマ分と、放課後毎日一〜二時間というのが普通であったのだが、おばあさんは農繁期ともなると
「善一郎、学校終ったら早よ帰ってこな。S家のKちゃん、今日も田んぼでお手伝いしてたで。お前より一学年下やのに、株切もうできるんやで。」
と、言った具合に放課後はすぐ帰ってくるよう促した。
ちなみに「株切」とは、稲の株をひとつずつ特別な鍬で切る作業で、当時農耕には牛にからすきを引かせて耕すので、稲の株を切っておいてやらねばならなかったのである。そしてこの株切は根気仕事ながら、まだ非力の中学生にはもってこいの作業であった。稲の株をそっくり掘り起こしてはならず、かといってあまり浅すぎると牛への負担が大きくなる。稲を刈った後の田んぼの株を、一つずつ切っていくので、根気仕事には違いなかった。そして私はその株切を教えられ、学校から急ぎ帰って単純な作業を繰り返すことになった。
(この稿続く)
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posted by zen at 12:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白
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