30年も昔のことなので記憶はやや曖昧だが、最初の博士課程学生はダオホン君で、その後にマサカズ君、さらにトモオ君、ジュン君、マサタケ君、ジョンホウ君と続き、次の世代としてレディさん、サッチちゃん、アンポン君、エフリナさんらが加わったと記憶している。ただし、大阪大学に学部から入学して修士・博士と進んだのはトモオ君だけで、他の弟子たちはすべて他大学から大阪大学の修士課程に進学してきた人材であった。それでも誇らしく思うのは、外国人の弟子が全体の半数近くを占めていたことである。今日では珍しくないかもしれないが、当時としてはやはり異例だったに違いない。
直接の弟子ではないが、トモオ君の二、三年上の学年にツヨシ君がいた。彼は幸運(あるいは不運?)にも博士課程在学中に助手の籍を得ることになった。というのも、彼を直接指導していた助手のノリユキさんが他大学の助教授に昇進したためである。今日では学位をとる前に助教(当時なら助手)の職を得ることはまず考えられないが、1990年代当時はまだそうしたこともあった。しかもツヨシ君は学部4年生時の卒業論文が電気学会誌に採択されており、教授のケンジ先生の大きな期待を背負っての任用だった、と私は記憶している。
とはいえ学生仲間だったツヨシ君が、翌日から「ツヨシ先生」と呼ばれるようになったのは、本人にとって必ずしも幸いではなかった。厳しく言えば「思い上がり」、あるいは「背伸び」が見え隠れするようになったのである。研究室の談話会でも、学生の発表に対して常に上から目線でコメントする姿が目立った。そのせいかは断定できないが、同時期のマサカズ君、トモオ君、ジュン君、マサタケ君らが次々と学位を取得していく中で、ツヨシ君は学会誌への論文採択が得られず、博士号への道は遠ざかるばかりだった。焦燥感は同じ研究室にいた私にもよく伝わってきた。
ただ、彼は電力システムが専門でありながら、雷放電観測にもよく協力してくれた。オーストラリア・ダーウィンにも二度三度と同行してくれたことを思い出す。そうした努力を見ていたからこそ、ある朝、私は自分の経験談を交えて助言をした。
「学術論文は小手先では採録されないよ。私は大学院時代、直接の指導者だったカヅオさんからこう言われたんだ。『善さん、博士課程に進むなら基礎を自分で固めないといけない。我々の場合は電磁理論だから、ストラットンやハリントンを徹底的に理解しなさい。そのためには毎日2時間、誰にも邪魔されない時間を決めて教科書を読み込みなさい。』私はそれを守り、毎朝一番に研究室に入って2時間集中した。その積み重ねが今につながっている。あなたも電力システムの名著、できれば洋書を腰を据えて読んでみたらどうだろう。」
以来、ツヨシ君は心を入れ替えたように研鑽を重ね、2年ほどの間に関連学術誌への採録を実現し、ついに工学博士の学位を得た。だから本人がどう考えているかはさておき、私にとっては確実に「弟子のひとり」であると信じている。
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