2020年04月06日

思い出話 61

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
意気揚々で始まった自主講座は、一月もしないうちに立ち消えになってしまった。それでもすっかり気の合うようになった数人は、週に一二度はN教授のところに集まるようになっていた。集まったところで、何かすることがあるわけではなかったけれど、ともかく集まっていたのである。そして六月のある日N教授は
「アルバイト代わりに、君ら阿波座にある技術試験所に行ってみるか?コンデンサーの性能試験に、学生アルバイトがいるらしい。はんだ付けくらい皆出来るやろ?」
と、希望者を募った。そして希望した4名は次の日からおおよそ二か月半ほど試験所に通うことになった。作業は極めて単純で、抵抗、コンデンサを千個以上も並べてはんだ付けし、電圧をかけて恒温箱に入れ、摂氏200度程度だったろうか、の高温の中で数日間放置し、取り出して一つ一つ劣化具合を調べ、またはんだ付けして恒温箱に入れて数日間放置という繰り返しである。ちなみにこの期間中に、アポロの月面着陸があって、休憩時間にはその話で大いに盛り上がったものである。なおこの時の仲間とは、大学を卒業するまで行動を共にすることが多かった。
話は変わるが、N 教授は何故か私のことを、いつの頃からか
「河内の善やん!」
と呼ぶようになった。だから私は何度も
「河内ちゃいます。泉州です。」
と、訂正したのだが一二か月もすれば、またまた河内の善やんになってしまうのであった。そのN教授も数年前には鬼籍に入られ、今となっては懐かしい思い出である。
このN教授とはもう一つ思い出がある。
それはいよいよ卒業が迫った来た、4年生の時のことである。学園闘争の最後の波で、私達の学年は、4年生の後期の学年末試験で、何十単位も取らなくてはならない事態を招いていた。とりわけタカ派だった電子工学科のO教授は、私達にはことのほか厳しく、私は前期の試験問題を完答した筈なのに、不可をつけられた。O教授のその科目の単位がなくても、私は卒業できるだけの単位が揃いそうだったけれど、N教授は
「善やんO先生のところに行こう!」
と私を連れて行ってくれて、
「O先生、この男左翼違います。河内の善やんいうて、通信校学科のまとめ役ですねん。O先生、こいつストライキの時取りまとめ役しとっただけですんで。」
と、紹介とも言い訳ともつかない説明をしてくださった。
そのおかげなのだろう、追試となった後期試験の成績は見事に優であったのである。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 00:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年04月01日

April Fool

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
今日は、April fool である。
だからといって、今日の内容が「嘘」という分けでは決してない。
まぁどこぞの国の総理大臣の答弁は、嘘も結構多いちゅう話やけど、今日の話はわいの愛犬アリスの話しや。
三日ほど前の明け方のこっちゃ。
何やら苦しそうにして、ベッドから飛び降りて、えずきよるねん。
早い話、げろしそうな感じやねん。
ゲホ、ゲホちゅうて、ほんまにしんどそうやった。
ほんでもどすかなぁと心配しとったら、ほとんど出かけとんのに、そのまま飲み込んでしまいよった。ほんでともかく収まったんで、
「まぁええか。それにしてもなんやねん?」
とちょっとだけ気懸りが残ったんや。
ほんで次の日の明け方や。またまたベッドから飛び降りよって、ゲホ、ゲホやり始めたんや。わいも二日目だけに、今度は気合入れて、ゲホ、ゲホに合わせて背中こすっちゃった。犬も人間と同じでえんかどうかは知らんけど、背中から口に向かってなでたったんや。
ほんならとうとう吐きよって、また飲み込もうとしよるけどそれは止めたんや。
よう見たらえろう細長うて、10センチほどあったかな。
それを取り上げてみたけど、どう見ても植物や。
「アリス何喰うたんや?」
ちゅうて尋ねても答えるわけない。
本犬はげろしてすっきりしたんか、ケロッとして盛んに尻尾振っとる。ほんでベッドに飛び乗ってそのまま寝よった。まぁこれで一安心やけど、わいはげろしたんが何か知りとうてじっと見て見た。どう見ても植物やでこれは・・。
「アリス、犬族はこんな職太消化できへんねから、もう食うたらあかんで。」
と声をかけておいた。
それにしてもネギかなぁちゅうて考えとったら、かみさんが
「それ蘭の葉っぱちゃいますか?」
といいよったけど、それにしては太いやないか。
ほんであれこれ考えた末の結論は、
「多分、バナナの皮や!」
ちゅうこっちゃ。しかしげろしてよかったで。下手したら腸閉塞もんや!
ほんで昨日、会社で犬のことよう知ってる同僚に尋ねてみたんや。そしたらなんと
「善さん、うちの大型犬はソックスの見込みよって、その晩げろしよった。獣医に聞いたら、戻さなかったら開腹手術ということやった。」
と教えてくれた。何を飲み込むかはともかく、ようある話らしいんや。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 10:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年03月26日

思い出話 59

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
私とおばぁさんは、病室で不安な夜を過ごした。
本来ならJさんの妻のEさんも付き添うべきだろうが、小学3年生と幼稚園年長の子供がいてということで、事態が変わったら知らせるという約束で、夜中すぎに帰って行ったのであった。
ともかく長い夜であった。
主治医は一時間おきに様子を覗きにきて、明け方の検診時に
「かなりの出血ですし、外に出たということは、多分脳内には出血がないと考えれますので、一命はとりとめられるでしょう。」
と、つぶやくように教えてくれた。
それを聞いたおばぁさんは
「善一郎、ご苦労さんやったなしばらく横になり。」
と私に仮眠を奨めた。
仮眠だけに眠りも浅く、午前七時前に目が覚めた。
ただこの騒動で、私はすっかり和歌山県立医大への入学手続きのことを忘れてしまった。
私に医学部行きを願っていたおじいさんですら、すっかりだったのである。
そしてそのことを思い出したのは、午後3時も過ぎた頃だったろうか。確かにこれは自分の不注意といえば不注意だったのだろうが、一大事が影響していたことも言うまでもない。だから結果としては、私は医学部行きをあきらめざるを得なかった。
「まぁこれで迷うこともなくなった!」
と、私は自身に言い聞かせた。

lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 00:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年03月25日

思い出話 58

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
私学は理学部、一期校は工学部、そして中間校の和歌山県立医大と、入り滅裂な受験をした浪人一年目は、すべてに合格し、いささか悪乗りしてG君と
「二期校の静岡大学受験に行こうか?」
なんぞと、話し合ったりして我々はある意味絶頂期にあった。ちなみにG君とは、学科まで同じだった。
ところが事態は一変する。
私を親代わりに育ててくれていたおばぁさんの息子、私が兄ちゃんと呼んでいた人が、交通事故を引き起こし、瀕死の重傷を負ったのである。
瀕死の重傷を負った日の翌日が、和歌山医大の入学手続きの最終期限の日であった。
おじいさん達は、
「医学部に通ったんやさかい、工学部に行かんと医者になれ!学費は何とでもする。」
と盛んに私をけしかけていた。おじいさんは、貝塚の駅前で薬局を経営していて、経済的にも安定したいたからであろう。だから私も、決定はぎりぎりまでと考えていたのは事実で、
「明日手続きにだけは行こう。」
と思案していた。
いつものように10時頃うとうとし始めたところへ、おばぁさんがやって来て
「善一郎、起きてくれるか。Jが事故起こして、K病院に運ばれたらしい。今から一緒に行ってくれるか。」
と私を起こした。
これは一大事と、私はおばあさんを、スーパーカブの荷台に乗せK病院に急いだ。
そして病室に入って主治医の話を聞いたとき、事態の深刻さを認識した。
「今晩が山です。」
というほどの、瀕死の重傷だったのである。主治医の説明では、カーブの先に駐車してあった、トラックの後部に激突したらしいというのである。それも単車に乗っていての激突だというのであった。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 08:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年03月24日

思い出話 57

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
私学は、西宮にある大学の理学部を受験した。
この大学も、学園闘争の煽りを食らって、機動隊に守られてという厳戒態勢の下の受験であった。受験会場は大きな体育館みたいなところで、入学試験の実施を認めないという学生たちの集会が行われていて、受験会場への入り口は騒然としていた。
国立大学の一期校は、大阪大学の工学部を受験した。
入試の前日、いささか心を動揺させる出来事があった。
それは岸和田高校から一緒にY予備校に通っていたS君が、G君と私に、いかにも唐突に
「俺実は在日やねん!」
と、言い出したことである。
私は一瞬
「こいつ何言うてんね!」
と、意味が分からなかったけれど、
「岸高で、本名で呼んで欲しい言うても、聞いてもらえへんかったんね。これからは韓国名のHと呼んでくれ。」
と続けたので、ようやく腑に落ちた次第である。
試験会場は、これまた学園闘争の煽りを受けて、大学構内ではなく、大阪市内の予備校であった。だからというわけでもないが、この年は貝塚の家から受験上に通うことになった。それにもし大学構内で入試が実施されていたとしても、工学部受験ゆえ箕面の親類からは通うのもあまり便利ではなかった。
入試の初日は前夜から降り続いた雪で、開始時刻が一時間近く遅れるという予想外の展開であったが、例の赤いセーターを着て無事二日を終えることができた。
中間校は、和歌山県立医大の受験で、何やら支離滅裂のであったが、
「医者になって欲しい!」
という、祖母の弟(私は爺さんと呼んでいた)の希望もあっての受験であったのである。
そしてこの年、私は三校とも合格することができたのだが、好事魔多しとも言えそうな事件が起こるのである。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 00:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年03月23日

思い出話 56

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
予備校生の一年は短い。
実質、4月中旬から12月中旬までみたいなものだから、8か月というべきだろうか。ともかく短く感じられたのは事実で、12月末には4月以降の模擬試験の成績を参考に、受験校を決めるのだから,H短く感じるのは当たり前だろう。現役高校生の時には、12月の終わりになって、ようやく社会や理科に取り組むかといった具合にのんびりしていた。その点予備校は、早め早めの手を打っていた。
ともかく12月の判定会議では、京都大学や大阪大学の理工系学部は、とりあえず合格可能と判定された。私は、というよりは親類の大人達は、前年に懲りて私学も受験するように私を説得した。考えてみれば、有り難いことに違いなく、私学一校、一期校一校、中間校一校、さらには二期校一校の四校の受験を考えることにした。
ところがいざ願書を出すという頃になって、とんでもない事態が持ち上がった。
それはあの頃吹き荒れていた学園闘争、中でも一番激しかった東京大学で、全共闘に占拠封鎖されていた安田講堂に、機動隊が入って封鎖を解除し、それと同時に東京大学がその年昭和44年の入学試験中止を決めたのである。昭和44年1月19日のことである。
私自身東京大学の受験を考えたことなどなかったけれど、東京大学の入学試験がないということになれば、当然京都大学や大阪大学の入学試験に影響の出ることは明らかで、予備校の判定見直しが実施された。幸運なことに、判定結果には変更はなかったけれど、私の中で揺れ動いていた京都か大阪かという迷いが吹っ切れることになった。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 00:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年03月22日

国境閉鎖

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
今冬は暖冬だったというのに、日本の春は遅い。
例年より早く桜も咲き始めたというのに、春はまだまだ。
春の高校選抜野球は中止になったし、プロ野球の開幕も20日以上遅くなった。
そう野球狂にとっては、まだまだ春が来ないのである。
つまるところ新型コロナウイルスによる肺炎の、世界的な流行が「春を遅らせている」元凶なのである。
野球狂の春はともかく、各地から入学式の開催を躊躇する声も聞かれてくれば、学生諸君にとっての春もまだまだかと思わざるを得ない。
昨日の総理大臣の発表では、一斉の休校をもう課すことはないとあったけれど、あの方ほんと頓珍漢だねぇ。これからまだまだオーバーシュートがあるかもと懸念されているというのに、そんなことはやめに言ったって、どうなる判らないんちゃう。2月の終わりに一斉休校指示しておいて、与野党や世論の「説明不足」の批判を漏れ聞いたら、いきなり弱気の虫らしい。しかし、これからが新型コロナウイルスとの戦意正念場だろうに、弱気の虫は禁物ですよ。
私がこれからが正念場と考えるのは、欧州からの帰国者を検疫しての陽性率が高いように思われるから。これまで国内の発症数が、諸外国に比し低いのは、PCR検査だったっけ、をあまり実施していないからとの指摘があり、もしそうだとしたら、症状のない感染者数が市中を多数闊歩していると考えられるからである。そうでなければと願いつつも、現実には多いんだろうとも、ついつい考えてしまうのである。
WHOがパンデミック状態との宣言を出し、影響されて世界「恐慌」気味。多くの国では、飲食店が閉鎖されている。幸いなことにシンガポールでは、そこまで深刻ではないけれど、それもいつ何時状況が変わるかもしれない。いやはやクワバラクワバラ。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 11:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年03月21日

思い出話 55

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
その人の嫁いでいったことを知っても、私の日常生活は変わる筈もなく、6月、7月と過ぎて行った。7月の20日過ぎに復習テストというのが一日がかりであって、ほどなくして夏休みに入った。夏休みといってもわずか一か月で、その間に夏期講習に行く者もいたようだが、Y予備校からの指導は
「夏期講習に行くよりは、今まで学習したことを十分に復習しておけば大丈夫。」
といったものであった。仮に夏期講習に行こうとしても、これ以上の負担を親類縁者に願うわけにもいかず、私には好都合だったことも言うまでもない。ただ月々の模擬試験も、7月にあった復習テストも大いに好成績で、夏休み前の主事との面談では
「今の調子を続ければ、十分に京都大学や大阪大学の理科系学部を狙えます。」
ということだったので、私は気をよくして夏休みを過ごした。
相変わらず午前4時起き、午後10時には就寝という生活で、夜は大きな家での一人寝を続けていた。有り難いことに日が暮れると、大きな家だけに涼しくて、あの当時にはエアコンなどなかったけれど、暑くて寝付けないというようなことはなかった。
友人のY君やR 君もたまには訪ねてくることもあったが、私の生活パターンをよく知ってくれていって、10時半ともなるとそそくさと帰って行ってくれた。盆踊りには一緒に出かかたけれど、この年の盆踊りは私にとっては、本当に味気ない物であった。この時にはその人のことを思い出したりもしたが、日々の生活からは、私自身が意外と感じるくらいに薄れていった。予備校通いの毎日は単調だったけれど、それでもガスの配達や秋の農繁期の手伝いがあったりして、それなりに充実はしていたと、50余年経った今では懐かしい。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 14:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年03月20日

思い出話 54

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
その人が嫁いでいったことは、本当に驚きだった。
前年の夏に、「お見合いをして次の年の5月にお嫁に行くの」と教えられていたのは事実ながら、私は現実のものと理解していなかった。
あの日、その人Mさんと同級生という母の従妹のTさんがやって来て、私以外に誰もいないのを確かめてから
「善ちゃん、Fさんの家のMちゃんが19日の日曜日に、お嫁に行ったでぇ!」
と、切り出した。そして
「六歳も違うのにあんたらつきおうてたん?あの子駆け落ちして戻ってきたん知ってん?まだ大学にも通ってへん浪人生やのに、おばあさん知ったら許してくれへんで!」
と、詰問するように続けた。
「つきあうていうても、予備校の帰りに二、三回逢っただけやでぇ。」
と、取り繕ったら
「おばぁさんには、内緒にしといちゃるよって、これからは真面目にしいや。あんたまでうちのHの真似せんでええんやから。」
と捨て台詞を残して帰って行った。ちなみに「うちのH」というのは、私達がHちゃんと呼んでいた、子供の頃のリーダー格、スーパースターで、あの頃は兵庫県の俗にいうお坊ちゃま大学に通っていた。
それにしても、私には驚き以外の言葉はなかった。
私の周りから、大好きな人が忽然と消えたことになる。
母の他界の時と同じ、喪失感というのだろうか、をひしひしと感じていた。
そして19歳ながらに
「何でこんな風に皆消えてしまうんや!」
と、答えのない質問を自分自身に尋ねていた。
ほどなくして、前年のお盆の真夜中にその人と一緒にやって来た女性達が訪ねてきて
「Mちゃんお嫁に行ったん知ってる。」
「あんた何で阪大合格しなかったん。」
「あの子、あんたが合格したら、婚礼取りやめるって私達に言うてたんやで。」
「やめたから言うて大学生のあんたと一緒になるのは、まぁ無理やけど。」
と、口々にまくし立て、
「豊中の岡町ちゅうところにに住んでるよって。」
と言い残して帰って行った。
私はひとりになると、Y予備校の教室で
「ここで勉強したら、来年は受かるん?」
といった、その人の寂しげに見えた顔を思いだしていた。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 12:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年03月19日

思い出話 53

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
その夜、しばらくするとおばぁさんがやってきた。
「善一郎、いるか? 帰り遅かったんか?」
と、言いながら入ってきて
「遅なるちゅうて聞いてたけど、顔見せなあかんで。」
と、続けた。
私は、
「ちょっとしんどかったし、明日までにやっときたい数学の問題あったんで。」
と適当に答えると、あまり疑う風もなく
「しんどいんか、熱はないんか?」
と私の額に手を当てて、
「熱ないなぁ、ほなはよ風呂すましてくれな。はよ来て。」
と帰って行った。
私は叱られることも、疑われることもなかったので、本音でほっとしていた。
ただその人が、翌週土曜日の出会いを約束もしなかったので、気にかけていたが、この気懸りは、どうしようもなかった。
翌日の日曜日はいつも通りの、午前四時起きであったのは言うまでもない。五月も中旬となり、農作業が忙しくなり始める頃だが、私の出番はまだまだなく、ガスの配達が私の役目であった。
あの頃はガスボンベを一家に二本ずつ設置して、片方を使い切ると切り替えて貰えるようになっていた。だから注文があっても、必ずしも急を要するというわけではなく、ある程度計画的に配達できるようにはなっていた。それでも中には二本が切れてしまう家があって、急ぎ配達というのも全くないわけではなかった。ともかく、私には日常の生活が戻ってきた。
新しい週がまた始まった翌月曜日、出席をとった後、担任のN主事が近くに来られて
「土曜日には失礼したねぇ。お姉さん怒ってなかった?」
と、尋ねられた。私はまたまた吹き出しそうになったけれど、平静を装って
「大丈夫ですよ!」
と、返した。
一週間が過ぎ、二週間が過ぎやがて六月の声を聞くと梅雨がやってきた。
多分梅雨入りの日だったろう、私はその人が5月19日に嫁いでいったことを知った。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 11:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白