2021年02月23日

ポテトサラダの思い出

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72歳となっておおよそ一月、ふとしたことで昔のことを思い出したりする。
昨日は、夕食に食べて「ポテトサラダ」がその引き金となった。
私は1949年昭和24年生まれである。そして母は、1927年昭和2年の生まれ、だから女学校に通っていた当時は、授業より勤労動員、敵性語の英語、アルファベットの授業をほとんど受けなかったとこぼしていた。その母は、戦後の混乱期に運よく小学校教員の資格を得て、地元の小学校の教員をしていた。カリキュラムには、当然ローマ字の授業も組まれており、その授業の時期になると私にまでこぼしていた。ただこの話とポテトサラダには直接の因果関係はない。
私の故郷、つまり母の生まれ育ったのは大阪府の南部で、いわゆる里山といってよい田舎である。母子家庭で育った母は、私にとっては祖母に当たる人の「おふくろの味」を受け継いでいた。早い話芋の煮っころがしに代表される、田舎料理である。まぁ時代背景もあって、西洋料理とは無縁だったのである。その母が、そう私が小学生の一年か二年生だった頃、ポテトサラダに挑戦した。母の叔父にあたる人の奥さんが、母より一世代年上で京都生まれの京都育ち、女学校では英語教育も受けたというハイカラさんで、その方に今でいう。ポテトサラダのレシピを教わり、マヨネーズ味の効いたポテトサラダを料理したのである。私にとってもそれが初めての西洋料理で、好物の一つになった。
私の記憶に間違いなければ、母の叔父さんの家の今で、やぐら炬燵だ暖を取りながら、熱心にメモを取っていた母の姿を、ふっと思い出したのが昨夜の「ポテトサラダ」である。シンガポールのポテトサラダは、少し母の味とは違っていたけれど・・・。
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2021年02月20日

故郷からの訃報

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食傷気味というと不謹慎かも知れぬが、それでも敢て食傷気味な新型コロナウィルスの話題である。昨日のニュースでは、大阪府の新しい感染者が100を下回ったそうで、となると知事殿が政府に緊急事態宣言の解除を申し入れるのだそうだ。
しかしシンガポールに住むこの身としては、
「あせりすぎじゃないの?!」
と申し上げたい気がする。確かに3週間程前と比べれば、新しい感染者数が10分の1程度になっているので、感染拡大が抑えられたとの印象もうなずけるけれど、シンガポールの実質の新規感染者数が数人程度であることを知れば、安閑としてはいられない気になるのではなかろうか?つまりシンガポールが抑え込めているのに、なぜ大阪でそれができないと考えるのである。
こんな風に考えていたら、生まれ故郷の貝塚の知り合いから、悲しいニュースが届いた。
この知り合い、この爺より丁度一回り12歳年上の後期高齢者。奥方ともども新型コロナに感染し、奥方は一週間程で他界されたという。悲しいことに奥方とは一切の対面もかなわず、お骨になって戻って来たというのである。私の生まれ故郷は、限界集落に一歩手前の過疎に近い田舎、そんな田舎でこの惨事だから、大阪府は今しばし緊急事態を続けた方が良いのではというのが爺の本音なのである。合掌
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2021年01月22日

阪神淡路大震災 5

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阪神淡路大震災発生の日から10日間、私はインドネシア・ボゴールの町はずれにある、プンチャ峠にいた。このあたりのことは、何度かこのブログで紹介した筈である。ともかく実時間での経験は、全くない。だからあの時の修羅場については、本当のところを知らない。新聞やテレビの録画放送で見聞きし、なんとなく知っているように錯覚しているだけかもしれない。例えば、NHKのアナウンサーが現場中継をしながら泣いたという有名な話も、記憶ではなく記録として知っているだけなのである。
他にもまだある。
インドネシアの出張から帰った次の日、私は深く考えることもなく守口市の自宅から、車を駆って大学に向かった。鳥飼大橋の南から中央環状に入り、吹田の阪大キャンパスまで、ラッシュ時でなければ20分足らずで到着する。ところが中央環状線が大渋滞で全く動かないのである。いやはや迂闊という他はなく、三時間近くかかって吹田キャンパスに到着する有様であった。
あの頃は地元の電力会社と、レーザー誘雷の共同研究をしており、2月半ばだったろうか、その打ち上げを兼ねた宴会で、電力会社の研究所のある尼崎から、国道2号線をに走ることがあった。さすがにこの時は自分の車ではなく、電力会社の用意してくれたタクシーでいったのだが、初めて惨状を目の当たりにしたのであった。新聞紙面で見るのや、テレビ画面を通してとは異なり、実に生々しかった。そして
「こんな時に宴会なんぞしていいのか?」
と、密かに反省をしていた。
それにしてもあの頃の、交通渋滞、一体いつ頃解消したのだろう。
3月20日のオームサリン事件の頃には、少なくとも守口・吹田間はほぼ平常に戻っていた。
いずれにしても、阪神淡路大震災の惨状の多く、私には記録として残っているだけなのである。それにしても、よくもまあ、その当日海外に出かけたものである。
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2021年01月21日

阪神淡路大震災 4

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チェックインカウンターの係員は、ボーディングパスを手渡しながら
「3時間以上ありますから、ラウンジ比叡でお待ちください。」
と、その利用券を添えてくれた。
ラウンジ内は、ほとんど人もおらす‘、本来なら有料の筈のアルコール類も、無料サービスであった。
サンドイッチとおにぎりで遅い昼食を摂り、人心地が付くと地震のことが気になりだした。
あの当時私はまだ携帯電話を所持しておらず、ラウンジの公衆電話から電話をかけた。自宅にかけてみたが、話し中の状態が続いていた。あとで知ったことだが、利用者が多いので回線がほぼ満杯状態だったのだそうだ。
一方東京の友人に電話をかけると、これが意外と簡単につながった。受話器の向こうで友人のY君は
「心配しとったでぇ。なにこれから海外出張。関空に居るんか?ほんまに出かけるんか?まぁそれくらいなら、大丈夫やろう。東京から電話かけるんやけど、親類には繋がれへんから心配しとるんや。」
ということであった。
午後5時頃になって搭乗の案内があったので、もう一度自宅に電話をかけてみたら
「家の中は、無茶苦茶やけど、まぁ少しずつ片付けるから。子供達の学校もしばらく休みみたい!」
ということであった。
ほどなく搭乗が始まったが、客は50人にも満たず、
「席はご自由に!」
とのこと、500人乗りのボーイングジャンボは、がら透きの状態であった。
ジャンボ機は六甲産に向かって飛び上がり、そこで私は神戸の街が火の海であることを眼下に見ることになった。
あの時、正直
「私の国は、どうなるんだろう?!」
といった衝撃を感じていた。
あれが、私が本当の「愛国心」を感じた、生涯最初の経験かも知れない。
(この稿続く)
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2021年01月20日

阪神淡路大震災 3

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後になって考えると、あの震災の日に海外出張に出かけてしまった地震の迂闊さというか、能天気さというかを、考えずにはいられない。
最初の頃のテレビ報道では、大阪や神戸の街は都市機能は失われていないと、繰り返し告げていたことも関係しているのだろう。
それに出張旅費が前払いであったこと、その場合出張日程の変更は、ある意味面倒であることから、
「出かけることができるなら、そのほうが気が楽だ!」
と考えたからでもある。
それにもまして、起き抜けの大揺れで、気付かないまでも興奮状態にあったに違いない。
大阪市営地下鉄は、運転を中止していたので、私は京阪電車の守口から淀屋橋に向かった。
その電車が京橋に着いた頃、結構な余震があった。
それでも何度か停車を繰り返しながら、京阪電車は淀屋橋に到着した。
地下鉄御堂筋線も運休中で、私はやむを得ず地上に出た。
淀屋橋界隈はやけに静かで、水道管が破裂したのか、水が階段を登り切った辺りで湧き出していた。それでもしばらくするとタクシーが通りがかり、私は南海難波駅に向かった。
タクシーの運転手さんは
「走っていたら、大きな揺れでパンクしたのかと思いました。それにしてもすごい地震でしたねぇ。」
と、つぶやくように話していた。
難波駅では、南海本線・空港線は、現在安全点検中ということで、運航開始の時刻は未定と知らされ、駅に併設されているホテルのロビーが待機場所だと案内された。結局正午近くまでそのロビーで待たされ、一時頃には泉佐野駅に着くことができた。泉佐野駅では
「関空橋の鉄道、安全点検が終わっていないので、バスで関西空港まで行ってもらいます。」
ということで、私が関西空港のカウンターに付いたのは、午後1時30分頃であった。そして
「離陸は、午後5時くらいでしょうか?」
と頼りなさそうにいう係員から、私はボーディングパスをもらった。
(この稿続く)
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2021年01月19日

阪神淡路大震災 2

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あの日のことを、もう少し思い出したい。
阪神淡路大震災の発生した平成7年1月17日、私は大阪府の守口市に住んでいた。
そして当時住んでいたマンションは、淀川の南に位置していた。
そのマンションはブランコのように揺れたが、
「このマンションがつぶれるなら、大概のマンションは倒れるだろう。だから大丈夫だ!」
と、わけのわからない自信で自分を納得させている、私自身を意識していた。そして
「ともかく、インドネシアに向かわねば。」
と、出張の事を気にしていた。
大揺れが収まってしばらくすると、テレビからあれこれ詳しい地震情報が報じられようになった。NHKは、通常の番組を取りやめて、地震情報を繰り返すようになった。
震央は東海地方ではなく、兵庫県であると訂正された。
NHK神戸支局の様子が映し出され、仮眠中だったであろう局員の慌てふためく様子が報じられた。不謹慎ながら、その慌て方は、大いに滑稽な感じであった。
一時間ほどして、京阪電車が運転を再開したとテロップが流れた。
私は関西空港に電話をかけ、航空機の運航状況を尋ねた。
「地震の被害状況を調査中で、定時の出発は無理だと思いますが、必ずシンガポール便は出ます。お乗りになるなら、関西空港までお越しください。」
それが、シンガポール航空の公式見解であった。
その空港関係者の回答を聞き、私は七時過ぎには京阪守口駅に向かっていた。
後になって考えると、あの行動は全くの頓珍漢だったとしか思えない。
(この稿続く)
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2021年01月18日

阪神淡路大震災 1

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昨日は、阪神淡路大震災の日、26年が過ぎた。
地震発生の日は、私自身の誕生日だけに、終生忘れることはないだろう。
何度もこのブログに書いてきたように、あの朝5時46分に途方もない揺れを経験した。
12階建てのマンションの10階に住んでおり、まるでブランコに乗っているようだった。
当日は昼過ぎの便で、シンガポールを経由してジャカルタに出張の予定が入っており、午前5時半には起床していたので、あの大揺れを直接経験したのである。
当然テレビもつけており、NHKの第一報は
「東海地方で、大地震が発生した模様です。」
であったと記憶している。それに
「阪神地方では、火災も発生していない模様です。
といった追加報道もあった。
何年か前に発生したサンフランシスコの大地震では、ベイブリッジが壊れて通行不能となったのに対し、日本のインフラはしっかりしているんだと、一人関心もした。
結果としては、初期報道は大いに誤報で、神戸の街は壊滅状態、阪神高速神戸線も一部倒壊していた。ただこれらを詳しく知るのは、10日ほどたってからで、私はと京阪電車、南海電車を乗り継いで、インドネシアに出かけてしまったのである。
ただ夕方5時過ぎ頃だったろうか、関西空港を飛び立ったシンガポールエアの飛行機が、神戸の上空でせんかいしたとき、神戸の街から上がる何本もの煙と、あちらこちらの火の手を見て、
「えらい日に出発したなぁ。何で出張を延期しなかったのだろう!」
と後悔したのを思い出している。
(この稿続く)
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2021年01月04日

丑年の良い話

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インターネット新聞御記事で読んだ、ちょっと悲しくてそしていい話。
大阪の農業高校の生徒さん達の話である。
妊娠しなくなったホルスタイン、経産牛は価値が低いとされて来たけれど、6名の生徒さん達は昨年6月から世話をして、肉質を上げるよう努めたそうだ。その甲斐もあって体重も40s増加し、評価も最低のC1ではなくB1を獲得できたという。6名は昼休みの45分も牛舎に通い世話に精を出したのだそうだ。ただいよいよ出荷という日に、そのホルスタイン・ヒナタという名だったそうだが、眼に涙を浮かべたそうで、ホルスタインのヒナタが、自身の死を予感したのか、6名との別れを惜しんだのかは定かではないけれど、少なくとも6名の高校生にとっては、長く心に残る思い出となったに違いない。肉質を上げるよう助言したのは、指導している教員だったのだろうけれど、その教員だってホルスタインと生徒たちとの心の交流を期待しての助言ではなかったろうとおもう。ただ一般論ながら動物は、こちらが愛情をかければかける程、その期待に応えてくれることも事実で、どこまでわかっているかはともかく、心の交流は可能であると私は信じているのである。
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2020年12月14日

忠臣蔵の季節

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赤穂浪士討ち入りの日
忠臣蔵なんて、今時流行らないんだろうな?この爺が子供の頃は、年末といえば映画館で忠臣蔵が、上演されていたなぁ。テレビの放送は始まってはいたけれど、まだまだ普及率は低く、娯楽の中心は映画だった筈だから。この爺が小学校高学年認った頃から、日常娯楽のテレビ依存度が少しずつ高くなり、1964年の東京オリンピックで爆発的に延びた。そのころからじゃないか、夕飯時はテレビを見ながらなんぞという、「文化」が蔓延したのは・・・。
「テレビ放送は、一億総白痴化!」
なんぞという、ネガティブキャンペーンもあったけれど、大きなうねりの前にはどうしようもなかった。ちなみに一億総白痴化という標語は、故大宅壮一が1957年に生み出したという説があるとは、ウィキペディアの内容にある。
この爺にとって衝撃的だったのは、1963年11月22日のケネディ暗殺事件の映像が、放送衛星を介して日本にも送られてきたことで、勤労感謝の日に農作業を手伝っていたら、臨時ニュースだと教えられた。記憶が正しければ、夕刊の第一面にケネディー大統領の狙撃された直後の写真も載っていた。
そして1964年東京オリンピックのテレビ放送、女子バレーボールの決勝は、日紡貝塚が主力ということもあって、家族で揃ってテレビの前で応援した。以来数年で、テレビのない生活は考えれなくなったけれど、日本人一億人は決して白痴化することもなく、今日に至っている。逆に娯楽としての映画は、産業的には斜陽化し、まずは日活や大映が店じまいする羽目となり、年中行事だった年末の忠臣蔵はある意味雲散霧消してしまったというと言い過ぎだろうか。
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2020年12月12日

ウシガエルの季節

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週半ばから、午後の夕立(スコール)が続いている。
この調子なら、また駅前の広場でカエルの合唱が始まってることだろう、なんて期待していたら、一昨日の帰宅は日没後になってしまった。
「しめしめ、カエルのことが確認できるぞ!」
とほくそ笑んでいたら、案の定駅の出口付近では、ウシガエルのぐうぐうと鳴く声が聞こえた。そして広場の出口側では、ケロケロというアマガエルの鳴き声に近い合唱が聞こえた。シンガポールは赤道直下の熱帯だけに、12月のこの時期でもカエルの繁殖があるようだ。
そしてふっと思い出したのは、大阪大学工学部前の溜め池のウシガエルの事である。
何度かこのブログにも書いてきたが、私は大学三年生1971年春を期に工学部近くのカレッジハウスという馬鹿でかい下宿屋に住む様になった。1970年に開催された大阪万博のプレハブ宿泊施設が、万博後下宿屋に転身したのであった。下宿を始めたといっても、おばあさんの注文は
「週末は帰宅して、自宅で過ごすこと!」
だったので、土曜日には貝塚に戻り、日曜日の夕方貝塚を出て下宿に戻るという具合であった。そんなある日曜日の夜遅く、北千里から下宿に歩いていたら、ウシガエルのグウグウが身もに入ったのである。50年半世紀も昔の思い出である。
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