2026年03月11日

華僑には勝てぬ

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本帰国して一週間経過した。
家人の頑張りで随分と片付いた。毎日の生活も、ほぼほぼ通常に戻りつつある。
と言っても、大半の荷物は今頃東シナ海あたりだろうか。
早い話、家人の頑張りは「大半の荷物」の届くであろう、もう一度一か月後となる。
家人にはひたすら感謝、感謝である。
それにしても13年間のシンガポール滞在は、本当に長かったとしかいう事がない。そして先日もこのブログにあげた様に、この爺個人としては、失敗の連続であったという事になろうか。決して差別したり見下したりして言っているつもりではないけれど、「華僑」の計算されつくしたビジネスの在り方には、へっぽこ学者風情がとても太刀打ちできたものではない。生意気なようながら、「シンガポールで雷の観測装置を敷設しましょう。」と声をかけて下さった日本で一二を競っている電気電子機器メーカーが、何故が諦めて撤退され、爺一人が取り残されたとき、「65年もあれこれ経験してるのだから、大丈夫!」との根拠のない自負心だけで、続けることにした。JICA・JSTと愛弟子のタケシ君のおかげで、マレーシアではVHF波帯広帯域干渉計が稼働中でこれが唯一の成功例。しかし華僑の方々とのビジネスでは、ことごとく期待を裏切られる結果となり、77歳にして、自身の未熟さをつくづく知らされた、天邪鬼爺である。
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2026年02月20日

本帰国準備

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昨日から、マレーシアクアラルンプール界隈に居る。
まず昨日は、気象庁に友人Anbunさんを訪ねた。彼は、予報官グループのリーダーである。ひょんなことで知り合いとなり、あれこれ話していたら、予報官のリーダーであると自己紹介を受けて、もはや二年近い。今回シンガポールを去るにあたり、一応の仁義は切っておこうと出張してきた次第。空港からタクシーで30分弱で気象庁に、10時の約束が思いのほか早く8時半に着いたところ、Ambun さんはもう出勤されていて、ロビーまで迎えに来てくれた。彼の居室に通され、この爺がシンガポールに移り住んだ経緯や、その後の苦労話を聞いてもらい、最後には予報官のブリーフィーグに参加させてもらった。マレー語でのやり取りだけに、理解はなかなか困難であったが、やりとりしているレーダーエコーや風況の図は、私なりに理解できた。マレーシアという国は、西がマレー半島、東はボルネオ島と地理的にはそれなりに離れており、ブリーフィングはリモートで全国各地との事。ブリーフィングの責任者は、女性予報官で、日本はどうなんだろうと、興味がわいた。イスラム教の国は、結構女性が活躍しているように印象を受けるのは、果たしてきのせいだけだろうか?一方今日はUNITENに出向き、SATREPSに関わっている3名と面談の予定。ともかくお世話になりました、日本に本帰国しますと挨拶する予定である。
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2026年02月08日

なぜ大気電気学 2

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着任は4月1日、快晴の日であった。
着任の日、私の所属する第五部門のスタッフと、顔合わせをして私を入れて総勢6名であると知った。教授の仲井先生、助教授の竹内先生、助手の仲野さん、それに技官の長谷さん中田さんである。大阪大学工学部に在籍当時、研究室の技官の方々が定員削減されるので、学生なりに気になっていたのだが、空電研究所では技官の方々の総数が、信じられないほど多く感心したのを、いまだに覚えている。
私の働くことになる第五部門は、仲井教授と私が人工電磁雑音の研究、竹内助教授と仲野さんが雷放電の研究であると紹介され、二人の技官の方々は適宜両方の研究の測定器の製作や整備で研究を手伝っているとの事であった。
着任して一週間程して、仲井教授から、ミドルトン氏という人工電磁雑音の研究者の、教科書を輪講することが告げられ、学生の星野君を含めての輪講が開催されるようになった。
そして着任後二か月ほどして、仲井教授から
「観測バスの運転に、大型免許を取ってくれないか?」
と、指示を受けた。まぁ上司の依頼だけに、止むを得ないと自動車教習所に通った。ただこのことが、私の人工電磁雑音に対する興味を薄れさせるきっかけとなった。自動車の普通免許を持っていたので、夏の声を聞くころには大型免許を取得でき、マイクロバスを運転して高速道路脇や東海道新幹線線路脇に出向いた。観測の目的は、インパルス性の電磁雑音の統計的性質を観測的に明らかにするところにあり、確率振幅分布や時間間隔分布を、当時ようやく実用的に利用可能となり始めていたマイクロプロセッサー(Z80)を駆使しての観測であった。装置そのものは、技官の二人が設計・製作にあたってくださっていて、その後観測装置をパソコンで制御してという風に進化させてくれた。早い話アナログ技術からディジタル技術への過渡期であったという事になろう。一方雷放電の研究グループの二人は、依然としてアナログ観測にこだわっていた。ただ自然相手の研究だけに、私の興味は次第に「大気電気学」に傾いていったのは言うまでもない。それを決定的にしたのが、先輩の仲野さんが、1980年4月から一年間ニューメキシコ工科大学に留学されたことで、
「この研究所に居て、自然科学の研究に関わっていたら、私にもその機会がある!」
といった希望が、現実のものになりうるという事であったろうか?
(この稿続く)
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2026年02月07日

なぜ大気電気学 1

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いきなりですが、「あなたの専門は何ですか?」と尋ねられたら
「大気電気学、もう少し広い範囲でいうなら、気象学の一分野です。自然科学者です。」
と返すことが多い。私が、元大学の教官と知ると、ほとんどの方が専門は何かと尋ねられる。
そして私の答に、怪訝そうな顔をする方々には
「雷放電の物理です。」
と付け加えて、ようやくなるほどと納得して頂くことが多い。
実際大気電気学は、ある意味マイナーな学問分野であるから仕方がない。
ただ、私は工学部・通信工学科の卒業で、博士課程では電磁界理論の分野で研鑽を重ね、そして工学博士の学位を頂いてある。足掛け15年間担当させて頂いた講座も、工学部電気系で、野外での電波計測を通じて雷放電の性状を研究、都合20名の工学博士を輩出している。
ただ本音でいうと、大学進学にあたっては理学部にと考えた一方、親類縁者の多く、とりわけ祖母の弟の私がおじいさんと呼んでいた人は、医学部に行って医者になれと勧めてくれたけれど、諸事情があって工学部通信工学科への進学になったのである。
ところが、工学博士の学位を頂いて、いざ就職となると大学教員のポストはなかなか無く、それは進学時に指導教授からも言われていた事ながら、一年間の今でいう無給のポスドクとなった。ところが秋口になって、名古屋大学の空電研究所の助手ポストの公募があり、調べてみるとその研究所は地球・宇宙物理学を対象とする研究所であることが分り、迷うことなく応募した。応募にあたり少しだけ気になったのは、応募の要件としては「人工電磁雑音の観測的研究」という点で、「電磁波で学位をとったのだから、何とかなるだろう!」と例によっての楽天主義で応募した。そして運の良いことにめでたく採用されることになり、1779年の4月名古屋大学空電研究所に着任したのである。
(この稿続く)
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2026年02月04日

喜寿の爺の悲哀

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立春 袖ひじて結び清水の凍れるをはるたつ今日の風やとくらむ 紀貫之
この和歌、高校生時分、なんでか知らんけど好きやったなぁ 天邪鬼爺も若い頃はちょっとだけロマンチストやったんやな。ただな、大学に入学して何年かした頃同級生にばったり出会って、「阪大工学部に入ったでぇ!」ていうたら、「河崎君文系ちやうかったん?」って不思議がられたなぁ。まぁそういうたら、高校の実力テストでは、国語の点数高かったな。
その若き日のちょっとだけロマンチストが、いささか尾籠な話題や。
二年ほど前に、一年間で五センチほど身長が縮んで、形成外科でレントゲン取ったら
「背骨が湾曲してます。腰骨の左右の高さが違ってますね。生まれたときの股関節脱臼の影響かも知れません。若い時は左右の高さの違いを、筋肉でバランスとっていたのが、華麗でそれが効かなくなっているのでしょう。」
とか診断され、その後なんや腰が痛むようになった。ロキソニンテープはって痛みを抑えたりしてるんやけど、不思議なことに日本に帰っているときは、腰の痛みはほとんどない。確かに違和感はあるけどな。シンガポールは湿度が高くて80%超という事も稀ではないけど、大阪の一月(この前の一時帰国の時)は40%あるかないか。
「大阪では痛ないのに、シンガポールに戻ったら痛むんや!」
ていうてら、親友のユーサンが
「シンガポール症候群か!?」
と、SNSでメッセージ送ってきよった。背骨の湾曲は事実やけど、腰の痛みは精神的なもんかもしれへんな。ここまで考えたとき、
「外出してて、家に帰ってきたら、マンションの入り口に着いた途端、猛烈におしっこしたなる。ほんまに漏れるかと思う程やもんな。出勤の時も、会社の建物に入った途端、同じ感じや。漏れそうなくらいしたいのに、しばらくしたらなんやおさまるんや。これも精神的なもんかも知れん。確かに77歳の爺になって、おしっこ近なったのは事実やけどな。」
とまぁ、喜寿の老人の悲哀でした。
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2026年01月11日

卒業研究発表会

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私が大学四年生で講座配属された教室の博士課程の先輩に、D3キミオさん、D2エイイチさん、D1カズオさん、コウジさん、トシオさんと5人の博士課程先輩がいた。加えて教員にはナガヨシさんがいらっしゃって、四年生4人(トシハル君、コウジ君、オジンに私)に直接指導して下さる方々が6人と、卒研生にとって贅沢なと言おうか、理想的なと言おうか、いずれにしても恵まれた環境であった。そして私を直接指導してくれたのは、D1のカズオさんで、カズオさんが岐阜大に籍を得て出て行かれるまでの三年間お世話になった。昨日は修士一年生の時の顛末を披露しており、今日はさらに一年さかのぼってのエピソードを披露したい。それは、3月の卒業研究発表兼試問会に関してである。当時は模造紙に発表のための図や式を書いての発表で、今日とは随分と趣が異なる。まぁ50年は経っているので、当然と言えば当然ながら・・。
発表会は、学科の教授、助教授の先生方の前で、卒業研究の内容に関して説明するのであった。私は今では76歳の爺ながら、当時は20歳を少し過ぎた、経験もほとんどない青二才であったろう。当然発表にあたって、失敗の無いようにと原稿を書いていたら、カズオさんが「善さんそれを読む気か?そらあかんで。模造紙に書いたぁる内容しか先生方には見えへんねから、発表する側もそれを見ながら説明するのが当然ちやうか!」と厳しい口調。どれを聞いていたコウジさんも「河崎!カズオ君の言う通りや。いったん原稿書いて読む癖つけると、いつまでたっても書かんと発表でけへんようになる。やめぇ!やめぇ!原稿書きは!」とまくしたてた。私も性格上、「それなら。」と言われるままに、模造紙に書いた内容を見て理解しながら、卒業研究の内容を発表した。
実はそれから10年ほど後、マンチェスターのUMISTを訪ねて、これまたノルウェーでの観測についての話をするとき、UMISTのイリングワースさんからも同じような助言を受けた。当時はオーバーヘッドプロジェクターでの発表であったが、スクリーンを見ながら、内容を自分で理解しつつ、イギリス人相手に講演した。カズオさんやコウジさんの助言を思い出しながら・・・。
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2026年01月10日

ついてくるのは影だけ

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私が修士一年生の時の事であるから,40年も昔の話になる。
結構骨の折れる計算を繰り返し,それでももっともらしい結果が出て,漸く学会発表の目途が立った矢先の事である。
先輩のカズオさんのところに,原稿の下書きを持って行ったら,
「電子通信学会に発表を申し込んでおくから。第一著者は僕やけど,善さんが発表していいから・・・。」
と切り出された。
私は,その言葉に自身の顔の強張るのを感じながら,それでも
「僕が第一著者ではだめですか?」
と言いたい気持ちを飲み込んで,ともかくも
「じゃぁ,原稿下書きを読んで,朱書きしておいてください。」
とだけ頼んで,居室に戻った。余談ながら,あの頃はワープロなんてものはなく,学会の原稿は全て手書きだったのである。
その日の夕刻,カズオさんと同級生のマサトさんが居室にやってきて,私に目配せをした。居室を出ろといった合図である。なんだろうと居室の外に出ると,屋上に行って話そうといった風情。そして屋上でマサトさんは,
「あの後,『善さん,博士課程に進学するんやろう。そんなやったら第一著者にしたれや!』とカズオ君にいうたんやけどなぁ。ただあいつ,『僕は,善さんを博士にするために研究してるんやない。善さん一瞬顔つき変わったけど,なんも言わへんかったし,あのテーマは僕が出したの善さんも判ってる筈や。』言いよんね。」
と,おっしゃった。私は骨折りのお礼を申し上げ,
「カズオさんの言うてはったとおり,テーマの出どころはカズオさんですし。まぁ僕なりの工夫もあるし,これが第一著者の論文やったら,あともう二つちゅう計算もありましたが,・。」
と応えつつ,小さかったころに母からよく聞かされた,ついて来るのは影だけという言葉と,釜茹でになった石川五右衛門は,いよいよ湯が煮えたぎって来たとき,自分の子供を自分の下に敷いたという,逸話を思い出していた。
気障なようだが,あの時カズオさんがすんなり私を第一著者にしていたら,私もここまでこれたかどうか。
確かにあの一瞬は,非常に腹も立ったけれど,今となっては,本音で非情だったカズオさんには感謝している。
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2025年12月28日

雷ないなぁ

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なんでやろ、今冬は不作やなぁ。
いやなに北陸の「冬季雷」のことやけどな。
タケシ君のSATREPSちゅうプロジェクトで、ロケット誘雷の技術移転するちゅうて、マレーシアの仲間がぎょうさん金沢に習いに来てるんやけど、肝心の「冬季雷」が、ほんまに少ないみたいや。岐阜大のウさんの動かしてる、BOLTで見ても、いつもの年に比べて圧倒的に少ないんやで。これではロケット誘雷出来るはずもないやろな。普通の年やったら、クリスマス寒波、年末寒波ちゅうて、十二月に入ったらほぼほぼ一週間おきぐらいに、金沢界隈は「雪起こし」、「鰤起こし」の雷あるんやけどなぁ。まぁわてらの研究は、おてんとさん次第やから、ここは我慢、我慢ちゅうところやろ。SATREPSで一番現場で活躍してるユウジ君も途方に暮れてるやろから、せめて「ここが辛抱のしどころやでぇ!」と、シンガポールからエールちゅうか激励の言葉送っとくで。届くかどうか「知らんけど!」
いやユウジ君は、ひょうひょうとしてるみたいやけど、あれで意外と繊細やよって、落ち込まんようにしいや。
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2025年12月17日

過去は美しい

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昨日、南海電車に乗って貝塚から難波まで。
「懐かしいなぁ!」
と,いささか情緒的になってはみたものの,実際毎日という形で利用したのは,予備校時代の1年間と大学生2年生の終わりまで。3年生になってからは吹田キャンパスの近くに下宿したので,通学はわずかに3年間という事になる。さらに大学生最初の一年は,大学闘争のあおりを食ってほとんど通わなかったので,実数はさらに少なくなる。
その後大学教員になってからは,先ず名古屋大学に赴任したし,大阪大学に転身して来ても池田市や守口市に住んだ。そして1995年夏に故郷貝塚に居を構え,2000年頃まで5年間は吹田キャンパスに通ったけれど,車通勤が多かった。こんな風に思案を巡らせてみると,懐かしく思ったところで,通った実数は2年半を越しそうになく,たかだか3年なのである。
それでも懐かしさがこみ上げるのは,家人のよく言いう
「過去は皆美しい!」
からかも知れない。
実際考えてみるに,知らぬうちに南海電車難波駅が高層ビルになっていたし,地元の貝塚駅の改修も,終わってしまって2階駅になってからしか知らない。何と言っても,高校時代一番お世話になった筈の水間電車は,今となってはほとんど利用しない。だから懐かしなんぞというのは,論理的には全くの思い違いである。
「過去は皆美しい!」
けだし,名言というべきだろう。
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2025年12月02日

12年前の今日

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12年前の今日
シンガポールに赴任していた筈なのに、なんとまぁ日本に帰って放送大学で講義していたようだ。よくよく考えれば、毎月の様にシンガポール・日本を往復していたっけ・・。


いよいよ12月,そして今日のブログは毎年の様に,師走に関わる話題や。先生も走るちゅう12月,日本中皆忙しうなるんや。ほんでもってわいはというと,昨日と今日の二日間,放送大学で工学倫理・企業倫理の面接授業や。一日四限ずつで二日で俗にいう八コマ,受講生には一単位が出るんや。ただ面接授業ちゅうのは,出席だけで単位出す制度らしゅうて,普通の大学でいうたら,集中講義みたいなもんになるんや。
それにしても,一日四コマちゅうのんはやっぱり疲れるもんや。泉州弁でいうたら,
「ほんまに,えらいわ!」
ちゅうことになるんかな。満64歳と10カ月やもんな。
集中講義いうたら,40才台後半から50才台前半の頃まで,岐阜大学からよう呼んでもろうた。あの頃は一日四コマの集中講義やって,新幹線で大阪まで帰って来たけど,あんまりえらかったちゅう記憶はないなぁ。よう考えたら,前の晩に行って歓迎会みたいなものしてもろうて,次の日の朝から講義やった筈やなぁ。岐阜大学ちゅうたら,あんまし交通の便のええところに無いんで,宿泊は構内にある宿泊施設やったなぁ。もう長い事行ってないんで,どうなってるんか気になるところや。なんせ集中講義に呼んで貰うんは,年度末が多かったんか,あの宿舎については寒かった記憶しかないなぁ。ちゅうても嫌な思い出ちゃうで。たまに外国からのお客さんも泊まってて,あれこれ話したもんや。今朝でかけの寒さから,ふっと思い出した昔の話しや。
ちゅうわけで,今年は珍しう師走とはちょっと違う話題や。いや岐阜大学まで走ったんやから,やっぱりし師走の話題かも知れへんなぁ。
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