2021年12月02日

神田川

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あの名曲「神田川」を作詞された、喜多條忠(まこと)さんが亡くなった。
御本人を個人的に存じ上げているわけではないが、神田川の流行ったのは、この皮肉屋爺の大学生時代と期を一にするだけに、ともかく思い出深い曲である。
さらには東京に活躍の場を移していた幼馴染のY君と、40歳代になって東京で一緒に飲み歩くようになり、終電が無くなって彼の自宅に歩いて帰ったとき
「これが神田川やでぇ!」
と教えられ、私の中でリバイバルした曲である。
そして還暦を過ぎた頃、ひょんな縁で喜多條さんの弟さんという方と知り合いになり
「神田川を作詞した、忠は兄です。」
と教えられ、私の中での二度目のリバイバル曲となった。
勝手な言い分ながら、20歳代、40歳代そして60歳代と、「三世代」にわたって心を和ましてくれたといえば、言い過ぎだろうか。
私達が学生生活を「謳歌」していたころ、「苦学生」という呼び名が幅を利かせていた。私自身ある意味「苦学生」だっただけに、石鹸をカタカタと鳴らした覚えはないけれど、一人で聞いてはしんみりとすることも少なくはないのである。
合掌

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2021年10月22日

ラクトースフリー 2

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私は、生まれたときには股関節が脱臼していたそうで、今日の医療水準なら多分大きな問題にはならないのだろうけれど、昭和20年代はなかなか大層だったと聞く。大阪府の南に位置する貝塚市から、大阪市内の松岡病院(という名だったと聞かされた記憶にある)に通ってギブスをはめて貰い、半年ほどしてギブスを外し、はじめてきちんと治癒できたかどうか判る、といった具合だったそうである。私の場合運よく、健常者に収まったけれど、俗にいう「びっこ」となってしまった同級生もいた。
そんな私だから、物心ついた頃には、骨が強くなるようにと親達は考えたのだろう、毎日牛乳を飲む様に育てられた。そしてその習慣が、高校を卒業するころまで続いたのだから、ある意味幸せな家庭環境だったということになろうか。ちなみに今日と違って、毎朝牛乳瓶で配達されてくるのだが、私はその牛乳が好物の一つであった。
昨日も述べたように、その牛乳で下痢するようになったのは、花粉症に苦しみ始めた27,8歳の頃からで、多分花粉アレルギーが私の体に眠っていた「アレルギー」を揺り起こしたのだろうと、勝手な想像をしている。不思議なことにその花粉症が50歳代後半になって、ぴたっとは言わないまでも、随分と軽くなった。ひどいときにはティッシュペーパーの箱を持ち歩くようにしていた程なのに。ただ牛乳による一過性の下痢は、不幸なことにそのまま残ってしまったというのが実情なのであった。
他愛無いことながら、ラクトースフリーに感謝である。
余談ながら、普通の牛乳も温めて飲めば問題ないのだが、冷たい牛乳をぐいと飲む、あの「快感」を知っていれば、半世紀以上も温めてなんぞ飲みたいとは思わなかったのである。
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2021年10月21日

ラクトースフリー

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子供の頃よく飲んだ牛乳が、突然飲めなくなった。
飲めなくなったと言っても、本音では好きなのに、飲むと一過性ながら下痢をするようになったのである。丁度花粉症を患い始めた20代後半、27,8歳の頃からであったろうか、だから半世紀近くも昔のことである。。ただ本質的には好きなので、時には飲みたくなり口にすると、一時間ほどすればトイレに駆け込む羽目になるのである。
ただそれは私だけではないらしく、社会問題とは言わないまでも、マスコミ報道でもあれこれ取り沙汰されているようで、この下痢には「ラクトース」という成分が関係しているらしいことが分かって来たと聞く。そして近頃は「ラクトースフリー」の牛乳が売り出されるようになり、試しに買って飲んでみると、あら不思議、下痢することはなくなった。だから最近二か月ほどはそのラクトースフリーの牛乳のお世話になって、楽しんでいる。
さてかつて、よく飲んだ牛乳んこととである。
私が、中学生、高校生の頃だったから半世紀は昔のことになる。
当時牛乳は、毎朝一合瓶で家庭に配達されてくるのが普通であった。
そして朝食の後、一合瓶の牛乳を飲んだものである。ただのみ終わってしばらくすると、私を育ててくれていた母の叔母(祖母の妹)が私を食卓に呼びつけ、
「牛乳を最後まできちんと飲まなあかんで。もったいない!」
と𠮟ることが多かった。私にしてみれば毎度の様に叱られるので、気を付けているつもりなのに、食卓に戻ってみると確かに便の底に牛乳が残っているのである。
よくよく考えてみれば、牛乳はそれなりに粘性もあり、きちんと飲み終えたつもりでも、瓶の内側にへばりついて残っていて、時間が経つと底に溜まるだけの事なのである。私は、叱られることの理不尽さを感じつつ、それでもいわれるままに瓶を傾けたのである。
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2021年10月05日

秋祭の頃2

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私達の町内のだんじり、私が中学生になる頃にいよいよ使い物にならなくなった。小学生だった私達はよく知らなかったけれど、多分それまでは修理しながら使っていたのだろう。でも結局は、曳きまわしが不可能になった。だからそれから数年間は、私の町内では秋祭りのだんじりを曳かなくなった。中学生になると、曳行の綱引きはだんじりに近い方を持たねばならず、走ることが苦手だった私は、ある意味ほっとしたのも事実である。ともかくだんじり小屋には使われなくなっただんじりが、ほこりだらけになって眠っており、年々朽ちていく様が、子供ながらにも理解できた。
そして数年、私達より6歳くらい年上の年代の青年団員が、どこかの村で使わなくなったというだんじりをただ同然でもらって来た。確かいすゞのエルフというトラックで、引っ張りながら運んできた。今となってはどの町から譲り受けたのかは確かめようがないけれど、泉州のどこかの市なのだろう。そして町内のだんじり祭りが復活し、今日に至っている。
ただ昨年は新型コロナウィルスの流行で、秋祭りそのものの中止を余儀なくされたそうで、今年は多分二年振りの貝塚のだんじり祭りになる。今となっては懐かしさもあって、郷愁をそそられている。
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2021年10月04日

秋祭の頃

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かつて10月4日5日は、私の生まれ故郷の秋祭りの日であった。
泉州の南部に位置する貝塚だけに、当然だんじり祭りである。
ちなみに貝塚でも俗にいう旧市内、大阪湾に面した町内には、夏祭りの布団太鼓が伝統的ながら、私には子供の頃からほとんど縁もなく興味もなかった。
さて秋祭り、だんじり祭りである。
近年はハッピーマンデーの制度が到着し、秋祭りもその土曜、日曜の二日間にシフトしてしまっている。だから今年は今月の9日10日なんだろう。日程の有り様は合理的かもしれないが、風情という点でいささか鼻白む。
私が昔ながらの秋祭りの日程に「こだわる」のには、もう一つ理由がある。
もう60年以上も昔のことになるが、今でも親しくしてもらっている友人のY君が、近所の家に養子縁組がなってやって来た日だからである。小学校の給食係をやっていた、養子先の親類の伯母さんに、校内で声をかけられ
「この子、善ちゃんの親類の向かいの子になったん。仲ようしてやってや。」
と頼まれた。私の故郷は、俗にいう里山で、今日ではほとんど限界集落に近い状態、早い話田舎者だから、奈良からやって来たというその子は、やけに大人びてまぶしかった。だからY君と本当の意味で親しくなるまでに、2ねん近くの歳月を待たねばならなかった。とはいえ、その後の付き合いは60年、半世紀を優に越しているのだから、長い人生での人との出会いは、なかなか味なものである。
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2021年09月12日

祖母の事 2

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祖母の「思い出」をもう一日続けたい。
私は、祖母の事をおばぁちゃんと呼んでいた。
母親、祖母それに私の三人暮らし、母子家庭であった。
気丈だった祖母が、認知症気味になったのは、昭和25年9月のジェーン台風が一つのきっかけだったろうとは、子供の頃によく聞いた。聞いたというよりは、祖母の妹、私がおばぁさんと呼んでいた人が、母や母の姉と話するのを聞いていたという方が正確である。ともかくその台風で、庭の松の木が倒れ、屋根に引っかかって怖い思いをしたのだろうと、何度となく繰り返し話していた。昭和24年1月生まれの私は、残念ながら気丈だった祖母の本当の姿を、残念ながら知らない。いずれにしても私が幼稚園に上がる頃には、母に代わってあれこれ世話をするのは、おばぁさんだった。例えば遠足、堺市の水族館だったと記憶しているが、付き添いはおばぁさんだった。母はその頃は小学校の教員をしていたから、付き添いは不可能だったからである。
今頃になって浮かんでくるのは
「なら祖母が、一人で留守番をしていたのだろうか?」
といった疑問である。ただ今となっては当時を知る人は、もはや誰もいない。
長男を戦死で無くした祖母にとっては、私は跡取りうる孫として生まれたものだから、ともかく溺愛した。その一つが、私が小学一年生だったある日、祖母が教室まで私の大好きな饅頭を持ってきた事からも、想像できるのである。残念ながらその頃は認知症も随分と進んでいたに違いない。今日ならあれこれ治療も可能だろうにと、思う次第である。
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2021年09月11日

祖母の事

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ニューヨーク世界貿易センタービル、グランドゼロから20年
我が家のアリス、ベランダを自身のトイレと理解していて、限られた場所で用をたす。現時点では失敗しない。それはそれで有り難いのだが、それでも日に二三度は、後片付けをしなくてはならない。
さて今朝そんな後片付け中、何の脈絡も無しに祖母の事を思い出した。
祖母は私が小学校4年生の年末に他界した。晩年は今日でいう認知症に近いものがあったのだろう、時折粗相した。アリスの排泄の後片付けから、祖母の事を思い出すなんて、いささか不遜かもしれないが、人間の記憶なんてそんなものだろう。
祖母は、若くして未亡人となり、女手一つで一男二女を育て上げた。ただ長男は第二次大戦末期徴兵にとられ、ビルマのインパール作戦に参加、戦死してしまった。私の伯父にあたる人ながら、私は戦後生まれ故、あったことはない。戦死した伯父は、生まれたとき股関節脱臼だったということだし、近視の上体も弱かったと聞く。そんな一人息子の長男が、徴兵される筈もないと聞かされていた祖母なのに、結局は「靖国の母」になったしまったのである。祖母の無念は、いかばかりだったろうと思うが、明治生まれの祖母は気丈に振舞って、長女、次女を育て上げた。そして二女が私の母で、色々あった末我が家を継ぐことになった。そして生まれたのが私で、祖母は私をこの上なく可愛がってくれた。ただ私が幼稚園に通いだした頃には、認知症が始まっていたようで、私の記憶に残っているのは、そんな頼りない祖母の姿なのである。
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2021年08月23日

60年前 2

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私は、母が危険な状態であるらしいことを医師に告げ、急ぎ自宅に戻るべく診療所を出た。自宅と診療所は走れば10分とかからない距離にあったと記憶しているが、帰宅途中で戸板に母を乗せて運んでくる大人達に出会った。その中に、私が兄ちゃんと呼んでいた母の従弟がいて、私に
「診療所には僕が行くから、家に戻っておき。懸田(自宅のこと)には誰もいてへんから、帰って待ってなさい。」
と、言い聞かせるように告げた。姉ちゃん(母の従弟の奥さん)が私を待っていて、
「善ちゃん、晩御飯食べるか?風呂に入るか?」
と尋ねてくれたが、とても食事をする気にはなれなかった。
ともかく必死で走ったからだろう汗びっしょり、それで風呂に入って横になっていたら、いつの間にか眠ってしまった。次の朝早く目が覚めたら、不思議なことにおばあさんはいなく、所在なくごそごそしていたら、兄ちゃんが起きてきて
「善ちゃん、朝ご飯食べたら懸田に行こう。お母さんに会えるけど泣いたらあかんで。」
と私に告げた。そしてその一言で私は母の死を知ったのであった。
ちなみに私は、祖母、母と私の、母子家庭であった。そして祖母は、私の小学四年生の12月末に他界していたので、12歳の夏に私は天涯孤独となってしまったのである。
その日の夕方から、私は40度近い高熱を出し寝込んでしまった。
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2021年08月22日

60年前

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今年もまた8月の下旬となった。
この時期になると、どうしても思い出すのは母の突然の死である。
母は、その三年前から入退院を繰り返していたので、「突然」のという形容は当たらないかもしれないけれど。
それにしても今年で、60年となる。
あの日、自宅に干していた布団を、日暮れ前にかたずけに行ったまま、日がすっかり暮れてしまっても戻ってこない母を、母の叔母(私はおばあさんと呼んでいた)と一緒に迎えに行った。
おばあさんは
「善一郎は家で待ってなさい!」
といったけれど、私は何故かおばぁさんについて行ってしまった。
自宅の障子や戸は開けられたままで、それでも電灯は一切ついていなくて、真っ暗だった。
おばあさんは、入り口あたりから
「壽和子いるんか?壽和子どこや?」
と声をかけ、私と母が寝室にしている部屋に歩を進めた。
部屋の障子を開けると、母はあおむけになって眠っている風だった
おばあさんは少し強い口調で
「壽和子、壽和子!」
と二度声をかけたが、母は応える風もなかった。
おばぁさんは、慌てて母に近づきしゃがみながら肩に手をかけ、母の名を呼び揺さぶった。
母は、力なくなされるままであった。
おばぁさんは、
「しもた。善一郎!川崎の診療所に走れ。すぐ連れてくるからちゅうて!」
と私に命じ、私は一目散に診療所に向かった。
60年も経ったというのに、あの時の記憶は未だに鮮明である。
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2021年08月13日

準優勝相当!

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昨日の内容の訂正である。まず「泉州の怪物」H投手が
「阪急ブレーブスにドラフト二位で指名された」
と書いたけれど、グーグル検索してみたら実は第三位指名であった。
とはいえ、甲子園にまで進めなかった府立高校の投手が、ドラフト指名を受けたのだから、それにこの年のドラフトは確か有名選手が目白押しで、法政の田淵選手始め三名、ロッテで活躍した有藤選手、西鉄が指名した東尾投手とドラフト豊作の年であったから、今から考えても立派なものだったと、改めて感心している。
ついでにいうと、この「泉州の怪物」のことは、小学生の頃一緒にソフトボールを楽しんだ近所の下級生、その子は中学では野球をやった筈で
「善さん、今度すごい投手が岸高に入るでぇ!たまめっちゃんこ速いし、カーブもすごいんや。せやけどコントロールがあんましようないんで、ダルマちゅうあだ名や。」
と、教えてくれていた。そしてその二年半後に、全国優勝することになる興国高校と、大阪府の決勝を戦うことになったのである。ちなみに興国高校のアンダースロー丸山投手は、全国大会で一試合一点しか取られることがなかったのに、大阪府の決勝で岸高は立ち上がりに「泉州の怪物」のホームランで二点先行した筈で、取った得点も含めて「岸高は全国準優勝相当」と、勝手に考えていたのである。半世紀以上も昔の思い出である。
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