2022年09月28日

東南アジアに雷観測装置を

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シンガポールに戻っている。
昨日午前には、JICA, UTeM そしてUNITENによる合意文書の調印が行われたので、SATREPSのこのプロジェクトは、もう後戻りすることはないだろう。
これまでにも何回か書いているように、弟子の恩で、東南アジアに阪大のグループが開発してきた、VHF Lightning Channel ImagerやLF Lightning Channel Imagerを敷設、稼働するという長年の夢が、一歩近づいたことは紛れもない事実であろう。いやはや嬉しい限りである。私が大阪大学を定年退職して、このシンガポールに来たのが2013年の9月だから、坪井栄さんの「二十四の瞳」の掻き出しを真似るなら、
「十年を一昔というなら、この話はまさにその一昔前にさかのぼる。」
ということにでもなろうか。
まさにその一昔前、2012年の秋の事である。
日本有数の重電機器メーカーの事業部長から
「国際会議で河崎先生に出会ったという、シンガポールの雷害対策関連の会社社長が来日しており、先生に会いたいというので、池袋の事務所に来ていただけませんか?」
と連絡があった。定年退職を半年後に控え、エジプトの二年間の滞在から帰国した直後でもあり、私なりには多忙だったけれど、
「まぁ、請われるなら出かけて行こう!」
と、急ぎ上京する旨の返事をした。
大阪大学の吹田キャンパスは伊丹空港まで車で20分足らず、私は午後二時の便で東に向かた。池袋の事務所に着いた頃は、もはや黄昏時だったろうか。
そして事務所に到着した直後
「シンガポールのお客様が、鰻を食べたいというので、夕食は鰻にしましょう!」
と、池袋界隈のうなぎ屋に出向くことになった。
そしてウナギを食べながら、私の進路が大きく舵を切って代わることに事になるのであった。
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2022年09月11日

月見の思い出

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昨日、中秋の名月・月見の思い出を、親友のY君とLINEでチャットしあった。
「ちっちゃいとき、よそ家の庭に忍び込んで、だんごをついたりお菓子を取りに行ったなぁ。」
とY君
「そんな風習は、もうとっくの昔に無くなってるでぇ。わいが30歳の時には、もうわいらの田舎では無くなってたなぁ。」
と私。
残念ながら実際のところ40年以上も昔に、私の育った村でもすたれてしまっている。
「あんな経験、ええ思い出になるし、人間関係も磨けるで。それに肝試し、根性試しも。」
「せやな。ああいうええ風習は残したいもんやけど、なかなか理想と現実は離れてるしなぁ。」

月見の日に、お団子や果物を供えるといった風習があったし、だんごと一緒に供えるすすきを刈り取ってくるのも、子供の仕事だった。
220910 中秋の名月.jpg
そもそもお供えした月見団子を、子供達が盗むという行為は「盗む」という言葉にこだわるなら間違っているには違いない。ただこれを、大人と子供の遊びと考えるなら、どうだろう。子供達は出し抜いたつもり、大人は子供達が十分盗み食いしたころを見計らって
「こらー!」
と声をかけ、子供達が一斉に逃げ出すといった具合、筋書き通りの劇を演じていたのであったと、ある程度成長してから理解したのである。
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2022年08月12日

今日は、儲けたなぁ!

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御巣鷹山忌

朝8時過ぎ、急に陽が射してきて思わず
「今日は、儲けたなぁ!」
と言ってから、おばぁさんの事を思い出した。
おばぁさんと言っても祖母ではなく祖母の妹、私を小学5年生から育ててくれた人である。子供の頃私はこのおばぁさんが苦手で、大きな目で睨まれると縮みあがったものである。それが10年近く育ててもらうことになったのだから、人生いやはやといったところであろうか。おまけにこの間二度の大病、いずれも二か月に及ぶ入院で、網膜剥離の時など医師に
「私の眼を上げてもあげてもいいで、見えるようにしてやってください!」
とせがむ始末
「おばぁさん、安心して大丈夫だから。」
と慰められていたのを思い出す。
さて文頭のことばである。
田舎の事ゆえご主人は勤め人で、週末には農業に精を出すのが常。
おばぁさん自身は、日中時間があると畑仕事といった具合で、雨の日には畑仕事はできないから、晴れると
「今日は、儲けたなぁ!」
とよく言っていた。私もそんなおばぁさんの口癖が、うつっていたということになるのだろうか。ちなみにおばぁさんが亡くなって、もう32年になる。
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2022年06月29日

小学五年の夏 10

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日本では梅雨明けの報が、色々な地方から続いている。各地域とも、観測史上最短の梅雨だという。この記録的な梅雨の短さの因であろうラニーニャ現象は、以前として続いており、今年の日本の夏は、ことのほか暑いという予報だ。

さて1959年の夏。
母の長期入院と二つの大事件を機に、私の生活が一変したことは、何度も繰り返し述べている。
9月になって新学期を迎え、私はおばあさんの家の向かいのY君や、母の従弟にあたるHちゃんと一緒に登校するようになった。母の従弟とはいえ、Hちゃんは私より一歳だけ年上で、それまでにも遊び仲間だった筈だが、行動を一緒にする機会が増えたのは、おばあさんが、それとなくそうなるように仕向けていたのかもしれないが、今となっては知る由もない。本家筋のDちゃんや自宅迎いのYちゃんは、私に悪影響を及ぼしたわけでもないのに、おばぁさんの理解はそうだったのだろう。
母の退院を期に、もう一点私の劇的な変化がある。
私は母のことを「あぁちゃん!」と呼んでいた。伯母やおばあさんは、私が三年生になった頃、
「もうすぐ10歳にもなるのだから、ああちゃんは止めて『おかあさん』と呼びなさい。」
と諭したけれど、私が頑として譲らなかったのである。それが母の退院して来た日、おばあさんの家の居間で母のちょこんと座っているのを見て、思わず
「おかぁさん、お帰り。」
と声をかけたのである。母は私の呼びかけに、ちょっと驚いた顔をして、その後少しの間中空を見上げていた。私は五か月間母と離れて過ごしていたことになり、この五カ月が私を大いに変えてしまったのであると私は理解している。
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2022年06月28日

小学五年の夏 9

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日本では、昨日27日に一部地域ながら梅雨が明けたそうだ。このまま本当に開けたとすれば、空梅雨となる。またぞろ温暖化と騒ぐお方も多かろうなぁ。

さて時間は数日前から、1959年私が小学五年であった夏に戻っている。
この年もだが、あの頃は本当に台風が多かった。
この年の台風は、台風15号・伊勢湾台風である。あまりうれしくない記録ながら、阪神淡路大震災の起こるまで、この伊勢湾台風による死者の数が記録として残る自然災害として最高だったという。ただ私の住む貝塚は、この台風の上陸が潮岬で、台風の西側に位置していたこともあり被害は意外と少なかった。台風の来襲は9月26日で夏というより秋という方が正確だったかもしれない。ただ台風が去って世間に落ち着きが戻ってきた頃、母は退院してきた。
私が小学校から帰ると、おばぁさんの家の居間に母がちょこんと座っていた。母はあの当時の情勢としては大柄であったけれど、私にはえらく小さく感じられた。ただ何日か前から子の退院の日は大人たちの間では判っていたのだろうが、私には一切知らされていなかった。しばらくすると伯母がやって来て、
「今晩からでも、懸田で寝れそうやなぁ。おばあさんが毎日言ってくれてたんやなぁ。」
と、ねぎらいの言葉をおばあさんにかけた。
「おばぁさんと僕が毎晩泊りに行ってたにんやでぇ。」
という私のことばには耳もかさず、おばぁさんは
「今日はうちで泊まって、明日から三人で眠りに行く。しばらくはご飯はここで食べたらええんやから!」
と、話を打ち切った。
次の日学校に行くと、担任のY先生が
「善一郎、お母さんが退院して来たそうやな。良かったなぁ。何回か見舞いに行ったんか?」
と尋ねたので、一度も見舞いにはいかなかったことを告げると
「お前は薄情な子供やなぁ。何で見舞いに行かなかったのじゃ!」
またぞろ叱られてしまった。ただ真空ポンプの時のような叱り方ではなく、私を諭す叱り方であった。
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2022年06月27日

小学五年の夏 8

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自宅におばぁさんと二人で寝るようになったことと関係して、私の早寝早起きの習慣は、この頃から始まった。朝四時起床、夜九時就寝という習慣で、体調の悪いときを除いて、私が63歳で大阪大学を退職するまで続いた。
おばぁさんはそんなはやおきの私に、
「毎朝起きたら、土間を掃いてきれいにするように。」
と言って日々の役割を命じた。
私の場合、自宅で四時頃起きだして、しばらく本を読んでゴロゴロするのがつねであったが、6時となるとおばぁさんも起きだしてくるので、それから歩いて五分足らずのおばぁさんの家に行くのである。そして私はといえば、まず朝刊に目を通す癖があったのだが、そんな気儘な振る舞いは禁じられたに等しかった。
後になって私は、世話になっている家族を差し置いて、いの一番に新聞に目を通すという習慣は、居候の身にとってまことに「厚かましい」振舞であったことを認識するようになるのだが、あの当時はよく言えば天真爛漫でったというべきだろう。そしておばぁさんに感謝するのは、
「世話になっているのだから、遠慮をせよ。」
といった、ある意味卑屈な言葉を一つもかけることなく、日々の行動を通じて矯正してくれたことである。
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2022年06月26日

小学五年の夏 7

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頬を何度も叩かれたのは、確かに痛かったけれど、私はむしろ
「母が長期休職中で、このことを知らないのは助かった。」
と、心のどこかで安堵する自分を感じていた。ただこの事件は、なぜか学校では話題にもならず、それぞれの家庭に知らされることはなかった。そして次の日、何事もなかったように普段通りの授業が行われ、数日後には夏休みをむかえた。ただ壊れた模型の真空ポンプは、理科実験室の棚の所定位置に長く置かれたままで、卒業の頃になっても新しい模型には置き代わることがなかったように記憶している。
私はそれまでにもそれ以後にも、Y先生のあのような激怒は見たことがなく、
「何故あそこまで?」
と、時折思い出しては不思議であった。とはいっても、私はY先生のことを怖い先生だと恐れることもなかったし、叩かれたこで嫌いになるということもなかった。さらには、ある意味理不尽な叱られ方をしたことを認めたうえで、敢えて弁解したりしようとも考えなかった。
二つの大事件と、急に自由の無くなってしまった夏は、例年通りの暑い夏で、慣れない農作業の手伝いと、庭の草抜きに明け暮れながら過ぎて行った。夏休みの後半になって、おばぁさんは
「善一郎、今日から懸田の家で寝よう。」
と、言い出した。懸田とは私の家のあった土地の呼び名で、屋号の役目をしていたようだ。
金に糸目をつけず祖父が建てた家だけに、天井が高く夏の日中でも結構涼しかった。ただ時折、独りで行って寝ておくように、後で行くからとおばあさんから命ぜられるのには、閉口した。なんといっても一人で寝ていると、時々家のきしむ音が聞こえてきて、気味が悪かったのである。
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2022年06月25日

小学五年の夏 6

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私にとって小学5年の夏は、この歳になって思い返しても、人生の大きな曲がり角であったことは間違いなかったと思える。この二年後には母は他界し、私は天涯孤独の身となるのだが、二年間の経験が、母と別れてしまってからの、私の身の処し方に役に立ったに違いないと理解している。
さて小学5年の夏である。もう一つ大事件があった。
昼の休み時間だったと記憶しているが、理科実験室から真空ポンプの模型を持ち出して壊してしまったという事件である。言い訳をするつもりはさらさらないけれど、持ち出したのも、壊したのも私ではなかったけれど、たまたま担任のY 先生が通り過ぎたとき、持ち出した友人達が、洗い場であれこれ試しているのを眺めている私を見咎め
「善一郎、理科の実験機材で遊んだらいけん!すぐしまうように。」
と声をかけたのが発端であった。
私はあれこれ試している、S君、T君、M君に
「Y先生しまえいうてるでぇ。はよ片付けよう。」
と声をかけたのだがM君は
「善さん、すぐに片付けるから、任しといて!」
と、上の空で応えた。私はその返事で安心して、教室に帰ったら間もなくS君とT君がやって来て
「ポンプ壊した。ガラスの部分が飛んで割れたん。」
というので、急ぎ洗い場に向かった。洗い場にはY 先生が顔を真っ赤にしてたっておられた。そして最初持ち出しを提案したというM君の姿は見えなかった。Y先生は私達三人、私、S君、T君を並べ
「実験器具で遊んだらいけん言うたじゃろ!」
とだけ大声で怒鳴って、後は俗にいう「ビンタ」それも往復ビンタで三人を叩いた。今日なら体罰で問題になるところだろうが、太平洋戦争が終わって15年、教員が生徒をひっぱたくというのは珍しくはなかったのである。
いずれにしても、弁解の余地も与えずひたすら両頬をひっぱたかれた。間もなくT君は恐怖心も手伝って脳貧血を起し倒れ、誰かが保健室へ連れて行った。それでもY先生の体罰は止むことがなく、私とS君はその後しばらく叩かれ続けた。
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2022年06月23日

小学五年の夏 5

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私は、大阪府南部に位置する貝塚市で生まれ育った。
貝塚市とは言っても市の東端に位置する、和泉山脈の支脈に近い小さな村・里山である。それこそ石を投げれば、村はずれのから始まる林にとどきそうなほどであった。そんな生まれ故郷から大阪市には、水間電車と南海電車を乗り継いで、一時間余りで行ける距離で、今日でも大阪市内に勤務して通っている人も少なくはない。
母は、夏休みと冬休みには、私を連れて大阪市内に出向き盆暮れの買い物をするのだが、まず四ツ橋にあった電気科学館に私を連れて行って、二三時間遊ばせてくれた。三年生になってからは、同い年の従姉も同行するようになり、心斎橋の大丸での母の買い物の間は、二人で展示物を観たりプラネタリウムでその日の星空を見て楽しんだ。子供の頃の母と一緒に出かけた思い出の、それもあまり多くはない思い出なのだが、ただ母の入院を期に、そんな習慣が全くなくなってしまった。そんな甘えん坊の私の思い出にとってかわったのは、おばぁさに連れられ、教えられての畑作業の手伝いや、夏草抜きの毎日で、それが小学五年の夏から始まった。甘やかされて育てられていた私にとっては、とんでもない生活一変ながら、この歳73になって思うのは
「子供ってのは、意外と環境に順応できるもんなんだ!」
ということである。私にとって運がよかったのは、私にはまだ反抗期が始まっておらず、おばぁさんが怖くて、言われるとおりに従ったことだろう。ご近所のお母さん方が
「善ちゃんは、お母さんがいないのに、おばあさんの言うことはいはい聞いてえらいなぁ。」
と誉め言葉をくださっても、私にはおばぁさんに反抗することなど、考えすらしなかった。
ついでにいうと、高校生になった頃には、おばあさんと衝突するようになったけれど、それは高校生の狡さが働いての反抗で、いずれ話す機会もあるだろうと思う。
さて小学五年の夏休み、一変した生活で日は過ぎてゆき、二三週間に一度伯母(母の姉が)、母を病院に見舞って報告にやって来た。伯母のおばあさんへの報告では、夏休み中の退院は難しく秋になってからだろうということであった。
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2022年06月22日

小学五年の夏 4

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甘やかされて育てられている私に、もともと厳しかったおばあさんであったが、温度計事件を境にさらに厳しくなった。すぐに夏休みが始まって、四六時中おばぁさんの目の届くところにいるというのも、おばぁさんには好都合だったのだろう。ともかく自由な時間が少なくなった。早朝の涼しいうちは畑に連れていかれ、おばあさんの捥いだ水茄子を畔のかごまで運ぶのが、私の与えられた最初の頃の役目だった。そのうち時折は水茄子を捥ぐこともやるようになったが、
「お前のやることは、雑だ!」
という小言が付いて回った。午前八時頃には家に戻り、朝食を食べて後しばらくは、夏休みの宿題をする時間となったものの、十日もすれば宿題はすっかり片付いてしまった。それで八月の声を聞く頃からは、午前中は自宅の庭の草抜きが日課となった。自宅は祖父が一代で財を成し、身分不相応とも思える家を建てたので、庭も広かった。家の表にも、裏にも前栽が有り、おばあさんと二人で雑草抜きをするのだが、いつまでたっても終わることがないように思われた。
「お前の抜きかたは、雑だ!」
とこれまた小言を言われながらの二三時間であったろうか。
昼食後は昼寝をしたり近くの川で水遊びをしたりすることもあったが、夕方ともなるとあれこれ手伝いを命じられた。中でも日が暮れて後、自宅の雨戸を閉めに行くのは、あまり好まなかった。小学五年生の子供にとっては大きな家で、真っ暗な家は自宅ながら何やら不気味であったのである。
温度計事件の後は、DちゃんやYちゃんと一緒になって遊ぶことは、めっきり少なくなった。その代わりというわけでもないが、おばあさんの家の向かいのY君とはすっかり仲良くなり、生涯を通じての友人となるのだが、当然この頃にはそんなことはまるで気付いてはいななかった。
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