2025年01月17日

満76歳になったで

⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
今日で30年は、阪神・淡路大震災
今日で76年は、天邪鬼爺の満年齢。という事でわいの誕生日や!
まぁこの歳になると、本音で一年・一年が勝負やし、せやから

「次の誕生日までもつかいなぁ?!」

ちゅう声が、耳の奥で聞こえそうやで。
ただ今年の1月17日は最悪やから、来年は鬼に笑われてもええよって、もうちょっとましな誕生日を出来たら日本で迎えたいもんやで。
話しは変わるけど、横綱・照ノ富士は引退を決めたちゅうニュースも流れたりしてる。こんなニュースがあると、この爺も気が弱うなる。まぁそんな自分を鼓舞してもうひと踏ん張りかな。

イスラエルとパレスチナの停戦がようやく(?)実現らしい。
ただハマスの殲滅を目指してたんやから、ネタニヤフ首相の本音は、決して戦争を止めよう何ぞといったところにはないと思うんやけど。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 09:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2025年01月13日

成人の日

⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
成人の日
輪島では、一年遅れの成人の日を迎えた若者もいる由。
なんちゅうても大地震やったもんな。


わいの成人式は、大学入学試験を控えていた20歳になる直前。
あの頃は成人の日は1月15日やったもんな。
親友のユウサンは大怪我からようよう社会復帰したころやった筈で、示し合わせたんとちやうけど二人とも成人式には出席せんかった。もう一人仲の良かったリョウイッチャンは、当時和歌山大学の一年生やった筈で、成人式には行ったと聞いてる。そのリョウイッチャンはもはや物故となって、久しいなぁ。何でも酔っぱらって南海電車の鉄橋を歩いてわたっとって、はねられたらしい。宴会の後やったらしいけど、なんでそんなことしたんか不思議でならんなぁ。遅い時刻やったから、最終電車の後やと思うたんやろか。
なんせユウサンとリョウイッチャンとわいの三人は、高校生の頃から仲ようなった。小学校、中学校はおんなじ学校やったけど、いうたら普通の友達関係やったのに、高校生になった頃から仲間意識が強うなった。
それぞれの家庭環境にお互い感じるもんあったんやろな。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2024年12月23日

有馬記念テレビ観戦

⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
昨日午後ゲーヤンが、我が家を訪ねてきた。
北陸・金沢でのロケット誘雷実験に同行して以来だから、一週間ぶりの再会。
「有馬記念をテレビ観戦しよう!」
と話がまとまっての来訪である。
そもそも我々二人大学三年生の時、阪神競馬場での桜花賞を同じクラスの、競馬好きに連れられて行ったのが興味を持つようになったきっかけ。
ただ競馬場詣では意外と少なく、場外馬券を買ってのテレビ観戦がほとんどではなかったろうか。それでもゲーヤンはある意味凝り性で、馬のことも詳しく調べ、あれこれ蘊蓄を語ることが多かった。古い話ながらテンポイントには、かなり思い込みがあったように思う。さらに古い話ながら、タニノチカラの走りっぷりも、大いに気に入っていたと記憶している。
その後愛媛大学と名古屋大学にそれぞれ職を得て以降は、あまり競馬の話しをする機会もなかったけれど、昨日のテレビ観戦はあれこれ思いでもあり、それなりに楽しかった。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 00:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2024年12月06日

2008年8月のブログ

⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
2008.08.21の内容をそのまま16年前にこんなことを考えていたんだと驚きながら。
年甲斐もなくブログを続けている。ちなみにブログとは,ウエブログ( Web Log )を略したもので,最初のウエブを分かりやすく言えばインターネット,二つ目のログは記録といった意味だから,インターネット上に公開する記録や日記といった意味になるのだろう。そんなブログの個人専用ホームページ(サイと)を2年10か月前(2005年12月)に開設し,以来自慢にはならないけれど,一日も休んだことがない。自分自身このしつこさというか,へんこさというかを,嫌になる時がある。ただ嫌になろうとも付き合って行かぬ訳にもいかず,だから今日もブログを更新している。
そもそもブログを始める気になったのは,若い人達の間で流行と聞き,どんなものかと立ち寄ってみたら,とても文とは思えぬものが多くて愕然としたことがきっかけである。何冊ものベストセラーを続けておられる著名な随筆家が,若者文化ともいわれるこの種の言葉の乱れを,容認する旨の解説を以前何かの雑誌に書いておられた
けれど,阪大のおっさんたる小生には,どうにも我慢できないし,許すこともできない。もとより小生は物書きでもなければ言語学者ではない。
「それならおっさん風のブログをやって見せて!」
と,いわば若者文化に挑戦状を叩き付けるくらいの気概で立ち上がったのである。
さてブログを始めるにあたって,まず考えたのはブログサイトの名前である。大学教員たる小生の専門は雷放電物理で,それなら雷にちなんだ命名をと考えた。そしてすぐに思い浮かんだのが,「風神雷神」である。ただそこで考えた。そのままではべたすぎるし,おこがましすぎる。それなら読み方はそのまま拝借し,少しひねってみたらどうかと思案し七転八倒の末,到達したのが,「風塵雷人」である。
そして精一杯気障っぽく,
「ブログサイトの大家たる小生は,風の前では塵のような存在かも知れぬが,雷の事を精一杯研究している学者です。」
を,命名の理由とすることにした。こうやってブログの名前が出来上がると,俄然やる気もわいてきて,毎日一回ずつの更新から始まり,そのうち朝夕一回ずつ,ゆとりのある日には昼間にもう一回と,今では毎日2回の更新を自身のノルマと課している。おかげさまで,開始以来2年3ヵ月あまりの今年2008年4月初旬には,御来客のお客様の総数が100万名を突破した次第である。2年3ヶ月で100万名突破が果たして多いのか少ないのは定かではないが,自分自身の書いたものが多くの方々の目に曝されているということだけは確実であろう。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 00:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2024年11月28日

坂の上の雲を目指す

⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
何日か前、「坂の上の雲」の話をした。
それは、司馬遼太郎さんの著作「坂の上の雲」の書き出しにある、坂の上の「一朶の雲」を目指す若者が日本には少なくなったのではないかと、天邪鬼爺の私が危惧しているからである。それにこの時期、10年ほど前に放送されたTV ドラマ「坂の上の雲」が、NHKで再放送されており、たまたま観る機会に恵まれたこととも関係している。
私の弟子の一人に、韓国気象庁に勤務していた韓国人の弟子が居る。年齢は10歳位程度の差で、私が大阪大学の教授になる二三年前だったろうか、どういうきっかけだったか全く忘れてしまったけれど、「雷放電の研究をして、博士の学位を取りたい。」
と申し出があった。言葉の問題で、いささか意思の疎通に難があったけれど、もとより断る理由でもなく、博士課程学生として受け入れた。そしてそれから三年余り、主として国内の野外の実験(福井県美浜町のレーザ誘雷実験)に参加してもらって、めでたく工学博士の誕生となった。
彼の帰国後何年かして、ソウルで会うことになったのだが、
「おかげさまで副台長になりました。」
という彼が、私のおめでとうの言葉に続いて
「先生は私が出世すると嬉しいですか。それなら頑張って気象台長をめざします。」
と真顔で言ったので大いに感心し、
「韓国にはまだ坂の上の雲を目指す若者がいるんだ!」
と大いに感激した。弟子の彼が若者だったかどうかはともかくとして・・・。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2024年11月22日

思い出したこと

⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
一昨日昨日「坂の上の雲」と題した内容を揚げた。
細かな話はさておき、これは司馬遼太郎さんの著作の題名で、わいの好きな作品の一つである。好きな作品には違いないけれど、「司馬さんの歴史観」に共鳴してというのが正直なところで、大学闘争、学園闘争世代の生き残り(?)として、新左翼シンパのわいは、司馬さんの言説で未だに啓発されている。ただ同じ世代のやや右寄りだが親しい同僚は、「司馬遼太郎」さんを受け入れらないらしく、全く否定的でこの件に関しては、意見がかみ合わなかった。1970年台当時は、多分敵対していたのだろうが、お互い教授に昇進した2000年台には、左右「イデオロギー」の差はともかく気の合う仲間となっていた。
話は少し変わるが、あのころ大阪大学も大学院重点化の波が寄せ、あれこれ改革を余儀なくされたのも、我々団塊世代が指導者になった頃であった。そして電気系は大学科制となり、40講座教授数40名弱、准教授、助教も入れると100名を越す大所帯となった。だからそれまで持ち回りで担当することになっていた学科長も、選挙ということになった。そしてわいは二代目の学科長を務めることになったのだが、先に述べた右寄りの同僚が
「河崎さん、選挙で選ばれたんやからやりたいようにやりや!」
と「暖かい」言葉をかけてくれた。
ただわい自身選ばれたからと言ってやりたいようにやる気など全くなく、
「舵取り任されただけや。やりたいようにやちゅうなんて、さすがきゃつは右寄りなんや!」
と、あの時は改めて30年昔を思い出していた。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 00:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2024年11月06日

初めての講演

⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
話しがついつい前後することになるけれど、私が空電研究所の助手の職を得た次の年、同じ部門の助手の仲野さんが、一年間のニューメキシコ鉱工科大学への長期出張に出かけられた。それまでにも海外での研究生活に憧れを持っていた私は、現実にそんな可能性がある環境に自分が居ることを認識するようになった。さらにその気持ちを強くしたのは、ノルウェー西海岸の寒村・セリア村での冬季雷観測では無かったろうか。この出張は、11月末から年の代わった1月中頃までの2カ月弱で、帰路にはマンチェスターのUMISTを訪ねたりして、大気電気コミュニテーの一員としての自覚を持つことが出来るようになっていった。まだまだ駆け出しであった私に、訪問先のUMISTのアンソニーさんが
「ノルウェーでどんな観測をやって来たのか、みんなの前で話して欲しい!」
と、非公式セミナーの要求をされたときには、大いに困った。とはいえこの時の講演は後々海外の学会で講演するときの心構えに強く影響を及ぼしたし、75歳になる今でも役に立っている。生涯で初めての海外出張、外国人の前での初めての英語での講演(非公式とはいえ)が、大きな糧になったのであある。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 01:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2024年11月05日

空電研究所 2

⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
私の大学院時代の研究は、理論というには恥ずかしながら、もっともらしい式をいじり結果を数値計算をするといった理論風の研究であったので、助手となった空電研究所の測定・観測を主体とする研究スタイルは、正直全く初めての経験であった。同じ階の第六部門には電気学会の電磁界理論研究会で出会ったことのある鷲見助教授がいらっしゃったけれど、それ以外には見知った教官はいなかった。まぁいずれにしても、大阪大学時代の積み重ねは、ぶっちゃけあまり役には立たず、技官の二人にあれこれ教わりながらの文部教官・助手生活のスタートであったと理解している。
助手公募の案内にあった環境電磁工学の研究は、仲井教授が自動車流(高速道路)や新幹線のパルス電磁雑音に測定を開始していらっしゃって、空電研究所(愛知県豊川市)近くの東名高速道路や東海道新幹線に電磁雑音の測定に同行するよう命ぜられた。仲井教授は雷放電起源のインパルス性電磁雑音の統計で学位をとられていたのだが、1980年台初めには、ディジタル放送の実用化が見え始めていたこともあって、人工のインパルス性電磁雑音の研究に舵を切られたというのが実際のところであったのだろう。だから野外の観測に加え、D. Middleton のIEEE EMCの論文を奨められ、仲井教授と二人で輪講した。随分と後になってあの時の仲井教授の意図するところを理解できるようになったけれど、その頃には私自身は生涯の研究を大気電気と決め始めており、後戻りすることはなかったのである。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 00:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2024年11月04日

空電研究所

⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
その後の数か月を経て、詳細はさておき1979年4月に、私は名古屋大学空電研究所に文部教官助手として就職することになった。4月1日は日曜日だったので、赴任つまり初出勤は4月2日であった。あの日はまさに快晴で、
「修士二年の星野君と同室です。」
と三階の居室に案内され、部屋に入ると南の窓からは、日の光が一杯射しこんでいた。
30歳にして初めて定職を得て、ようやく社会に踏み出したのだという実感は、まだまだなかった。それでも、居室の椅子に座って灰色の事務机ながら
「これが大学人の椅子で机だ!」
と、妙な感激にしばらく浸っていたことは、記憶の片隅に今でも残っている。
研究室は研究所の第五分野で主題は環境電磁工学、教授の仲井先生(故人)、助教授の竹内先生(故人)、仲野助手に、長谷技官、中田技官の5名に、私を加えて6名という構成となった。ただ助教授と助手の二人は自然電磁雑音(大気電気学:雷放電起源 広い意味の環境電磁工学)、教授と私は人口電磁雑音という風に住み分けることとなっていた。そして二人の技官は、それぞれのグループが観測に必要とする機器・装置の製作を担当しているという事だった。改めて書くべきことではないかもしれぬが、私を助手として採用して下さったのは仲井教授で、あの頃、40年前は、
「教授の一存で助手を採用。」
という、古き良き時代であった。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 00:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2024年11月03日

就職浪人

⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
私が大阪大学で工学博士の学位を取得し、一年の研究生生活という就職浪人を経験して、名古屋大学空電研究所に籍を得たのは、本当に幸運だったと思う。
博士課程に進学するにあたって、指導教授の故熊谷教授からは
「大学教官への就職の世話は、保証できないよ。」
と念を押され、それでもゲーヤンと私は進学した。そして自分達でいうのもおこがましいながら、二人とも規定の三年間で博士課程を終えることになった。二月初旬の学位公聴会が終わっても、指導教授からは当然のように就職先の話しは出なかった。当時私は大阪市内の進学予備校で数学の授業を受け持っており、その実入りが結構良かったので、一年か二年は我慢できるだろうと気楽に考えていた。いずれにしても我々二人は、一般企業に就職するつもりはさらさらなく、当然のことのように二人とも就職浪人となった。だからゲーヤンも私もその年の四月には、所属していた研究室の研究生となった。今日ならインターネットで教員公募の情報が流れるけれど、当時は大学教員公募の案内は、関連学術雑誌での広告か、指導教授を通じての斡旋ぐらいしかなかった。そして私達の属していた研究室には、二年先輩と一年先輩の二人が就職浪人を続けており、我々二人を加えると四月からは四名の研究生を抱えることとなった。
私は、毎月届く電気学会や電子情報通信学会で、大学教員公募の欄を読み漁ったものである。そしてその年1978年の九月号だったと思うのだが、名古屋大学の空電研究所が
「環境電磁工学(EMC)の研究に取り組む意思のある者」
との公募を出しているのを見つけた。ただ環境電磁工学という研究主題にはとんと疎く、電気系図書室でIEEE(米国電気電子学会)の分冊にElectro Magnetic Compatibility(EMC)というのを見つけだし
「あぁ、これだ!」
と理解した。早速指導教授に
「応募したいと思うのですが。」
と相談に行ったら、
「一年上の先輩が応募したいといっている。君が応募するのは止め立てしないが、推薦状は先輩にしか書けないよ。」
と念を押され、それでも応募しますと応えて教授室を後にした。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 10:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白