2018年11月25日

10年前の思い出から

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10年前の今日の内容から思い出した、その後の悲惨というか大変難儀をした経験。
ブログを読み返せばたぶん書いてあるのだろうが、現時点での記憶を頼りに思い出している。
「蜂窩織炎」を患ったことは昨日も書いた。
熱の出たのがたぶんアレキサンドリアのホテルが最初だったろう。
ただその時は風邪だとしか考えなかった。
そして帰国するころになって、右足首が痛み出しよくよく見れば、赤黒くなって腫れている。だから帰国して次の日だったか、その次の日だったか、南千里にある皮膚科に行った。その皮膚科を知っていたというのではなく、秘書のNさんがネットサーフィンして探してくれたのである。そして診察を受けたところ、医師は足首を見るなり
「熱はないのか?痛みはどの程度か?」
等々、えらく真顔で問いただすではないか?そして
「蜂窩織炎です。晩酌の習慣があるなら、いましばらくは禁酒です。」
とおっしゃる。私は
「どの程度まじめに禁酒せなあかんのですか?」
と返したところ、
「蜂窩織炎は、常在菌が真皮のさらに下に入り込んでいます。抗生物質で治療しますが、常在菌だけに効果があるかどうか?お酒を飲めば血の巡りがよくなって、運が悪いと敗血症にまでなりますよ!」
とダメを押された。
「12月になれば第一週目にはサンフランシスコへの出張があるのですが?」
の質問には、
「足の痛みがなくなればいいですが、今の状態では無理でしょう。」
という。
「じゃぁ、熱が下がったら車椅子で行きますから、それなら・・。」
という問いに、いささかあきれ顔で
「行く元気があるならどうぞ。」
とおっしゃった。
ともかく熱は二三日でおさまったものの、足首の痛みはしばらく取れなかった。
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2018年11月02日

中国の勢い

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「English Corner」と言われても耳慣れない言いながら、私には何となく想像は出来た。
「多分、英語会話の能力を高めたい若者が、集まっている集会なんだろう。」
程度の軽い気持ちで出かけて行ったところ、参加者の多さやその熱心さに圧倒された。あの場では、少なくとも私は外国人、そんな私に若者たちが次々と話しかけてくる。
「どこから来たのか?」
「何をしているのか?」
「大学では何を教えているのか?」
「日本はどんな国だ?」
「アメリカに行ったことはあるのか?」
比較的簡単な内容の会話が多かったのは事実であるが、いやはやもう次から次から雲霞のごとく湧き出てくる。それが徐々に経済政策を進めていたとはいえ経済解放前の中国である。彼らは、疲弊した共産主義経済の底辺から、一獲千金とは言わないまでもなんとしても這い上がろうと、精一杯の努力をしていたのであろう。そして
「日本は良いなぁ。マイカーを持って、衣服も洒落ていて、本当にうらやましい。私達の国はいつ日本い追いつくのだろう?自分たちの生きている間には、とても無理だろう。」
と、異口同音に愚痴る若者達に
「あなたたちの情熱があれば、すぐに追いつき追い越すよ!」
と答えた。言い様こそ違え、先日紹介した松下幸之助さんの
「皆さんは必ず日本い追いつき、また日本にない技術を開発するでしょう。最初に松下にその技術を売りに来てください。」
の言葉に通ずるものがあると、今になって思い返している。
今の中国の勢い、松下さんお言葉から30年、私と若者達との会話から20年で、現実に中国は日本を追い抜き去り、世界第二位の経済大国になっている。
実は1990年代の後半、上海の街を訪れたことがある。その折繁華街に、欧州や米国のデザイナーズブランドのショップを多く見かけ、ある店で
「失礼ながら中国の経済状態で、こんな高いものを買う人がいるのですか?」
と尋ねたことがある。その時の店員の答えが印象深かった。
「中国の人口は日本の10倍以上です。中国でも日本でも、超のつく金持ち・資産家は1%以下でしょうが、お金持ちのレベルは似たようなもの。となると我が国の購買力は、日本の10倍を下りません!」
納得せざるを得なかった。
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2018年11月01日

30年前の熱気

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霜月朔日 2018年もあと二ヶ月を残すのみ

北京・蘭州の長距離汽車旅行は、4人部屋の寝台車で(たぶん特等だったのだろう)、早い話しコンパートメント仕様、昼は椅子、夜は二段ベッドであった。
30年前の記憶を手繰り寄せると、大同、呼和浩、包頭、銀川を経由して汽車は進んでいった筈である。そして内モンゴルを走る汽車は、夜ともなると結構冷えたので、夏服しか持っていない私は寒い思いをした。やがてようやく蘭州と聞かされ、それでも汽車がしばらく止まってしまったのをうっすらと覚えている。
汽車が鉄橋を渡るときWさんから
「この川は黄河です!」
と聞かされ、豊富な水量に驚くとともにその水が黄色く濁っているのを見て、
「なるほど黄河。」
と納得したのもかすかな記憶に残っている。
その蘭州には二三週間は居たろうか?
滞在は蘭州の街の中ほどに位置するホテルで、高原大気物理研究所にも歩いて行ける距離であった。その研究所には原則朝から夕方まで滞在したのだが、蘭州の朝の明けるのが遅いのにはいささか閉口した。何せ中国は全土時差がなく、北京に比べると少なくとも一時間は遅かったのである。
四人の若者達とは四六時中一緒に行動した。一番印象に残っているのは
「English corner がありますから。」
と言って連れて行ってもらったのはあの夕暮れの若者たちの群れ。公園の一角に集まって、ともかく英語会話力をものにしようという、あの熱気であった。
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2018年10月31日

北京から蘭州へ

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北京郊外での実験は、20日間程度であったろうか。
蘭州高原大気物理研究所の教員や学生のやる気とは裏腹に、明らかに準備不足、機材不足は否めず、昨日も書いたように共同研究としての成果は皆無であった。ただこれも昨日書いたように、若い研究者たちとの繋がりができた。北京郊外での期間が終わって、Sさんが帰国したのち、私は彼らの本拠である蘭州を訪問した。訪問したというよりは、Wさんに連れられ正味二日間の汽車旅行を楽しんで(??)蘭州まで移動したのである。汽車旅行となったのは私の希望で、郭教授から
「この共同研究は、中国科学院と日本学術振興会の研究・教育共同のプログラムです。だから観測のあとは蘭州に行ってもらって、あれこれ学生たちに講義をして欲しい!」
の申し出があり、
「それなら汽車で行きたいなぁ。日本では汽車に乗ることはまずないから。」
とお願いした。これに対し
「経路は、西安等を経由しての南回りと、内モンゴルを経由しての北回りがある。どちらも48時間程度。ただし大変疲れますよ。」
のことであったが、例のWさんと相談して、北回りを選んだのであった。
汽車は四人部屋の寝台車、今となっては随行してくださった研究所の職員の方の名前すら覚えていないけれど、Wさんと私に加えもう二人がいた筈である。
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2018年10月30日

日中国交回復40年 2

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中国科学院高原大気物理研究所との、共同野外実験・観測の話題を続ける。
郭教授のグループが、北京郊外でロケット誘雷実験をやるという事で、
「その誘雷実験を日本の誘雷実験グループが指導する!」
との意味もあり、中部大学Sさんと二人しての訪中であった。
私自身ロケット誘雷グループには全くの新参ものであったが、雷放電の光学観測という意味ではそれなりに経験も積んでいて、勇躍しての訪中であったということになろうか。それにそれまで若手向けの小さな科学研究費を獲得したことはあったものの、ああいった規模の申請、それも自身が代表者となっての研究費獲得は、初めての経験だったのである。とはいえ当時はまだ中国は経済開放前であったのだが、今にして思えば、よくぞ出かけて行ったとの印象が強い。なんといっても40歳前の事だから、まだまだ若かったという事になるのだろう。
実はこの訪中で、私は4名の若者と出会った。若者は、郭教授、劉教授のお弟子さん達で、日本の大学院制度でいうなら修士課程の学生という事になる。後日談になるけれど、皆々今日ではひとかど以上の研究者、指導者になっているから、立派なものである。この年の誘雷実験はことごとく失敗したので、この年の研究成果はゼロながら、この4名とは大なり小なり未だに連絡を取りあっており生涯を通じての財産となっている。とりわけ、通訳としてほとんど四六時中付き合ってくれたWさんは、私の最初の博士学生で「出藍の誉れ」高い研究者として育っている。(この稿まだ続く)
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2018年10月29日

日中国交回復40年

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昨日の朝日新聞・天声人語氏は、日中国交回復40年を取り上げて、あれこれ論じていた。あの頃の中国は、文化革命の影響もあって経済的には疲弊、色々な意味で開発途上国の一つだった筈。ただ松下幸之助さんの言葉がええなぁ。
「皆さんは必ず日本い追いつき、また日本にない技術を開発するでしょう。最初に松下にその技術を売りに来てください。」
中国に対してはあれこれ批判があるにせよ、今日の中国は押しも押されもせぬ、経済大国、世界第二位である。
さて私は、その10年ほど後、解放前の中国で二か月半を過ごした。
もちろん物見遊山などではなく、日本学術振興会に応募しての共同研究であった。
あの頃の職場空電研究所は、設立40年を控え「組織改革」を余儀なくされていた。例によって文部省のお役人様の指導で、今なら
「何言うてんね!」
と居直って議論するところであろうが、当時は
「雷の研究は古い!この部門が研究所の足を引っ張っている。」
と名指しで言われれば、
「そうかいなぁ!」
と悩んでしまう、ある意味純情な研究者だったのである。
実際研究室の大将も、研究予算獲得という観点からみれば、大いに影が薄く、私自身の生き残りのために研究予算を獲得せねばと、学術振興会に応募したのであった。
あの頃中国蘭州高原大気物理研究所には、アリゾナ大学のクライダー教授のところで雷の光学観測を実施して、アメリカ地球物理学会誌に論文を発表している郭教授が戻っており、私はこの郭教授と共同研究がしたいと申請していたのであった。(この稿続く)
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2018年10月24日

トロンハイムの思い出 2

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何がきっかけで思い出したかはともかく、1983年(昭和58年)の11月28日である。
翌日には、トロンハイム空港からオーレスンド空港まで空路、一泊して翌日にはフィーヨルド伝いに車でセリエ村という漁村に行くことになると聞かされていた。
とはいえ、夜の8時過ぎなんぞに良い若い者が(ちなみに当時私は34歳)眠れるはずもなく、
「僕はもう眠るでぇ!」
というT先生を部屋に一人残して、私はトロンハイムの街に出た。
街に出ると大仰な言い様ながら、ホテルの周りを歩いてみたのである。
ただ夜の長い北の街らしく街灯は思いの外明るく、昨日も書いたようにホテルの周りは、まだまだ人が溢れていた。私自身この街に来るまでは、北欧に対し結構暗いイメージを抱いていたのだが、良い意味で外れてしまったのは、ある意味幸いだったのかもしれない。早い話し北欧に対するイメージを一新し、すっかり北欧の贔屓になるのだから、「縁は異なもの」とでもいうことになろうか。
ホテルの周辺には、いくつか商店もありウィンドウショッピングをしながら歩いた。気温は、これまた思いの外高くて、なかなかホテルの部屋に戻る気にはならなかった。街灯の下で、その前の年に流行った「北酒場」の唄を口ずさんでいたら、周りに人が集まりだし、そうなると引っ込みもつかず、大声で「北酒場」の唄を熱唱することになった。「カラオケ」のはやる随分と昔の話で、「北酒場」熱唱の北限で無かろうかと、少しだけ自慢である。
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2018年10月23日

トロンハイムの想い出

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このブログで何度か取り上げた、記憶についての話題。
「何の脈絡もなく、昔の記憶が甦る。」
事の不思議さについてである。
意識の下で何かきっかけがあるのだろうが、今日は1983年11月末のノルウェー・トロンハイムでの一泊の想い出。
生まれて初めての海外での雷観測に先立って、その観測の先方の代表であるヒュッセさんを訪れた。我が方の代表は、今や鬼籍に入られて久しいT先生でパリ、オスロを経由してトロンハイムに到着したのは11月も28日頃だったろう。トロンハイムは北極圏少し手前の街で、11月の末頃には午後二時ともなれば日没となる。トロンハイムの空港には、ヒュッセさん自ら迎えに来てくださっており、ともかくホテルにチェックイン。そして夕刻には迎えに来てくださって、ご自宅での歓迎夕食会に招待して頂いた。私は、T先生のお供であったが、ドイツ語会話の達者なT先生、英語が今一つであったのは驚きであった。夕食の最後にチーズを頂いて、
「明日は朝早くから移動を開始しますので、早めのお開き!」
と相成り、午後8時頃ホテルに戻った。
なかなか寝付けない私は、ホテルの付近を一人で歩き回ったのだが、結構人出が多かったという印象が強く残っている。いわば国内の大都市の繁華街のごとき人出であった。
そんなことをふっと思い出したのだが、はてさて何が引き掛けだったのだろう?
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2018年10月19日

ご無沙汰

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早いもんやなぁ、もう10月も三分の二過ぎる。
今更ながら、「光陰矢の如し」ちゅう言い回しを実感や。
ほんで明日は、日本にいる親友の誕生日や。
ちゅうても親友は皇后陛下ちゃうで。
たまたま親友は、10月20日生まれちゅうだけのこっちゃ。
あいつ元気にしとるかいなぁ。不義理してばっかしやもんなぁ。
ちょうど明日は土曜日やし、ご無沙汰とお詫びの電話でも入れるかなぁ。
めでたく彼も古希や、ほんで三カ月したらこの爺さんも古希や。
この爺さんが64歳8か月でシンガポールに来たときは、5年で目途つけてと思うてきたのに、結局地ならしに5年かかってしもうた。せやから今が本当のスタートみたいなもんや。
後は老化・衰えとの競争やで。
5年の苦労を無駄にせぇへんためには、この一年がほんまの勝負や。
神頼みは意味ないと分かっていても、祈らずにはおられへんなぁ。
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2018年10月02日

直感は過たない

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「直感は過たない。過つのは判断である。」
という格言、高校時代からの友人G君が良くいっていた。
G君は学生時代、そして私達の年代が学生時代に多分にそうだったように、麻雀好きであった。ただ彼は凝り性で、一度やりだすとあれこれとHow to本を紐解き、蘊蓄を垂れる癖があって、この格言は五味康佑著のHow to本からの借用であったと記憶している。
もう50年近く昔のことを突然思い出したのは、今日のちょっとした経験からである。
実は今日、Pangkal Pinangというインドネシアの地方都市に出張した。
我々日本人にはあまりなじみのない都市ながら、スマトラ島のパレンバンの沖にあるリゾート地で、飛行場もありかつては鉱山もあったという。このPangkal Pinangにはシンガポールの沖にあるバタン島から空路で移動した。バタンの空港には少し早く着き、それでもチェックインが出来たので、ボーディングパスを貰ってひたすら搭乗を待つことになった。ただそのボーディングパスを手にしたとき、名前の表記がないので
「あれ変わってるなぁ?インドネシアの国内線は名前の記載がないのかなぁ?」
とぼんやり考え、あまり深く考えなかった。
そして搭乗、ところがなかなか飛び立つ風はなく、
「機体の整備不良か?」
なんぞと考えていたら、機内放送で何やらカワサキと呼んでいるような気がした。それでも自分の事とは思わず、のほほんとしていたら地上係員が席にやってきて搭乗券を見せろという。指示に従い搭乗券を差し出せば、次はパスポートを見せろと言い、搭乗券を持ったままあたふたと駆け戻って行った。
10分ほどして戻ってきて新しい搭乗券を手渡されたのだが、それには名前がきちんと記載されていて
「何や、この遅れは正体不明の乗客がいるというのが原因だったのか。ただそれは私の責任ではなく、チェックインカウンターの責任やろう。」
と納得するとともに、
「搭乗券を手にしたとき、一言確認しておけばよかった。見たときの不思議感はまさに直感が正しかったことを意味し、そのあとやり過ごしたことが判断の誤りを意味するなぁ。」
と思案した次第なのである。
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