2024年11月05日

空電研究所 2

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私の大学院時代の研究は、理論というには恥ずかしながら、もっともらしい式をいじり結果を数値計算をするといった理論風の研究であったので、助手となった空電研究所の測定・観測を主体とする研究スタイルは、正直全く初めての経験であった。同じ階の第六部門には電気学会の電磁界理論研究会で出会ったことのある鷲見助教授がいらっしゃったけれど、それ以外には見知った教官はいなかった。まぁいずれにしても、大阪大学時代の積み重ねは、ぶっちゃけあまり役には立たず、技官の二人にあれこれ教わりながらの文部教官・助手生活のスタートであったと理解している。
助手公募の案内にあった環境電磁工学の研究は、仲井教授が自動車流(高速道路)や新幹線のパルス電磁雑音に測定を開始していらっしゃって、空電研究所(愛知県豊川市)近くの東名高速道路や東海道新幹線に電磁雑音の測定に同行するよう命ぜられた。仲井教授は雷放電起源のインパルス性電磁雑音の統計で学位をとられていたのだが、1980年台初めには、ディジタル放送の実用化が見え始めていたこともあって、人工のインパルス性電磁雑音の研究に舵を切られたというのが実際のところであったのだろう。だから野外の観測に加え、D. Middleton のIEEE EMCの論文を奨められ、仲井教授と二人で輪講した。随分と後になってあの時の仲井教授の意図するところを理解できるようになったけれど、その頃には私自身は生涯の研究を大気電気と決め始めており、後戻りすることはなかったのである。
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2024年11月04日

空電研究所

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その後の数か月を経て、詳細はさておき1979年4月に、私は名古屋大学空電研究所に文部教官助手として就職することになった。4月1日は日曜日だったので、赴任つまり初出勤は4月2日であった。あの日はまさに快晴で、
「修士二年の星野君と同室です。」
と三階の居室に案内され、部屋に入ると南の窓からは、日の光が一杯射しこんでいた。
30歳にして初めて定職を得て、ようやく社会に踏み出したのだという実感は、まだまだなかった。それでも、居室の椅子に座って灰色の事務机ながら
「これが大学人の椅子で机だ!」
と、妙な感激にしばらく浸っていたことは、記憶の片隅に今でも残っている。
研究室は研究所の第五分野で主題は環境電磁工学、教授の仲井先生(故人)、助教授の竹内先生(故人)、仲野助手に、長谷技官、中田技官の5名に、私を加えて6名という構成となった。ただ助教授と助手の二人は自然電磁雑音(大気電気学:雷放電起源 広い意味の環境電磁工学)、教授と私は人口電磁雑音という風に住み分けることとなっていた。そして二人の技官は、それぞれのグループが観測に必要とする機器・装置の製作を担当しているという事だった。改めて書くべきことではないかもしれぬが、私を助手として採用して下さったのは仲井教授で、あの頃、40年前は、
「教授の一存で助手を採用。」
という、古き良き時代であった。
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2024年11月03日

就職浪人

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私が大阪大学で工学博士の学位を取得し、一年の研究生生活という就職浪人を経験して、名古屋大学空電研究所に籍を得たのは、本当に幸運だったと思う。
博士課程に進学するにあたって、指導教授の故熊谷教授からは
「大学教官への就職の世話は、保証できないよ。」
と念を押され、それでもゲーヤンと私は進学した。そして自分達でいうのもおこがましいながら、二人とも規定の三年間で博士課程を終えることになった。二月初旬の学位公聴会が終わっても、指導教授からは当然のように就職先の話しは出なかった。当時私は大阪市内の進学予備校で数学の授業を受け持っており、その実入りが結構良かったので、一年か二年は我慢できるだろうと気楽に考えていた。いずれにしても我々二人は、一般企業に就職するつもりはさらさらなく、当然のことのように二人とも就職浪人となった。だからゲーヤンも私もその年の四月には、所属していた研究室の研究生となった。今日ならインターネットで教員公募の情報が流れるけれど、当時は大学教員公募の案内は、関連学術雑誌での広告か、指導教授を通じての斡旋ぐらいしかなかった。そして私達の属していた研究室には、二年先輩と一年先輩の二人が就職浪人を続けており、我々二人を加えると四月からは四名の研究生を抱えることとなった。
私は、毎月届く電気学会や電子情報通信学会で、大学教員公募の欄を読み漁ったものである。そしてその年1978年の九月号だったと思うのだが、名古屋大学の空電研究所が
「環境電磁工学(EMC)の研究に取り組む意思のある者」
との公募を出しているのを見つけた。ただ環境電磁工学という研究主題にはとんと疎く、電気系図書室でIEEE(米国電気電子学会)の分冊にElectro Magnetic Compatibility(EMC)というのを見つけだし
「あぁ、これだ!」
と理解した。早速指導教授に
「応募したいと思うのですが。」
と相談に行ったら、
「一年上の先輩が応募したいといっている。君が応募するのは止め立てしないが、推薦状は先輩にしか書けないよ。」
と念を押され、それでも応募しますと応えて教授室を後にした。
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2024年11月01日

卒業研究

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霜月朔日

あの頃、1970年台はじめは、学園闘争の名残がまだあちこちに残っていて、大学院生の学部学生への影響力が強かった。それに高度成長期という社会背景もあって、大学院修士課程の定員が急激に増えつつあった。例えば私が進学した年には学部の定員40名に対して修士課程の定員は16名、数年後にはほぼ倍の30名近くになっていたのではなかったろうか。ただし定員の増加は、ここでは主題ではない。
卒業論文の具体的な指導についてである。
私の場合、博士課程1年のTさんが直接の指導者であった。そしてこの関係は、私が修士課程に進学し、さらには博士課程に進学する頃まで続いた。ただTさんはあまり細かな注意や毎日の進捗を確認するようなこともなく、図書室に四年生の私を連れて行って
「新着雑誌には月に二度は必ず目を通して、関連する論文を探すように。」
と教えてくれたぐらいであった。そして
「大学院を受験するのなら、卒業研究はその後やから、それまでは受験勉強に加えて、何か適当な教科書を毎日時間を決めて読むんやな!」
と極めておおらかな、先輩であった。「おおらかな」と私が印象を持ったのは、同級生達は、ほぼ毎日のように指導を受けている教員や先輩と、膝突き合わせての議論をしていたのを見ていたからである。
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2024年10月31日

昭和47年4月通信工学科第一講座

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神無月晦日
半世紀以上も昔の、大阪大学工学部の研究室の事を思い出したついでに、あの頃のことを整理して書き綴っている。
私とゲーヤンは、オジンというあだ名のY君、東京出身のKa君、ちゃきちゃきの大阪人のKu君、富士通に就職して行ったT君、それに陸上で投擲をやっていたヨッサンの五人らと、通信工学科の第一講座への研究室配属を希望した。研究室配属の可否は、当事者としては自身の一生を左右するほどの重大事と冷や冷やもんだったが、ふたを開けてみると意外とすんなり希望通りに収まった。早い話我々の希望した第一講座は、思いのほか人気が低かったのだろう。少なくとも私は、二三年次に「電磁理論」の講義を担当して下さった故熊谷先生に憧れたのに加え、「相対論的電磁気学」という卒業研究の内容にひかれた故の研究室希望であった。ちなみに私、オジンにKa君がこの「相対論的電磁気学」を希望、ゲーヤンやKu君は当時実用化されつつあった光ファイバーの信号伝送に関わる研究、T君は静磁波、ヨッサンは電磁波解析法だったと記憶している。
我々の所属することになった第一講座には、博士課程の先輩が多く卒業研究の直接の指導はこの先輩達であったがほとんどであった。ちなみに教官が卒研性の指導を直接担当したのは、ヨッサン(M助手)とT君(T助手)の二人だけだったのではなかったろうか
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2024年10月30日

半世紀昔の紅葉狩り

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昨日半世紀も昔の、大学四年生の頃の事を思い出したのだが、あの時の紅葉狩りは今でも親交の続いている「親友のゲーヤンが加わっていないのがなんとも不思議」
と気になりだした。
一緒に行ったのは全員同じ研究室、Y君、Ka君にわいは居室が7階で、Ku君は8階であった。ゲーヤンも8階だったのだから、Ku 君が一緒ならゲーヤンも加わっている筈なのに・・・。どうでも良い事なのに、こんな些細なことでも、気にしだすとどうしようもない。とはいえ半世紀も昔の事だし、そもそも紅葉狩りにいったことすら、同行の三人は覚えていないかもしれない。
というわけで、わいの推理が始まる。
確か天気の良い日であった。
Y君が中古のブルバードを手に入れたというので、少し日は経っていたがお披露目もかねてのドライブであった。(ほとんど脅しに近い我々の要請で)
「が、なぜ京都だったのだろう。」
とここまで思案を巡らせたとき、ゲーヤンが京大の計算センターに通っていたことを思い出した。今日では信じられない話かもしれないが、当時は数値計算を研究の手段とする仲間の多くは、自分達大阪大学の計算センターでは飽き足らず、京都大学の計算センターに日参していた。そして卒業研究に「変分法」を利用していたゲーヤンは、直接指導してもらっていた先輩の故人となられた大高さんと一緒に出掛けていて(多分)、紅葉狩りには参加できなかったのじゃぁなかったっけ。
確かめようもない話題ながら、とりあえず自分を納得させた。
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2024年10月29日

落柿舎

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神無月もあと三日。2024年もいよいよ、余すところ二か月か!

日本の友人から
「ようやく秋も深まってきました。」
と、ビデオレターが送られてきた。
シンガポールに長く住んでいると、秋の深まりなんぞという風情には全く縁遠くなってしまっている。それだけに頂いたビデオレターには、あるいみ感激(?)した。だからシンガポール在住の日本人数人に、早速おすそ分けした。
この時期の思い出に、大学四年生だった時のことがある。
ひょっとしたら11月の中頃だったかもしれないが・・・。
それは同じ研究室だったY君の車で、京都・大原に紅葉狩りに出かけたことである。平日の午後だったと記憶しているが、Ka君、Ku君とわいの四人で
「大原に行けへんか?」
という事で話がまとまり、研究室を抜け出したのである。
大学四年生で研究室に配属されていたから、そんな自由も許されていた、というより時間管理は自己責任だったのであろう。
落柿舎を、Ku君は面白半分
「おちがきしゃ!」
と言って、ひとり悦に入っていたのが懐かしい。
帰路はキャンデイズの歌を聞きながら、吹田キャンパスに急いだ。
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2024年10月21日

コタツ出したんやて

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親友のゲェーヤンから、ついさっきLINEメッセージが入った。
「ついこの間まで暑かったのに、急に北風が吹いたりして、昨日コタツ出しました。」
確か二三日前、
「気象庁が記録を取り出してから、一番遅い真夏日。」
なんぞというニュースがあって、地球温暖化の影響かと報じていた筈やで。
それにしてもコタツとは、えらい気の早いちゅうか、それともゲェーヤンそんなに寒がりやったかな。何年か前に大病しやったと聞いとるけどその影響かも知れへんな。わてより七カ月遅う生まれてはるよって、ともかくわてとおんなじ75歳の後期高齢者やもんな。これもLINE で二週間程前にもろうたメッセージやと、ゲェーヤンの年内のテニスもあと数回らしい。冬場にはお休みなんやろな。
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2024年10月20日

おばぁさんへ

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ゆうさんの誕生日、上皇后様の誕生日
わいには「おばぁちゃん」「おばぁさん」がいた。
「おばぁちゃん」は、正真正銘の祖母で、わいをめちゃめちゃ甘やかして育てやった。昭和7年12月、30歳代後半で未亡人となり、その時一男二女があってほんまに苦労して育てたのに、その長男が徴兵に取られてビルマのシッタン川河畔で戦死、跡取りなくしただけに、わいの誕生がうれしかったんやろ。自分でいうのもなんやけど、眼に入れても痛ないちゅうように可愛がりやった。
ほんで「おばぁさん」は祖母の妹で、祖母がわいの小学校4年の12月に他界して後、わいを10歳から20歳過ぎまで世話し育ててくれたんがこの人や。
「おばぁちゃん」が元気やった時からでも、「おばぁさん」
「姉ちゃんは、善一郎を甘やかしすぎる!」
と厳しかったし、そんな苦言はわいの耳にも入るほどやった。「おばぁちゃん」が亡くなってからは、とりわけ厳しうなったのを、わいは実感したもんや。
その「おばぁさん」が亡くなって、今年で確か35年や。ほんまにはやいもんやなぁ。わいが名古屋大学に30歳で就職したんがその十年前、愛知県に出発するわいが
「行ってきます!」
ちゅうて挨拶に「おばぁさん」を訪ねて
「ほないっちょいで。」
ちゅうて、近くにお使いに行かすよな口調で、上機嫌で見送ってくれた。あれから少しずつ弱って、今でいう認知症が少しずつ進んだって聞いてるけど、10年経ってわいが阪大に移動になって戻った頃には、すっかり元気なくしてはったなぁ。
お涙頂戴やないけど、わいが大阪に戻ってからほんまに一年ほどで、わいの帰阪を待ってたみたいに亡くなりはったんや。
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2024年10月18日

ひろっちゃんへ 3

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今宵は今年のスーパームーン、視直径が一番大きい満月だそうな
そんな日に、俳優西田敏行さんの訃報が流れた。個人的には好きな俳優さんの一人だったし、年齢も近いだけに何やら他人事とも思えない。ともかくご冥福を祈って、合掌


ひろっちゃんの事で、書き忘れてたことがある。
それは1969年夏の事や。
わてが大学に入学した年のお盆の頃のや。
わいの生まれ育った泉州地域は盆踊りが盛んで、この時だけは子供の家に帰るんが少々遅うても親はあんまし文句言わへん。お酒も覚えるんがこの盆と、それから秋の地車祭りの時で、ついつい無礼講になる。そんなやから隣村の連中なんかとちょっとしたいざこざが起こったりするんや。そのいざこざに巻き込まれて、ひろっちゃんは大けがした。千枚通しで胸刺されてしもうたんや。せやから救急車で運ばれやって、緊急手術受けやった。お酒飲んでたから麻酔が効かへんちゅうんで、わいはその手術にたちおうた。重症には違いなかったけど、肺の空気さえ抜いたら、傷そのものはおおきなかった。それでも一か月後の関西の大学の空手選手権に出るちゅうんで、わいは今は鬼籍に入ってしもう打てる同級生のりょういちちゃんと、応援に神戸の体育館まで出かけて行った。ほんでひろっちゃんはその大会で準優勝しやったんや。ほんの一月前には、ちょっと千枚通しがずれて心臓突き刺してたらちゅうような怪我しやったのに、西日本で二番目の成績やなんて、いやもうスーパーマンやで。
そんなひろっちゃんやから、今も元気にしぶとう頑張ってはると信じてるで、わいは。
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