2020年06月24日

思い出話 88

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
三日前の夏至の日、日本では日食があったそうだ。
日食といえば、1958年4月19日小学校の校庭で、日食の観測をしたっけ。
当時私は、小学四年生だった。私の記憶に残る最初の日食である。


卒業研究が本格化して、研究室にいる時間がさらに長くなった。
ただGM 君は、大学院入学試験が終わると
「善さん、僕10月からは泉佐野から通うんで、下宿引き払うわ。」
と、あっさり下宿生活を止めしまい、私達は午後9時頃に研究室を後にすることが多くなった。
泉佐野まで帰るには、それより遅く研究室を出ると、南海電車の最終の急行に間に合わなくなるからである。そして私は彼と別れて、下宿の部屋に戻るのであった。
余談ながら一二か月前に紹介した、二年前に北陸旅行で知り合った関東の女の子が、大阪を訪ねてきたのがこの頃だった。
私は、その人からの葉書を気にしながらも、さらに一か月以上が過ぎた。
11月の声を聞く頃には、GM君は大型計算センターに入りびたりとなった。GM君を直接指導していた博士課程学生の、今は鬼籍に入られてしまったOMさんが、変分法という数値計算で、光ファイバーの伝送特性を解析するという研究をしており、GM君は数値計算の実施を指示されていたのである。あの頃は大型計算機万能の時代で、同じ研究室に属する4年生8名の内、6名が大型計算機センター通いをしていたと記憶している。
私はといえば、午前中には電磁理論の英語の教科書を読み、午後は指示された計算式の理解に七転八倒していた。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 12:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年06月23日

思い出話 87

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
北海道から届いたその人からの葉書は、長い間下宿の机の上に置かれていた。
私達の学年は、4年生だというのに、ほとんど全員3年後期の定期試験を受けていなかったので、9月になって前期試験が始まると真剣にならざるを得なかったのですある。翌年の3月までに、卒業に必要な単位をそろえないと、大学院への進学も夢と消えてしまうことが、みんなが理解していたというのが、本当のところだったのだろう。3年生学年末の学生ストライキの代償は、やはり大きかったのかもしれない。
10月に入ると、博士課程のTKさんが
「河崎君、ぼちぼち卒業研究始めよう!」
と私に声をかけ、
「電気系図書室で、紹介しとかなあかん雑誌教えるから。」
と、私を図書室に連れて行った。そして何冊かの学術雑誌を指定して
「一か月に、最低二度はここにきて論文探すんやで!」
と指示をしてくれた。
「以前、自分のやってる研究とほとんど同じで、内容がさらに進んでる論文見つけたことがあるんや。論文は新規性が勝負やから、そうなると半年、一年の苦労が水の泡なんやで。」
と教えてくれた。
今日なら、ネット検索で十分できることながら、あの頃はそんな風にして世界中の競争相手に、注意をしておかねばならない時代だったのである。
ちなみに私は、自分の後輩たちに、久しく同じように教え続けたものである。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 00:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年06月22日

思い出話 86

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
すっかり忘れていたが、昨日は夏至だったんだ!
まぁそんな経緯もあって、私は大学院に入学することになった。
少なくともあと二年は、修士課程に通うのである。
その週末、おおよそ一月ぶりで貝塚に戻り、母の叔父、母の叔母、それに母の姉(私にとっては伯母)に、大学院に進学することを報告した。
私がおじいさんと呼んでいた母の叔父は、それこそ手放しで喜んだ。
私がおばあさんと呼んでいた母の叔母は、何も言わず黙って聞いていた。
私の伯母は、
「善一郎、大学卒業するまではお母さんの残したお金に、私があれこれやりくりして援助できたけど、来年4月からは自分で何とかせなあかんで。大学院で勉強するなんちゅうなことは、この村には例のないこっちゃからなぁ!」
と、言ってから
「それでも嬉しいこっちゃ。壽和子もきっとよろこんでるで。」
と、10年前に他界した母の名前まで出して、涙ぐんでいた。
いろいろな節目節目には、親類縁者の集まっての話し合いがありこの時も同じであった。私にしてみれば、一年半前に下宿を決めた折、私なりの旅立ちを覚悟していたので、ある意味すでに納得してことであった。ただおばあさんは
「大学の卒業までは、毎週末貝塚に戻りや!」
とだけ言って、家族会議は終わった。
よく月曜日私は、下宿に戻って行った。
「この下宿もあと半年か?この後どこで済むんかなぁ?」
と考えていたら、北海道にと言っていたその人からの葉書が届いていた。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 11:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年06月21日

思い出話 85

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
次の週の入学試験は、散々であった。
筆記試験に引き続く面接の際には、指導教授から
「河崎君、首を洗って待っておくように!」
とまで、釘を刺された。
だから、十中八九は不合格だろうと、観念していた。
不合格なら、就職以外には道はあるまいと考えたものの、九月の声を聞くようになっての就職先に、果たしてどんな可能性があるのだろうと、否定的な思案が巡るばかりであった。
落ち込んでいる私に、同じ研究室のM助教授が
「首を洗って待てという先生の言葉は、深い意味を持っているんじゃないかなぁ!」
と、暗に合格していることをほのめかすような助言をくれた。
私にしてみれば半信半疑ながら、かすかな希望に夢を託して合否発表までは、就職のことは棚上げにしておこうと、自分に言い聞かせた。
それから二日後の合否発表の日、私は教授室に呼ばれた。指導教授は
「M助教授がほのめかせたと思うが、君は合格だ。それも最下位での合格だが、順位は気にしなくて良い。だから今後良い研究をして成果を出すように。」
と、訓示された。
その後管理棟まで、合否発表の掲示を見に行くと、私の受験番号は確かにあったのである。
そして私の所属している研究室の受験生4名は、全員合格していた。隣の研究室のKS君、彼とは何故か馬が合って仲良しだったのだが、残念ながら不合格だった。それも次点だったということで、以来すっかり疎遠になってしまった。彼にしてみれば、
「なんで、河崎まで?」
といった、逆恨みに近い気持ちが宿ったのかもしれない。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 11:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年06月20日

思い出話 84

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
「昔の恋人なんて・・・。」
と口ごもる私に、
「善一郎君の気持ちはともかく、私は純粋に好意を持っていたのよ。」
と言ってから、
「でももう終わっちゃったの。昔の思い出、昔の恋人なのよ。」
と、言いながら私の目を見つめた。
「で来週には、善一郎君は大学院の入学試験ね、私は北海道への引っ越し!ともかく今度は浪人しないでね。合格通知札幌で待ってるから。」
と言って、立ち上がった。
そして信一郎君を立たせて
「おじさん、いやお兄さんかな、にさようならを言って!」
と言い聞かせながら、私には
「ついて来ちゃだめよ。」
と、ぴしゃりと告げた。
私達は喫茶店の入り口で別れ、茫然と見送る私をその人は、振り返ることもなく去って行った。
時計を見るとまだ11時で、私は大学の研究室に向かった。
いつの間にかカンカン照りとなっていて、キャンパスに着く頃には汗びっしょりだった。
研究室には、助手のMNさんだけが居られて
「河崎君、今日は遅かったねぇ。」
と、朝の挨拶をする私に顔もあげずに答えた。
「あれお盆明けの今日あたりから、ぼちぼちYK君が来るんちゃうんですか?」
と、私が尋ねるのに対して、ようやく顔を上げ
「お盆前から、全然連絡がないんだよ。」
と、不満そうに独り言ちた。
「GM君に電話しますので。」
とことわってから、受話器を取り上げ、研究室にきているので、昼ご飯は誘って欲しいと告げた。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 16:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年06月18日

思い出話 82

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
よりにもよって、大学院入学試験前のある意味重要な時に、その人からの手紙があり、出会いの約束までしてしまうなんぞというのは、
「なんというめぐりあわせ。」
と、悔やんでみたところで致し方なく、かなり非効率的な3週間を過ごして、8月17日を迎えた。
GM君の研究室に行こうという誘いを
「午前中野暮用ができたんや。昼過ぎに研究室に行くわ!」
と、やり過ごし私は9時半ころまで下宿のベッドで、横になっていた。それにしてもあの日の一時間半は、時計の進みがとてつもなく遅く感じられた。それでも私は、約束の場所には5分前に到着して、その人が現れるのを待った。ほどなくして背後から
「待たせなかったよねぇ!」
と、声をかけられた。てっきり古江台の方から歩いてくると、その方向を見ていたので
意表を突かれる形となった。慌てて振り返ると、懐かしいその人が二三歳の子供の手を引いて立っていた。
「暑いし、子供連れだから近くだけど、バスに乗ったの。」
と、言ってから
「信一郎挨拶しなさい。ママの古いお友達。大阪大学に行ってる秀才さん。」
と続けた。そして
「秀才で無かったわ、天才だったっけ善一郎君は。」
と、私がかつてその人に言った言葉を思い出すように訂正した。
「立ち話もなんだから、お茶でも飲もうよ。御馳走するから・・。」
と、時計台の下の喫茶店にさっさと入っていたので、私は従うしかなかった。その間私は一言も話すことはなかった。
朝の10時過ぎだけに、店にはあまり客もいなっかったので、私はほっとしていた。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 11:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年06月17日

思い出話 81

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
それでも私は次の朝、いつも通りに研究室に出かけた。
午前8時過ぎの研究室には、いつものようにまだ誰も来ていなかった。
通信方式の教科書を開けてはみたが、まったく手には付かなかった。あれこれ考えてもどうしてよいのかの結論は浮かばず、9時過ぎになったので思い切って電話をかけてみた。あの当時は携帯電話の無い時代で、研究室に黒電話があり、大阪市内の06地域には、自由にかけてよい不文律があったのである。
三度か四度呼び出し音があり
「はい、MKです。」
という懐かしい声が」耳に飛び込んできた。おおよそ四年半ぶりに聞く声だったが、歳月の経たことを感じさせない響きがあった。一瞬返事に詰まっていたら、
「もしもし、こちらはMKですが、どちら様ですか!」
と、ややきつい口調に代わった。
私は覚悟を決めて
「ご無沙汰してます。河崎の善一郎です。」
と返したら、
「あら、手紙届いたのね。それにしても懐かしいわねぇ。あれから元気だった?」
と、屈託のない応答である。
「今いいんですか?ご主人はいらっしゃらない?」
という私に、
「人妻に電話をかけてくるんだから、善一郎君も随分成長したのねぇ。」
と言ってから、
「もう出かけてるから・・。子供は幼稚園だし、私独りだから。それにしてもお互いにえらく近くに住んでいたのぇね。」
という。そして
「手紙にも書いたけど、お盆明けの8月20日の日曜日に北海道に引っ越すの。」
と続けてから、
「しばらく会う機会もないだろうから引っ越し前に、一度会っておきたいと思って、手紙書いたの・・。」
と、私を驚かせた。
そして返事に困って黙っている私に
「昼間に堂々と会うんだから、人の目なんか気にしなくてもいいのよ。」
とえらく強気な態度である。さらには
「17日か18日の午前中、北千里の時計台で会おうよ」
と、一人で話を進めだした。
結局私達は、17日の午前10時の再開を約束して、私は受話器を置いた。

lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 15:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年06月16日

思い出話 80

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
以前にも書いたように、私は大阪大学工学部のキャンパスまで、歩いて15分程度という下宿に住んでいた。友人のGM君も同じ下宿で、研究室に向かうのも、研究室から下宿に戻るのも一緒ということが多かった。
あの頃の工学部電気棟は、集中冷暖房で夏期の場合、夕方は5時になると冷房は停止した。5月中は冷房がなくても取り立てて困るということはなかったけれど、梅雨末期の7月ともなると、冷房の停まってしまった夕方の研究室は、受験勉強には不向きであった。といっても下宿の部屋はさらに暑く、暑さと闘いながらの大学院入試勉強であった。
下宿は朝晩のまかない付きで、夕飯を終えて大浴場で一風呂浴びて後、夜の9時頃に研究室に向かうこともあった。研究室は7階8階という比較的高い階にあったので、その時刻ともなると窓からの風はそれなりに涼しくなっている日もあったからである。
そんな受験勉強に明け暮れていた、7月の末であったろうか、下宿の部屋に戻ると一通の手紙が届いていたのだが、差出人には見覚えがなかった。だから中を確かめることもなく、その日は午後9時頃研究室に行って、日が変わる頃に下宿の部屋に戻った。そして横になったら、枕の上に置き去りにしておいた手紙が、頭の下敷きになった。止むを得ず寝ころんだまま封を切って、手紙を読みだしたら愕然となった。4年前に私の前から消えてしまった、その人からの手紙であった。
「北千里駅近くの古江台に住んでいること。何度か北千里の駅で私を見かけたこと。御主人の転勤でお盆が明けたら北海道に引っ越すこと。」
といった内容で、電話番号も書き添えられていた。その晩私はなかなか寝付けなかった。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 10:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年06月15日

思い出話 79

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
卒業研究の実質的開始は、9月初旬の大学院入学試験が終わってからというのは、入学試験の倍率がおおよそ二倍弱といった具合で、団塊の世代末期の我々にとっては、いつまでたってもこの種の競争がついて回っていたからである。
それはさておき、週に一回だけ「輪講」と呼ばれる、英文の教科書を読む集まりがあった。博士課程の先輩は時折顔を出す程度で、修士一年、二年生が、その輪講を取り仕切っていた。私の所属した研究室は、7階と8階にあり8階には光ファイバーの研究グループが、7階には電磁界理論と静磁波のグループが居室としており、都合三グループがいたことになろうか。ただいずれのグループにとっても基礎となるのが、電磁界理論や電磁波で、それまで日本語の教科書で勉強していた内容を、英語の教科書でさらに詳しく理解しようというのが、輪講の目的であった。
輪講以外には取り立てて「義務」はなかったけれど、私達はほぼ毎日研究室に出向いた。今にしてみれば馬鹿みたいだけれど、大学院入学試験の受験勉強が、主たる日課となっていた。隣の講座では、先輩たちが大学院入試の模擬試験を実施していた。
以前にも話したことがある話題ながら、私達の学年は大阪大学での最後のストライキを完全実施した学年で、四年生になっても未修得の単位が多かった。だから入試勉強が、即ち定期試験の準備にもなっていたのである。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 10:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年06月14日

思い出話 78

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
講座配属は4月中頃であった。
指導してくれる教員や大学院生との顔合わせが有って、
「修士コースを受験したい!」
という学生には、先輩達は
「まぁ卒業研究の実質的開始は、大学院入試が終わってからやなぁ。」
と異口同音であった。8人の講座配属の内進学を希望したのは4名で、比較的優秀と同級生から評判の高かった、KT君とYK君の両名が
「大学院には進学はしないで、電電公社に就職する。」
と言い出したのには、大いに驚いた。確かKT君は、前年の工場実習と呼ばれていた、今日でいうインターンシップで電電公社の通信研究所で一月を過ごし、それがきっかけで就職希望としたようだった。そして実際この二人は成績が良かっただけに、すんなりと電電公社への就職内定を取り付けていた。私達の所属していた通信工学科は、その名の通り通信技術に特化した学科で、国内的にも珍しく、電電公社に就職していく卒業生が多かった。さらに修士課程や博士課程を修了したのち、電電公社に就職していく者も多かった。
「博士号をとるのは良いが、つぶしがきかないので就職先に困る。」
という、今日の風潮から見れば、信じれないぐらい簡単に電電公社の研究所に採用されていた。高度成長期の真っただ中だったとはいえ、一般には博士修了の就職はあまり容易ではなかったのは事実である。必ずしも皆が皆、今日のモバイル時代を予想していたのではなかろうが・・・。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 11:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白