2018年11月01日

30年前の熱気

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霜月朔日 2018年もあと二ヶ月を残すのみ

北京・蘭州の長距離汽車旅行は、4人部屋の寝台車で(たぶん特等だったのだろう)、早い話しコンパートメント仕様、昼は椅子、夜は二段ベッドであった。
30年前の記憶を手繰り寄せると、大同、呼和浩、包頭、銀川を経由して汽車は進んでいった筈である。そして内モンゴルを走る汽車は、夜ともなると結構冷えたので、夏服しか持っていない私は寒い思いをした。やがてようやく蘭州と聞かされ、それでも汽車がしばらく止まってしまったのをうっすらと覚えている。
汽車が鉄橋を渡るときWさんから
「この川は黄河です!」
と聞かされ、豊富な水量に驚くとともにその水が黄色く濁っているのを見て、
「なるほど黄河。」
と納得したのもかすかな記憶に残っている。
その蘭州には二三週間は居たろうか?
滞在は蘭州の街の中ほどに位置するホテルで、高原大気物理研究所にも歩いて行ける距離であった。その研究所には原則朝から夕方まで滞在したのだが、蘭州の朝の明けるのが遅いのにはいささか閉口した。何せ中国は全土時差がなく、北京に比べると少なくとも一時間は遅かったのである。
四人の若者達とは四六時中一緒に行動した。一番印象に残っているのは
「English corner がありますから。」
と言って連れて行ってもらったのはあの夕暮れの若者たちの群れ。公園の一角に集まって、ともかく英語会話力をものにしようという、あの熱気であった。
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2018年10月31日

北京から蘭州へ

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北京郊外での実験は、20日間程度であったろうか。
蘭州高原大気物理研究所の教員や学生のやる気とは裏腹に、明らかに準備不足、機材不足は否めず、昨日も書いたように共同研究としての成果は皆無であった。ただこれも昨日書いたように、若い研究者たちとの繋がりができた。北京郊外での期間が終わって、Sさんが帰国したのち、私は彼らの本拠である蘭州を訪問した。訪問したというよりは、Wさんに連れられ正味二日間の汽車旅行を楽しんで(??)蘭州まで移動したのである。汽車旅行となったのは私の希望で、郭教授から
「この共同研究は、中国科学院と日本学術振興会の研究・教育共同のプログラムです。だから観測のあとは蘭州に行ってもらって、あれこれ学生たちに講義をして欲しい!」
の申し出があり、
「それなら汽車で行きたいなぁ。日本では汽車に乗ることはまずないから。」
とお願いした。これに対し
「経路は、西安等を経由しての南回りと、内モンゴルを経由しての北回りがある。どちらも48時間程度。ただし大変疲れますよ。」
のことであったが、例のWさんと相談して、北回りを選んだのであった。
汽車は四人部屋の寝台車、今となっては随行してくださった研究所の職員の方の名前すら覚えていないけれど、Wさんと私に加えもう二人がいた筈である。
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2018年10月30日

日中国交回復40年 2

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中国科学院高原大気物理研究所との、共同野外実験・観測の話題を続ける。
郭教授のグループが、北京郊外でロケット誘雷実験をやるという事で、
「その誘雷実験を日本の誘雷実験グループが指導する!」
との意味もあり、中部大学Sさんと二人しての訪中であった。
私自身ロケット誘雷グループには全くの新参ものであったが、雷放電の光学観測という意味ではそれなりに経験も積んでいて、勇躍しての訪中であったということになろうか。それにそれまで若手向けの小さな科学研究費を獲得したことはあったものの、ああいった規模の申請、それも自身が代表者となっての研究費獲得は、初めての経験だったのである。とはいえ当時はまだ中国は経済開放前であったのだが、今にして思えば、よくぞ出かけて行ったとの印象が強い。なんといっても40歳前の事だから、まだまだ若かったという事になるのだろう。
実はこの訪中で、私は4名の若者と出会った。若者は、郭教授、劉教授のお弟子さん達で、日本の大学院制度でいうなら修士課程の学生という事になる。後日談になるけれど、皆々今日ではひとかど以上の研究者、指導者になっているから、立派なものである。この年の誘雷実験はことごとく失敗したので、この年の研究成果はゼロながら、この4名とは大なり小なり未だに連絡を取りあっており生涯を通じての財産となっている。とりわけ、通訳としてほとんど四六時中付き合ってくれたWさんは、私の最初の博士学生で「出藍の誉れ」高い研究者として育っている。(この稿まだ続く)
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2018年10月29日

日中国交回復40年

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昨日の朝日新聞・天声人語氏は、日中国交回復40年を取り上げて、あれこれ論じていた。あの頃の中国は、文化革命の影響もあって経済的には疲弊、色々な意味で開発途上国の一つだった筈。ただ松下幸之助さんの言葉がええなぁ。
「皆さんは必ず日本い追いつき、また日本にない技術を開発するでしょう。最初に松下にその技術を売りに来てください。」
中国に対してはあれこれ批判があるにせよ、今日の中国は押しも押されもせぬ、経済大国、世界第二位である。
さて私は、その10年ほど後、解放前の中国で二か月半を過ごした。
もちろん物見遊山などではなく、日本学術振興会に応募しての共同研究であった。
あの頃の職場空電研究所は、設立40年を控え「組織改革」を余儀なくされていた。例によって文部省のお役人様の指導で、今なら
「何言うてんね!」
と居直って議論するところであろうが、当時は
「雷の研究は古い!この部門が研究所の足を引っ張っている。」
と名指しで言われれば、
「そうかいなぁ!」
と悩んでしまう、ある意味純情な研究者だったのである。
実際研究室の大将も、研究予算獲得という観点からみれば、大いに影が薄く、私自身の生き残りのために研究予算を獲得せねばと、学術振興会に応募したのであった。
あの頃中国蘭州高原大気物理研究所には、アリゾナ大学のクライダー教授のところで雷の光学観測を実施して、アメリカ地球物理学会誌に論文を発表している郭教授が戻っており、私はこの郭教授と共同研究がしたいと申請していたのであった。(この稿続く)
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2018年10月24日

トロンハイムの思い出 2

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何がきっかけで思い出したかはともかく、1983年(昭和58年)の11月28日である。
翌日には、トロンハイム空港からオーレスンド空港まで空路、一泊して翌日にはフィーヨルド伝いに車でセリエ村という漁村に行くことになると聞かされていた。
とはいえ、夜の8時過ぎなんぞに良い若い者が(ちなみに当時私は34歳)眠れるはずもなく、
「僕はもう眠るでぇ!」
というT先生を部屋に一人残して、私はトロンハイムの街に出た。
街に出ると大仰な言い様ながら、ホテルの周りを歩いてみたのである。
ただ夜の長い北の街らしく街灯は思いの外明るく、昨日も書いたようにホテルの周りは、まだまだ人が溢れていた。私自身この街に来るまでは、北欧に対し結構暗いイメージを抱いていたのだが、良い意味で外れてしまったのは、ある意味幸いだったのかもしれない。早い話し北欧に対するイメージを一新し、すっかり北欧の贔屓になるのだから、「縁は異なもの」とでもいうことになろうか。
ホテルの周辺には、いくつか商店もありウィンドウショッピングをしながら歩いた。気温は、これまた思いの外高くて、なかなかホテルの部屋に戻る気にはならなかった。街灯の下で、その前の年に流行った「北酒場」の唄を口ずさんでいたら、周りに人が集まりだし、そうなると引っ込みもつかず、大声で「北酒場」の唄を熱唱することになった。「カラオケ」のはやる随分と昔の話で、「北酒場」熱唱の北限で無かろうかと、少しだけ自慢である。
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2018年10月23日

トロンハイムの想い出

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このブログで何度か取り上げた、記憶についての話題。
「何の脈絡もなく、昔の記憶が甦る。」
事の不思議さについてである。
意識の下で何かきっかけがあるのだろうが、今日は1983年11月末のノルウェー・トロンハイムでの一泊の想い出。
生まれて初めての海外での雷観測に先立って、その観測の先方の代表であるヒュッセさんを訪れた。我が方の代表は、今や鬼籍に入られて久しいT先生でパリ、オスロを経由してトロンハイムに到着したのは11月も28日頃だったろう。トロンハイムは北極圏少し手前の街で、11月の末頃には午後二時ともなれば日没となる。トロンハイムの空港には、ヒュッセさん自ら迎えに来てくださっており、ともかくホテルにチェックイン。そして夕刻には迎えに来てくださって、ご自宅での歓迎夕食会に招待して頂いた。私は、T先生のお供であったが、ドイツ語会話の達者なT先生、英語が今一つであったのは驚きであった。夕食の最後にチーズを頂いて、
「明日は朝早くから移動を開始しますので、早めのお開き!」
と相成り、午後8時頃ホテルに戻った。
なかなか寝付けない私は、ホテルの付近を一人で歩き回ったのだが、結構人出が多かったという印象が強く残っている。いわば国内の大都市の繁華街のごとき人出であった。
そんなことをふっと思い出したのだが、はてさて何が引き掛けだったのだろう?
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2018年10月19日

ご無沙汰

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早いもんやなぁ、もう10月も三分の二過ぎる。
今更ながら、「光陰矢の如し」ちゅう言い回しを実感や。
ほんで明日は、日本にいる親友の誕生日や。
ちゅうても親友は皇后陛下ちゃうで。
たまたま親友は、10月20日生まれちゅうだけのこっちゃ。
あいつ元気にしとるかいなぁ。不義理してばっかしやもんなぁ。
ちょうど明日は土曜日やし、ご無沙汰とお詫びの電話でも入れるかなぁ。
めでたく彼も古希や、ほんで三カ月したらこの爺さんも古希や。
この爺さんが64歳8か月でシンガポールに来たときは、5年で目途つけてと思うてきたのに、結局地ならしに5年かかってしもうた。せやから今が本当のスタートみたいなもんや。
後は老化・衰えとの競争やで。
5年の苦労を無駄にせぇへんためには、この一年がほんまの勝負や。
神頼みは意味ないと分かっていても、祈らずにはおられへんなぁ。
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2018年10月02日

直感は過たない

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「直感は過たない。過つのは判断である。」
という格言、高校時代からの友人G君が良くいっていた。
G君は学生時代、そして私達の年代が学生時代に多分にそうだったように、麻雀好きであった。ただ彼は凝り性で、一度やりだすとあれこれとHow to本を紐解き、蘊蓄を垂れる癖があって、この格言は五味康佑著のHow to本からの借用であったと記憶している。
もう50年近く昔のことを突然思い出したのは、今日のちょっとした経験からである。
実は今日、Pangkal Pinangというインドネシアの地方都市に出張した。
我々日本人にはあまりなじみのない都市ながら、スマトラ島のパレンバンの沖にあるリゾート地で、飛行場もありかつては鉱山もあったという。このPangkal Pinangにはシンガポールの沖にあるバタン島から空路で移動した。バタンの空港には少し早く着き、それでもチェックインが出来たので、ボーディングパスを貰ってひたすら搭乗を待つことになった。ただそのボーディングパスを手にしたとき、名前の表記がないので
「あれ変わってるなぁ?インドネシアの国内線は名前の記載がないのかなぁ?」
とぼんやり考え、あまり深く考えなかった。
そして搭乗、ところがなかなか飛び立つ風はなく、
「機体の整備不良か?」
なんぞと考えていたら、機内放送で何やらカワサキと呼んでいるような気がした。それでも自分の事とは思わず、のほほんとしていたら地上係員が席にやってきて搭乗券を見せろという。指示に従い搭乗券を差し出せば、次はパスポートを見せろと言い、搭乗券を持ったままあたふたと駆け戻って行った。
10分ほどして戻ってきて新しい搭乗券を手渡されたのだが、それには名前がきちんと記載されていて
「何や、この遅れは正体不明の乗客がいるというのが原因だったのか。ただそれは私の責任ではなく、チェックインカウンターの責任やろう。」
と納得するとともに、
「搭乗券を手にしたとき、一言確認しておけばよかった。見たときの不思議感はまさに直感が正しかったことを意味し、そのあとやり過ごしたことが判断の誤りを意味するなぁ。」
と思案した次第なのである。
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2018年10月01日

故郷は捨てられぬ

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神無月朔日
ブラジルに行った際に、経験した内容、15年も昔の事である。
ブラジルの南部にバルーという田舎町がある。多分地図で見つけるのもそう簡単ではない。そんな田舎町で雷観測を実施した。その際、日本からサンパウロまでは空路、サンパウロから最終目的地までは、陸路で移動した。ブラジルの共同研究者が、空港まで迎えに来てくれていて、500q程の道のりだったろうかドライブしたのである。あの観測は結構無理をしての観測だった筈で、年末まではオーストラリア・ダーウィンでの観測、そして年が明けて確か一月末か二月初めからブラジルでの観測であった。余談ながらこの観測は確か一年限りの観測で、今となっては大いに惜しい気がしている。ただ今日の主題はその観測の事ではない。
サンパウロには、日本からの移民が多いことは、ものの本を通じて知っていた。ただ車がサンパウロの都市部を通り過ぎ、郊外を走りだした頃、
「この辺りには、日本からの移民の集落が多いのだ!」
と聞かされた時の事。車の窓を流れてゆく山並みが、何となく日本の地方を走っているような錯覚を起こさせるようであった。そしてその時考えたのは、
「国を離れてきたとはいえ、結局その故郷を彷彿とさせる地形や雰囲気に惹かれるものなのか?」
という事であった。そしてそれは、千数百年の時を越えても、共通するものだわいなぁというのが、偽らざる印象であったのである。
言い換えれば、故郷を捨てたとしても、落ち着き先は故郷に似た雰囲気の街となるらしく、それは1000年以上も昔からの我々の心情なのらしいのである。
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2018年09月30日

故郷を捨てる

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長月晦日
生まれ故郷を遥か離れて暮らすことについて考えている。
以前にも似たようなことを考えた。
それは韓国で、かつての百済にある小都市・熊津を訪ねたときの事である。
20年ほど昔、韓国気象庁に招かれて講演をした。その際お礼代わりに
「どこか行きたいところはないか?」
と一泊旅行を提案してもらった。それで
「かつての百済の地に行きたい。昔日本が王族の墳墓の習慣を学んだ古墳群があると聞いている。」
 とお願いして、連れて行ってもらったのが熊津である。
そこでは高野槙で作られたというかつての王様の棺桶があり、
「最近のDNA鑑定で高野槙と判明した。この高野槙は日本固有のものだから5世紀頃には、百済・大和の交流があったという事が判る。」
と,解説された。ただ私はこの件に関しては、大した感慨もなくフーンという感じだったけれど、熊津の雰囲気、いわば山並みというべきだろうか、が奈良県明日香に似ているとの印象を強く持ち、
「半島人達は、日本に来て故郷の雰囲気似ている明日かに住み着いたのだろう。」
と、ひとり思案を巡らせたものである。
実はこの印象、その前後にブラジルを訪れた折にも経験しており、それはまた明日にでも。
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