2020年01月28日

思い出話 13

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二度目の高校三年生の同級生達が、一週間の修学旅行から帰ってきて、毎日が日常に戻った。その日常が突然非日常に戻ったのは、ゴールデンウィーク直前の私鉄のストライキであった。なんとも不思議なことに、日本一運賃の高いといわれていた水間鉄道が長期のストライキに入ったのである。終点の水間駅から南海電車の貝塚駅までの交通手段がなくなり、まだまだ自家用車何ぞ少ない時代で、私達は通学できなくなる筈であった。
ところがストライキの長期化することが分かっていたのか、貝塚市がバス輸送を手配した。その臨時バスで、私は一人の女性と知り合うことになった。遅れそうになって駆け込んだバスで、空いていた席に座ったらいきなり声をかけられたのである。
「河崎先生の坊ちゃんよねぇ。サングラスなんかかけて、高校生のくせに、生意気やなぁ!」
不意を突かれ、私は一瞬たじろいだけれど
「去年網膜剥離ちゅう目ぇの病気で、手術したんです。お医者さんからは、日頃はサングラス駆けるように言われてるもんで。」
と、ともかくも返した。
「あら、そうなの。そんなこと知らなかったもので、失礼したわねぇ。」
というその女性は、私の知らない女性だった。
きょとんとしている私に、
「小学生の時、河崎先生に担任してもらったの。あの大きな家にも何度か遊びに行ったことあるわよ。あなたはまだ幼稚園だったかなぁ?確か善一郎君だったよねぇ。」
と、話し続けた。さらに彼女は
「河崎先生亡くなって何年になるのかなぁ?こんなこときいていいかな?」
と尋ね、私は
「僕が中学一年生の時だから、六年になります。」
と答えた。そうこうするうちにバスは貝塚駅前に到着、私達は駅に急いだ。
その女性は急行に乗り込み、私は次の各停を待った。各停を待つ間、私は何やらうれしかった。
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2020年01月27日

思い出話 12

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高校三年生の秋から、春にかけては駆け足で過ぎた。高校から帰っての夕方は、プロパンガス販売いに精を出していたから、余計に短かったのかもしれない。
もはやY君やR君と会う機会が、めっきり減っていたことは言うまでもない。
ただ残念なことに、Y君もR君も大学受験はうまくいかなかった。
そしてY君は、大学への進学を断念し就職すると言い出したのには、いささか驚いた。家庭環境の影響していることは想像できたけれど、その潔さには敬服した。R君は
「善さん、僕浪人すらぁ。善さんとまた一緒に受験や!」
とあっけらかんとしていた。
4月に入って、Ý君は知り合いの金属会社に就職、大阪市内まで通勤するようになった。就職話は、受験直後から進んでいたようで、Y君はすんなりと社会人になった。ところがこの後とんでもない事件が起こるのだが、この時点では我々はそれを知る由もない。
R君は、これまた大阪市内の予備校に通い始めた。時には二人と水間電車で出会うこともあったけれど、三人はそれぞれ三人の毎日を過ごしていた。
私は岸高で二度目の高校三年生を迎えていた。新しいクラスは、偶然前年と同じ3年4組だったが、当然全員が新しい顔であった。サングラスをして通学してくる私に、同級生となった後輩達は、ともかくも一目置いてくれて、それでもすぐに善さん、善さんと親しくしてくれるようになった。
このあたりがなんとも不思議なところなのだが、年度によって学年全体の囲気が全く違うようで、一度目の三年生の時は、河崎と名字でしか呼ばれたことがなかった。だから何となくよそ行きで同級生と接する毎日であった。ところが二度目の三年生は、私を私の通称で呼んでくれたので、一か月もしないうちに、私自身が彼らと同化できていた。それでも新学期一週間での九州への修学旅行には、三か月に一度になっていた目の検診を理由に、私は参加しなかった。
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2020年01月26日

思い出話 11

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二学期が始まり、あっという間に秋の三大行事、岸和田祭、岸高祭、体育祭が終わると、二学期の中間試験である。そのころ私は担任から、
「留年して、来年四月には三年生として再スタートする。留年理由は、網膜剥離疾病による療養のため出席日数不足。」
としようと提案された。担任の配慮を理解しつつも、
「単に出席日数不足で結構です。病気のことを記載していない方が、むしろ格好いいですから!」
と返事をした。
そしてそれ以降も、それまでのようなペースで登校していたが、私独り同級生たちの必死な受験勉強とは、かかわりのない毎日であった。実際授業を抜けて、岸和田城の図書館に行き、適当に小説を読んだり、私自身のペースで、数学や物理の復讐をすることが少なくなかった。余談ながら、高校に入学した当座から秀才の誉れの高かったM君が、京都大学の理学部を受験するらしいという噂を聞いたりしたけれど、私の負けず嫌いの性格を刺激することはなかった。
岸高は、岸和田城の城内に建てられていて、学校の規則では城内の図書館は、校内と認めるのが不文律で、授業を抜けて図書館で時間を過す仲間も結構いた。なぜか私は、一学年下の二人連れと一緒になる機会が多かった。二人ずれのうち一人は、少し派手な造りのOさんで、もう一人はやけにおとなし気なOさんで、冬休みを迎えるころにはすっかり親しくなっていた。そして私は、
「いろいろあって留年する。だから来年4月からは同級生だ!」
と知らせておいた。彼女達からは
「何組に入るのかわからへんけど、4月の修学旅行は一緒に行けるのね。」
といった、思いもよらない話を聞かされたりしていた。
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2020年01月25日

思い出話 10

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夏休みに入るころから、同級生達は大学受験を意識するようになったのだろう、クラスの雰囲気が2年生の夏休みとは全く変わっていた。私といえば、大学受験を真剣に考えることが難しく、受験という意味では、まったくしまりのない夏休みを過ごしていた。それにそのころには目の検診は一か月に一度となっていたし、モータバイクに乗っての、プロパンガスの配達を手伝うようになっていた。だから育ててもらっている家の商売の手伝いが、夏休みの日課であったというのが正直なところである。
母の従弟のHちゃんは、神戸にある「お坊ちゃま大学」に入学し、毎日片道二時間半をかけて通っていたので、我々との関わり合いは、あの頃には減っていた。向かいのY君と隣村のR君はさすがに大学受験を意識してだろう、これまた頻繁には顔を見せなくなった。一人私だけが、ある意味高校三年生の夏休みの目標もなくなってはいたが、彼らの立場を慮って、意味もなく訪ねていくことは、少なくなっていた。
そんなわけで私の高校三年生は、高校としての充実感はなく、今でいうフリーターのごときであったのかも知れない。ただ読書だけは目に負担をかけない程度にというお墨付きをもらって、結構楽しんだ。夏目や芥川を読み漁り、下村湖人の次郎物語を読破したのもあの頃だったろう。三島由紀夫にも手を伸ばし、早朝の読書を続けていた。そして心の中では、「高校三年は留年して、来年もう一度高校三年生をやろう!」と考えていた。そう考えるとこの闘病も気楽に考えることができるようになった。とはいえ早寝早起きをしての、早朝読書、英会話の練習だけは続けていたのは言うまでもない。
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2020年01月24日

思い出話 9

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阪大病院の主治医から、通常の生活に戻って良いという判断を貰ったのは、4月の最後の検診日であった。そして5月からの通院は、二週間に一度でいいだろう、だから高校にも通っていいだろう、まぁ体育は二学期に入るまでは差し控えようか、といった細々とした助言も貰った。当面サングラスを着用のことというのは、高校生には大いにうれしい通学許可の条件であった。だから私の登下校時は、学生服にサングラスといういで立ちとなった。
私は高校二年の学年末試験は受けていなかったが、それでも三年生に進級できていた。
5月の声を聴いて登校してゆくと、担任は
「この時期からなら、出席日数は十分足るから皆と一緒に卒業できるだろう。4カ月以上も勉強していないから、皆に追いつくのは大変だろうが・・。」
と、事務的に話して、教室に私を連れて行った。この担任は新任の若い先生で、やけに身長の高くなった私が、サングラスをかけていたので、病気のことを知っていただろうに、対応に困っていたのかも知れない。ともかくまるで転校生並みの扱いであった。
私達の高校は毎年クラス替えをする制度だったので、級友の半分以上はなじみのない顔だった。それでも入学以来ずっと一緒という級友も何人かいて、大した違和感、疎外感なく三年四組の一員となることができたように記憶している。
その日の帰りには、木下書店で教科書を買い求め、翌日からは普通の高校生に戻った。数学や物理の授業では、学習済みの単元の入試問題の演習が中心で、さすがにわけのわからない内容が多く、本当に退屈した。英語や国語はそれでも何とか対応が可能で、登校後三週間目に始まった一学期の中間試験を受ける羽目になった。ただ驚いたことに、成績は全くの最下位というわけではなかった。それに英語と国語だけは、それなりにいい点をとった記憶がある。
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2020年01月23日

思い出話 8

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愛犬アリス二歳の誕生日 Happy Birthday Alice

大阪大学付属病院石橋分院からの退院は、四月の上旬であった。
昭和41年(1966年)のことである。
祖母の妹で、母の叔父にあたる人が、わざわざ貝塚から車で迎えに来てくれた。大阪府北部の池田市から、大阪南部の貝塚市まで、直線距離なら60km程度であろうか、高速道路などまだない時代のことである。母の叔父は、綿織物の工場を経営していて、日産のセドリックを所有していた。そのセドリックを駈って、迎えにきてくれたのである。運の良いことに天気の良い日で、昼過ぎに石橋を出て、夕方貝塚に到着。水間観音の桜は満開であった。
ちなみにこの母の叔父が、Hちゃんの父親で、日中戦争初期には従軍して北支界隈を転戦していたと漏れ聞いたことがある。確か大尉で、戦況が悪くなった頃には、もはや退役していたそうである。
退院にあたっての主治医の指示は、
「過激な運動や、長時間の読書はよくない。当面一週間に一度通院して、経過をみる。高校はしばらく休むように。電気の髭剃りや、バリカンもよくない。」
ということで、自宅での療養を余儀なくされた。自宅といっても母の叔母の家での居候生活で、本来の実家はまたまた空き家となってしまい、我々三人いや四人の集まる口実がなくなってしまった。私はと言えば、またまた早寝早起きの生活パターンだけは守って、朝六時からのラジオの英語講座だけは続けていた。
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2020年01月22日

思い出話 7

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高校2年生の秋は、私なりに充実していた。
昨日も話した様に、夜は読書三昧の毎日であった。
正確には、早寝早起きしての読書三昧というべきだろうか。
中学に入った頃から朝四時起きの習慣が定着し、私は俗にいう朝方人間であった。ちなみに大学受験に失敗して予備校に一年通ったのだが、この生活パターンが崩れることはなかった。
ところが高校二年生の12月中頃、私の目に異常が起こった。
体育の授業時間中に偶然ぶつけられたバスケットボールの衝撃が、直接の引き鉄だろうというのが眼科医の見立てで、当時としては大病であった網膜剥離をわずらっってしまったのである。1月末には大阪大学医学部の附属病院に入院し、おおよそ3カ月の闘病生活を強いられた。当然高校生の気ままな生活も、終止符を迎えた。三国志を読み始めていたのだが、以来どういうわけか読む機会には恵まれず、吉川栄治とはおさらばしてしまった。
阪大病院での闘病生活は、ただただ退屈でひたすら天井を見ての毎日であった。そもそも本や新聞を読むわけにもいかず、娯楽と言えばラジオを聴くぐらいで、まさに修行僧のようなそれでいて、あおむけで寝ているだけの二か月半であった。
この二か月半の寝たきりで、唯一良かったのは身長が20p近くも伸びたことであったろう。手術後初めて立ち上がることになった3月10日ごろ、看護婦さんの第一声は
「あらこの子、背ぇ伸びたわ!」
だったことからも、理解して頂けるだろうか。
話は変わるが退屈な入院生活の中で、例によって何の前触れもなくR君が見舞いに来てくれたことや、バスケットボールを誤ってとはいえ私の頭部にぶつけた、高校の同級生I君が申し訳なさそうに顔を見せてくれたことが大いに救いとなった。
私の入院した大阪大学医学部の附属病院は、眼科はあの頃石橋キャンパスに在ったので、二人とも大阪府をほとんど縦断してやって来てくれたということになろうか。
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2020年01月21日

思い出話 6

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仲の良かった三人に、母のいとこのHちゃんが時々加わることは既に述べてある。
高校生になった私は、母が旅立って後育った、Y君宅の向かいの家ではなく、自分の家で夜を過ごすことが多くなった。いや正確には高校生になってすぐの頃の、母の叔母、私を実質育ててくれていて。私がおばあさんと呼んでいた人の
「善一郎も、もう高校生やさかい、自分の家で寝起せなあかん。壽エ吉さんの建てた家やさかい。」
という言葉がきっかけであった。早い話夕食後には、歩いて五分足らずの自宅に寝泊まりに行き、朝には6時前に起きてラジオで英語番組を聞き、7時には朝食にもどるという生活が始まった。
考えてみれば、大人の目から自由になるという環境が偶然にもできて、ある意味高校生には却って好都合、渡りに船というところであったろう。だから夏休みの声を聴くと、まずHちゃんが顔を出すようになり、やがてY君が、最後にはR君が加わった。如何に夏休みといえども、連日というと親が許す筈もないので、だいたいは何日かおきに集まってきた。ただHちゃんは身内ということもあり
「善さんが一人寝てるんやさかいなぁ。」
という私にかこつけての言い訳で、夏休み中ずっとやって来ていたような記憶がある。とはいえあの頃の高校生は純情なもので、夜に皆で集まって宿題をしたり、取り留めない話をしたりという生活だった。
夏休みが終わると、私は結構大きな家で一人で寝起きするという生活に戻った。虫の音を聴きながらの読書三昧を楽しんだのはあの頃のこと、吉川栄治の太閤記や宮本武蔵にはじまり、井上靖、川端康成を読み漁った。なぜか自宅での勉強の記憶が無く、高校生だったのになぁと長く不思議に思っていたが、数年前その謎が突然解けた。
岸和田高校の卒業50年の同期会で、
「河崎君は、授業のあとの休み時間によく数学の問題を解いていたわね。私はそのことをよく覚えているのは、一度なぜ今頃って尋ねたら『家に帰ってやる暇ないよって。』て応えてくれて、不思議に思ったから。」
と、見覚えのない同級生から声をかけられたからである。
私自身、なるほどなぁと納得した次第である。
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2020年01月20日

想い出話 5

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薄々は感じ始めてはいたけれど、
「べっぴんやったのう。」
という言葉で、私はR君の本当の気持ちを確認できた気がした。
それにしてもと私は思った。
「20歳も過ぎて、えらい純情なやっちゃなぁ。」
本来R 君はえらく腕白な小学生だった筈である。いやガキ大将だった。そして身長も高かった。幼稚園で初めて会った時、¥私は怖かった。小学生になっても、やはりガキ大将であった。模型飛行機つくりが上手でいくつかの競技会の予選に参加し、6年生の時には大阪府の大会にも泉南地区代表で参加した筈である。ただガキ大将ではあったが、私はいじめられた記憶はない。
ところが中学生になった頃から身長が延びなくなり、かろうじてガキ大将としての面目は保っていたけれど、少しずつ輝きを失くしていた。ただガキ大将失権とは裏腹に、学校の成績は上向きとなったから、人生ゼロサムなのかもしれない。そんな風だったから、異性に目が行くのはいささか遅かったのかも知れず、「20歳の純情」事件の目撃者に私はなったのである。
南海電車の車中あれこれ問いただすと
「大学に行くとき会ったんやしょう。ほんで先生が住所教えてくれて『一度訪ねてきなさい。』言うてくれたんやしょう。」
ということであった。その後どうなったのかは、今となっては知る由もないが、「20歳の純情」よりは進まなかった筈と、私は理解している。
時期も同じころ、R 君と私は阪大の石橋キャンパスに出向くことも多かった。彼の大学のクラブのコーチが、阪大のコーチも兼任しているとのことで、まさかクラブ活動にまでは乗り込まなかったのではあろうが、講義には一緒に出席した。一般教養の、経済や地理、文学などの講義で、私達は最後尾の席に座ってぼんやりと聞いているのであった。
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2020年01月19日

思い出話 4

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先生の実家は、ぶらくり丁から路地を二三本入ったところにあり、今から考えると何となくうす暗い感じのする通りに有った。R君もそこを訪ねるのは初めてらしく、多分住所を書いたメモ書きだったのだろう、を見ながら、ようやく探し当てたという感じであった。
「善さんあったでぇ!ここやここや。」
と嬉しそうに、大声を上げた。実のところそれでも私は、彼が私をどこに連れていきたいのか、まったく理解できていなかった。
「このうちなんやねん?」
と尋ねる私に、R君が答える間もなく開き戸があいて女の人が顔を出した。そして私達二人をじっと見つめて
「あれあなた達、中学校の時の生徒さんよね、確か?」
と、尋ねた。
「今日は何か?それにしてもよく訪ねてきてくれたわねぇ。」
という先生にR君は
「僕達大学生になったんで。僕は和歌山大の2年生、善さんは一浪して阪大に入ったんや。」
と誇らしげに答えていた。
立ち話もなんだからと促されて私達二人は、客間に通されたのだが、行きたいと言っていた筈のR君はいかにも居心地が悪そうで、止むを得ず私は中学の頃のことを話すことにした。
「そうねぇもう六年もなるのねぇ。君達の学年が卒業した次の年に転勤したの。でも君達の中学校は、初めてのお勤めだったから、なんとなく印象が強いの。」
と、ようやく話が盛り上がってきたというのに、いきなりR君は
「そろそろ帰ります。」
と訳の分からないことを言い出した。先生は、
「わざわざ来てくれたんだから、晩御飯くらい御馳走するわよ!」
と仰られたのに、R君は怒ったように
「善さん帰ろう!」
と腰を上げた。
先生の家を出てから和歌山市駅までは、R君は一言もしゃべらなかった。私といえば、何やらキツネにつままれたようで、それでも話しかけることもできず、二人して南海電車に乗り込んだ。そして電車が動き始めるのを待つかのようにR君はそれこそ満面の笑みで
「先生やっぱりべっぴんやったのう。」
とつぶやいた。
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