2020年06月13日

思い出話77

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時計の針を20年近く戻して、大学生から大学院生になる頃の思い出話を、再開したい。
私にとって、初恋とは言えないまでも、それでも甘酸っぱい思い出を残して、その人は嫁いで行ってしまった。ぽんと何かがはじけてしまったようであったが、それでも一年の予備校生としての私なりの研鑽の甲斐もあって私は大阪大学の学生になった。大学生としては決して経済的に恵まれてはいなかったけれど、それでもどうにか学業を続けながら、時には友人との貧乏旅行も楽しんだ。そういう意味で、高校、予備校、大学と一緒であったGM君の存在が大きかった。ちなみに彼とは、卒業研究の講座配属先まで同じで、その縁は未だに続いている。
そして入学の頃から漠然と抱いていた、「大学院に進学しよう!」という希望を、真剣に考え始めたのは四年生になって、卒業論文のための研究室配属された頃かあらである。私は電磁界理論の講義に魅了され、当然のように通信工学科第一講座を希望した。希望はしたものの、
「人気が高く、思い通りに行くだろうか?」
と大いに心配したのだが、それは全くの取り越し苦労で、講座の人気という意味ではその講座は思いのほか低かった。だからちょっと背伸びして選んだ卒業論文のテーマ「相対論的電磁理論」が、認められた。そしてその直接面倒見てくださるのが、博士課程一年生のTKさんであった。先の書いたように、GM君も同じ講座を選び彼は当時の先端技術である光ファイバー伝送技術の理論研究に取り組むこととなった。
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2020年06月11日

学術振興会様々

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実験は、結局のところ成果無しに終わってしまったが、実験終了後は蘭州を訪れ、さらに敦煌まで足を延ばしたあたりの顛末は、拙著「雷に魅せられて」に書かせてもらってある。
さて私は9月初旬日本に戻った。
あの頃、空電研究所における雷放電研究グループの立場が微妙であり、私とNMさんは工学部のロケット誘雷実験と一緒に研究する枠組みが大切だと、リーダーの竹内助教授を説得していた。学術振興会の予算で、中国を訪問したことですっかり強気になっていた私は、NMさんの
「堀井先生を代表にして、インドネシアでのロケット誘雷実験を日本学術振興会に提案しませんか?」
という戦略に一も二もなく賛同して、申請書作りをしておいた申請の採択が届いた。これは結構大きな国際共同プロジェクトで、翌年1989年1月には総勢10名余が大挙してインドネシアに出かけることになった。
そんな風で大いに盛り上がっていた折、今度は母校の大阪大学から耳寄りな話が届いた。
電気工学科電力工学講座の木下教授が定年退職し、雷放電研究のポストが空いていそうだというのである。私は
「うまく採用されたら、雷放電の研究は継続できるし最高だなぁ。」
と思案し、結局翌年の転勤に至るのだが、その経緯は別の機会に披露することにしたい。
いずれにしても中国から帰ったら、インドネシアでの野外実験の話や、大阪大学への転勤の話やらが、一緒に吹き出してきてそれまでの空電研究所での10年弱の苦労が一挙に実を結ぶことになったのである。その後はといえば、インドネシアに引き続き、トロント、アメリカ、オーストラリアと立て続けに海外観測がの申請が採択され、1990年代がある意味、それまでの苦労が実を結ぶ10年となったというべきだろうと考えている。
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2020年06月10日

解放前の中国

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日本では時の記念日
二時間近くも走ったろうか、私達は陽坊村の、ロケット誘雷実験場に到着した。
そこは何と人民解放軍の、戦車の演習場であった。演習場だけにひたすら広かった。片側には二階建ての蒲鉾型建屋があり、郭教授から私達の光学観測装置はその二階に設置するようにと薦められた。SSさんは
「観測は、誘雷さえうまくいくなら最高の環境だ。ただ毎日通うのは願い下げた。近くのホテルを探してくれるよう、交渉しよう。」
と、スタッフとの紹介も済まぬうちに、私達の意見を郭教授や劉教授に投げかけた。
郭教授は
「この辺りには、外国人用のホテルはないからなぁ。」
と思案顔であったが、二三日内にどうにかするからという返事で、私達はその日の夕方は北京市内に戻った。
ところが翌日郭教授から
「南口村に、人民解放軍の招待所があり、その貴賓室をお二人のホテル代わりに使えるよう交渉した。実験場まではいつもの自動車で15分程度。毎朝迎えに行くし、夜中に雷雨があるようなら、迎えに行くから。」
と話があり、私達は早速に荷物をまとめて「引っ越し」した。
以来おおよそ一ヵ月、私達は南口村と陽坊演習場を行き来することになるのだが、その間天気の良い日には八達嶺長城や明時代の十三陵に連れて行ってもらった。その時の世話役の一人がWDさんなのである。
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2020年06月09日

中国での実験

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ウプサラの会議の直後、7月8月と私は中国で過ごすことになる。
1988年といえば、解放前の中国である。
中国ヘは、日本学術振興会への申請が採択され、中国科学院蘭州高原大気物理研究所の実施するロケット誘雷実験に参加して、先日来話している光学観測を行うことが目的であった。この申請は、科学研究費の奨励研究を除けば、自分自身で考えての内容での初めての申請であった。名古屋大学空電研究所に勤務していた私は、冬場には工学部教授の堀井先生がリーダーである奥獅子吼高原でのロケット誘雷実験にも参加しており、多分その折にでも中国行きの話をしたのだろう
「中国の実験には、中部大学のSSさんも参加させるから、一緒に行ってくれないか!」
と堀井先生から提案され、二人して中国に出かけた。
SSさんは、ご自身で設計・製作されたストリークカメラで観測を提案し、私はといえばNMさんの設計によるフォトダイオードを8列に並べた光学観測器で、パソコンで制御してのディジタル記録をするつもりでいた。そしてこれが一年後にトロントでの観測に使われるようになったのだが、その顛末は数日前にすでに述べてある。
くどい様ながら、解放前の中国である。
伊丹空港を出発して北京空港に到着、到着ゲートには郭教授、劉教授に加え何人かが迎えに来てくれていた。私の観測装置は何日か前には航空貨物で送ってあったが、SSさんのストリークカメラは、確か手荷物による持参であった。ただカメラは当然アナログカメラで、通関手続きは思いのほか簡単であった。
私たち二人は黒塗りのロシア製の6人乗り乗用車に乗せられ、確か友諠飯店(彼らはFriendship Hotelと呼んでいた)に滞在中泊まるようにと案内され、翌日実験場を訪問すると告げられた。そして翌日私たち二人は、早朝やってきた研究所の学生らしき一人と一緒に、例の乗用車で陽坊(ヤンファン)村にあるという実験場に向かった。記憶に間違いなければ友諠飯店は北京市の北西部にあり、陽坊村はほぼ北に60q程、有名な八達嶺との中間に位置し10分ほども走れば道路はもはや舗装されておらず、自動車は田園地帯をひたすら走り続けるだけであった。小一時間走っても目的地に着く様子はなく、SSさんがいきなり
「河崎さん、これなら実験にならないよ。こんなに時間をかけて通っていたのでは、意味がないから、もっと実験場に近いホテルを頼んで欲しいなぁ。一時間以上もかけてたら、雷雨が終わったしまうから!」
と言い出された。私自身もこの道を毎日通うのは大変だなぁと考え始めていたので、
「まずは実験場を見たうえで、私からその旨交渉するよ。」
と、彼の意見に賛同した。
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2020年06月08日

ICAEを開催したい

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一昨日の話の続きである。
私の発表が、アメリカの同業者達には、理解してもらい難かった様ながら、フランスの同業者には評価してもらえたのは事実だった。いずれにしても、雷放電研究者としての私自身の存在を、認めて貰ったのは間違いなく、それが自信となったというべきであろうか?
そしてスウェーデンの留学を終えて帰国した1986年の秋に、URSI(Union of Radio Science International )のE分科会から翌年の総会の雷放電のセッションでの招待講演依頼が届いた。大学院学生時代、尊敬していたST先生が、やはり招待講演の依頼を受けたと喜んでおられたのを思い出し、私自身も大いに名誉だと考えた。ちなみに1987年のURSIは、イスラエルのテルアビブで開催され、その折URSI主催のエクスカーションで死海を訪ねたのは、今となっては40年近くも昔の思い出である。
そして1988年6月のICAEを迎えることになる。
私のセッションは、日本の冬季正極性落雷(自然雷)が、確かに存在することを二冬北陸で観測し世界に知らしめることに貢献してくださった、日本人にとっては大恩人のマルクス・ブルック教授が座長で、私の発表にもいろいろ気を使って盛り上げてくださった。ブルック教授には、日本人の兄弟弟子が多く、私が空電研究所のスタッフということで、好意をで接してくれたのに違いなかった。そんな応援もあって、私の講演は同業者との議論が盛り上がり、私なりにも十分に対応でき、私は
「この分野で国際的に十分やっていけそうだ。」
と確信めいたものを持ったのである。
そう考えると、
「この会議を日本でも開催したいものだ!」
と考え、日本の大御所の先生たちに
「ぜひ日本に誘致してくださいよ!」
と投げかけた。ただウプサラでは残念ながら、準備不足もあって誘致に至らず、次回は1992年セントピーターズブルグと決まった。そして大御所の先生達から
「河崎さん、そう考えるなら次回の会議で誘致してみたら。四年あれば準備もできるだろう!」
と発破をかけられたのである。
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2020年06月07日

国際会議に出席

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話題が少し前後している。
国際会議に生まれて初めて出席したのは、1983年のFlorida でのICOLSE (International Conference on Lightning and Static Electricity) である。国際会議に出席するようになった一番の理由は、勤務先の空電研究所では、国際会議で発表して成果を評価してもらうことが当たり前のように行われていたからであり、同僚たちの積極性に啓発されたというのが正直なところであったろうか。それにその前年の11月から翌年の1月にかけて、ノルウェーでの雷観測を故竹内先生のお供で実施し、帰国途上にマンチェスターに立ち寄った際、講演を強いられて大恥をかいたことも、一因となっている。
ちなみに初めての講演の時の座長は、当時すでに超著名であったアリゾナ大学のP. Krider教授で、
「生涯初めての講演だから、質疑応答の際にはサポートしてほしい!」
と、セッションの開始前にお願いに行ったら
「ゆっくりはっきり話せばいいんだ!」
と背中を押され、以来私の発表スタイルは、その有り方を貫いている。
その翌年には東京のIEEE EMCの会議で、人工雑音の研究内容を発表し、1985年のウプサラ大学への留学につながっていくのである。そして6月ウプサラ大学滞在中にパリでのICOLSEに出席、私自身内容にはかなり自信のあった講演で、その時の座長はフロリダ大学のM. Uman教授であった。あの時は質疑応答も私なりにはほぼ完璧であったと自負があり、講演が終わった途端フランスONERAの何名かが壇上にやって来て
 「お前の発表は、本当に面白かった。あの内容は古典的な雷放電しか分かっていないUmanには理解が無理だったろう。実際Uman 座長もあっけにとられていたように見えたぞ!」
と、大絶賛してくれた。だからこの発表で私は、国際会議での発表に自信を持つことができるようになったのである。なおこの時の一人、P. Richardとは今日でも親交が続いている。
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2020年06月06日

雷の進む速さ

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昨日、拉致被害横田ひとみさんの父上、滋さんが亡くなった。享年87歳 合掌。
今日は、少し専門的な話で恐縮。
昨日の内容に関してである。
あの頃NMさんの設計した光学観測器で、雷放電の過程で「帰還雷撃」に伴う発光を観測していた。帰還雷撃は、大地から雷雲に向かって進む電流で、当然発光も同様に進行すると考えての観測であった。端的にいうなら、パルス波が、大地から雷雲に向かって移動するのである。
私が大学院学生であった時代、光ファイバーによる通信が主題の研究室に在籍していたので、
「放電路が円形かどうかはさておき、ファイバーを伝搬する光パルスと同じように考え得る!」
と確信しした。だからいろいろな高さからの発光信号を調べてみれば到達する時間差で、確かに速度は測れるだろうけれど、
「その速度って、信号の先端の進む速度なんだろうか?」
と思案し、さらに
「光ファイバーと同様に考えれば、信号の進む速度は周波数に依存する。いわゆる分散があるのではないか?」
と、考えたのである。
「だから信号の先端で速度を計測すれば、速度は観測系の感度に依存するはずで、帰還雷撃という現象の速度を求めたいなら、グループ速度を求めねばならないだろう。」
と、推論したのである。
放電路をファイバー形状とみなしたとしても、はたまた放電路をプラズマ状態とみなしても、いずれにしても周波数分散の有るのが当たり前というのが、私の発表の大前提であった。そしてこれが、理屈っぽいフランス人大気電気学者には大うけし、一方Uman教授のような大御所には、ぴんと来なかったようなのであった。その結論として私は、
「大先生といえども、少し観点が違えば大いに頼りないものなんだ。だからこれなら私も対等に議論できそうだ。」
と自信を持てるようになったのである。以来私は
「国際会議は、確かに成果を世に示す場には違いないが、それにもまして自分の理解を同業者に示して、議論してもらう場。」
と考えるようになったのである。
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2020年06月05日

ウプサラICAE

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トロントの事を思い出したついでに、もう一度1988年のことを回顧している。
あの年1988年の6月に、ICAE(国際大気電気学会 International Conference on Atmospheric Electricity)の国際会議がウプサラで開催された。私にとって初めてのICAEで、それまで雷放電の国際会議といえば、ICOLSE かIEEE のEMCしか知らなかった。いや正直言って、国際会議出席はある意味高根の花で、私ごときにはまだまだ敷居が高いと考えることも多かった。ただウプサラは1985年に一年滞在した地で、その折世話になったスベンさんが主催となれば、駆け付けないわけにはいかないと、先輩のNMさんにも焚きつけられて、おっとり刀での参加となった。
あれから30年以上を経てしまっているので、随分と変わってしまっているのだろうが、物価の高いこと以外は、住み心地の良い町で、私にとっては、未だに大好きな街の一つである。1988年の会議は6月で、日暮れが午後10時頃だったろうか、川べりのレストランで、東京大学のIMさん、張教授、せんぱいのNM さんと私の四人で随分と遅くまで話し込んだ。その折出た話が、トロントで観測をしてみないかという誘いであったのである。それが会議出席の、収穫の一つであった。
つけてもあの会議では、多くの大気電気研究者と知り合うことができた。一番の収穫は、ニューメキシコのマルクス・ブルック教授と知り合えたこと、オクラホマのマズールさんとますます浸しくなったこと、あたりだろう。いずれにしても
「雷放電の研究をやるなら、この会議で認められなければならないんだ。」
と、判ったことが最大の収穫だったと、いまだに信じている
余談ながら、私が国際会議で発表をして何とかやれそうなという自信めいたものを得たのが、ウプサラ滞在中に出席したパリでのICOLSEで、そしてこの1988年のICAEでは自信が、確信に代わったのであるが、また明日にでも・・・。
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2020年06月02日

弟子と出くわす

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私が大阪大学に転勤したすぐの頃の弟子たちの思い出である。
先日、超ドライなKT君のことはすでに述べてある。
あの頃雷放電の研究に関わっていた学生に、AY君、NM君もいた。
AY君は中国地方の電力会社に、NM君は関東の大メーカーに就職、今日でも健在だろう。AY君はKT君やNM君よりは一学年上であったが、比較的おとなしい性格で山本さんが直接面倒を見ていた。そういう意味では、正確には弟子と呼ぶにはふさわしくないかも知れない。
あの当時はまだ大型計算機が幅を利かせていた時代で、それでも研究室にはパソコンも出回り始めていた。何台かのパソコンは、大型計算機の端末機としても利用できるように設定されていた。今から考えると、メインフレーム(大型計算機)からパーソナルコンピューターへの過渡期だったということになる。ちなみに私は大型計算機世代で、空電研究所当時の経験を思い出して、AY君に、ビデオ観測した放電路画像の三次元処理をやってみたらと助言した。当時としては画期的で、電磁界観測も併せて行っていたので、良い研究になるという確信めいたものがあった。それにジョイスティックを使って放電路の三次元画像を、希望する任意の視点から見ることができ、AY君は大いに喜んだものであった。
しかしこれが山本さんの逆鱗に触れた。
「河崎先生、私の指導している学生に、勝手にあれこれ指示しないでください!」
と、叱責されAY君にも随分気まずい思いをさせてしまったのである。それでも修論発表を無事終え、気まずさを修復しないまま、AY君は社会に飛び立って行った。
後日談がある。
10年ほどたったある朝、東京出張の帰りに羽田空港で、偶然AY君にでくわした。どちらが先に気付いたかはもう覚えいないけれど、AY君は何のわだかまりもなく、電力会社での勤務に関して話してくれたのであった。
一人前の電力マンになっている「弟子」と、久しぶりに出会って嬉しく思ったものである。
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2020年05月31日

そんな無茶な!

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UT君のことで思い出深い一件が有る。
1994年の5月の事だったろうと思う。
ICOLSE(International Conference on Lightning and Static Electricity)が、アメリカ合衆国オハイオで開催された。雷と静電気に関しての国際会議である。私はこの会議に、1983年以来継続して出席していたので、当然その年も出席のつもりで準備していた。発表内容は、修士2年になったばかりのUT君の、電界多地点観測の成果であった筈である。私はあくまでも付き添いのつもりで、UT君の国際会議デビューを飾る予定であった。あの頃UT君当人は、まだ博士課程に進学するかどうかを決断できかねていたので、国際会議の場で外国人の仲間たちに評価をしてもらえば、本人も踏ん切りがつくだろうというのが、私の本音であった。
ところが出発の直前になって、私の出張がどうにもこうにもできなくなった。大学の委員会、電気学会の委員会がダブルブッキングで、おまけに絶縁診断の委員会にも松浦教授の代理で出張せねばならなくなってしまったのである。止むを得ず、オクラホマのマズールさんに国際電話をかけ、
「私の弟子のUT君がICOLSEに出席する。私も行くつもりだったが、どうにも行けなくなってしまった。申し訳ないが面倒を見てやって欲しい!」
とお願いした。マズールさんとは、1985年以来の付き合いで、何度か来日もしており、北陸のロケット誘雷も経験している間柄。二つ返事で引き受けてくれたので、次はUT君を呼んで
「申し訳ない。一緒に行けなくなった。マズールさんに頼んであるので、ともっく一人で頑張ってくれ!」
と因果を含め送り出した次第である。それでも会議場には毎日のように電話をして、マズールさんに様子を聞きながら、
「UTの発表内容は、非常に良かった。発表も、質疑応答もそつなくこなしていた。」
との報告を聞いたときには、我が事のように嬉しかったのを覚えている。
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