2019年04月26日

工学部電気系

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昨日の続きである。
工学部電気系に進学してくる女子高生は、きわめて稀である。
在籍した大阪大学工学部の場合、電気系といえば電気、通信、電子それに情報の四学科からなっており、情報は女子学生も進学してきやすい筈なのに、四学科ひとまとめで募集していたことも原因してであろうか、いやはやなんとも人気薄だったのである。さらに2年生が終わった時点で、四学科に分けるのだが、女性の多くは情報を希望することになり、残りの三学科の女子比率は5%に満たないという惨憺たるzっ様態であったのである。
そもそも大学の工学部電気系なんぞというと、高校生あたりには電気の回路やアマチュア無線オタクといったステレオタイプの印象を持たれていたようで、同じ学科で机を並べた友人から聞いた笑えない笑い話がある。
友人が大阪大学工学部の通信工学科に進学したと言ったら、近所のおばさんから
「国立大学にも、通信制があるのね?」
と驚かれたので、
「いいえ通信制ではありません。電気関連の学科です。」
と答えたそうだ。でも要領を得ないようなので、
「インターフォンを作ったりします。」
と答えたら、
「さすが大阪大学ですね。難しいことをやるんですね。」
と感心されたそうで、本当にがっかりしたと話していた。
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2019年03月29日

臆病の思い出

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愛犬アリスの話題で恐縮ながら、昨日もその臆病ぶりを書かせて頂いた。
ただあのように書いていると、自身の幼少時のことをついつい思い出さずにはいられない。実は私自身も子供のころは臆病であった。里山の田舎で育った私だが、家屋は田舎にありがちな大きな家であった。昭和初期、綿織物で一山あてた祖父は、身分不相応な家を建てた。同じ町内のライバルと競い合ったのだろうか、似たような構えの家屋が同じ町内に三軒ある。そんな家だから木造建築にはありがちらしいのだが、少し風が強いような日には、きしむような音が聞こえる。家族一緒なら少し気味が悪いなぁ程度ながら、一人で留守番の時など、怖くて怖くてならなかったものである。
ここシンガポールの住居は、コンドミニアム,日本風に言うならマンションだから風で軋んだりはしないけれど、上の階の住民の椅子や机を動かすような音や、歩く音が聞こえたりする。風でドアが閉まったりするようなときには、とりわけ音が大きく、そんなときにはアリスはびっくりして吠えたる。我々が一緒にいるときにはそうだけど、一人で留守番の時には多分縮上がっているのだろ。何せ気が弱く内弁慶の極みだけに・・・。
ついでに言うと、アリスが用を足すのはベランダで、こちらはしつけがうまくいってあまり失敗はしない。けれどである、一人留守番の時には多分用を足せないでいるのだろう。これは私にも子供のころの思い出があるし、実際アリスも私が帰宅してしばらくしたら用を足しているから、そのように思うのだが・・・。
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2019年03月16日

3月11日午後2時46分 4

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2012年9月末日で私の二年間のエジプト赴任は終わっって帰任した時には、彼はもう退職をしていた。その半年前の3月末の一時帰国の際には、確か東京で両名と会う予定であったが、結局会合予定の場所には現れず、電話だけでの会話となった。そして
「働く意欲がわかないんです。阿呆らしいて!」
とも言い、
「言えないことも、いっぱいありまして!」
ともまたまた漏らしていた。私は、
「今はそういう気分かもしれないが、またしばらくすると気分も変わるから。」
とやんわり、励ましたけれど結局無駄に終わってしまったことになる。
通信システムのサポートが職務だっただけに、東北大震災の際のいろいろなやり取りには、会社員として組織を守らなくてはない立場と、大仰に言うなら国民として許しがたいという立場の、二律背反があったに違いない。とはいえ、彼としてはこれまた大仰に言うなら、「言えないこと」を墓場まで持っていく気で退職したに違いない。
不幸はあれこれ続くもので、退職してたぶん気分転換にと行ったモーターバイクの旅行で事故に遭遇するのだから、弱り目に祟り目。定年退職してシンガポールに赴任するまでの悠々自適(?)の私を、足を引きずりながら訪ねてくれた。その後大阪の電線メーカーに就職、風の便りによればその後結婚したとのこと。シンガポールから届かぬ「幸多かれ」の言葉を送っている。
それにしてもである。私の弟子のことは確かに大問題でないことは事実であろうが、それでも、東日本大震災の発生は、確実に一人の人生を変えてしまったことも事実なのである。
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2019年03月15日

3月11日午後2時46分 3

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実際のところ福島原発は炉心融解の惨事を起こしていたのだが、そのことが公になるのはずいぶんと経ってからの事である。このことはご常連様もよくご存じの筈である、ただ地震発生と引き続いて起こった津波の襲来、そして原発の事故はテレビであれこれ報道されてはいたものの、冷却に海水を使うだの使わないだのといったことが話題の中心で、放射能レベルが高くなっているという報道が、
「それでも原子炉は、致命的状態ではない!」
と暗に示唆するばかりであったというのは、うがちすぎであろうか。
さて二名の弟子の事である。
先にも書いたように翌年一時帰国した折、二日がかりの帰京であったことを知らされた。そして両名とも大地震の対応に活躍したのだが、役割がまるで異なっていた。一名は復旧の作業に、他の一名は本店と福島の通信サポートだったという。ただサポートに当たった卒業生はぽつりと
「とても言えないような内容もありましたからねぇ!」
とても漏らしていた。やがてこの彼は、心の病とまではいかないまでも、あれこれ悩む点もあったのだろう、退職に追い込まれてしまったのである。
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2019年03月14日

3月11日午後2時46分 2

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二人の卒業生を送り出した後も、私にはそれなりの緊迫感しかなく、帰宅もいつもとあまり変わらなかったと記憶している。それでも夜九時のNHKのニュースのころは帰宅していた筈で、その時刻になって初めてNHKの放送が発生以降すべて東北の地震関連の報道になっていることを認識、事の重大さをしみじみ味わうことになったのである。本来なら週末を利用して研究室を訪ねてくれた二人や研究室の学生を誘って、コンパとなっていたかもしれないところであったのに・・。
実はあの頃私はJICAの派遣教員としてエジプトアレキサンドリアに長期出張中であったのだが、アラブの春の革命騒ぎがエジプトにも及び、1月末日から一時帰国を余儀なくされていた。だからほとんど毎日のように大学には出向いてはいたものの、何の義務もない状態だった。とはいえいつ何時アレキサンドリアに戻るようにとの命令が出るかもしれないという、いやはや全く中途半端な半端な状態であったのである。だからその後は数日、大学にも出向かず東北の震災のニュースを見ることにしたと記憶している。
それに気になるのはあの日急いで帰した二人の卒業生のその後であったが、そのことを知るのは一年近く経った頃ではなかったろうか。というのも4月の声を聞く頃には、エジプトも平穏を取り戻し、早々に再赴任となってしまったたからである。そんなわけで二人のことは当然、大地震の被害は良く知ってはいたものの、実のところ原子炉溶解という福島の惨状は全く知らなかった。震災の翌日だったろうか、福島原発の水蒸気爆発の様子は生中継で見ていたというのに、
「単なる水蒸気爆発で、原子炉は安全!」
というテレビ報道を聞いていたことに加え、再赴任の前日阪大に出向いた際に偶然専門家に会ったので、
「原発大丈夫ですか?」
と直接ただしたら
「日本の技術は、ロシアとは違いますよ!」
と心強い返事を頂き、ほとんど鵜呑みにしていたのであった。
さらにエジプトに再赴任直後、これまた原子力の専門家がアレキサンドリアを訪れた際の講演会では
「Nuclear in Japan is perfectly under control.」
の言葉があり、さすが技術の日本と拍手喝采を受けたほどであったことも原因していたのだろう。(この稿続く)
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2019年03月13日

3月11日午後2時46分

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2011年3月11日午後2時頃、東京電力に就職して数年経つ、研究室の卒業生2名が教授室を訪ねてきた。研究室の後輩に会社概要を説明することが目的、つまるところ就職の勧誘が目的であった。懐かしさもあってだろう、我々三人のはなしが弾んでいた。
そこにいきなりグラッと来た。
ちなみに私の居室(教授室)は、9階建て建屋の9階にあり、大いに揺れた。
「こら結構でかい地震やで!」
そう云いながら、私は阪神淡路大震災の時の揺れと比較している冷静な私を感じていた。少し気になったのは、あの建屋が耐震基準を満たしておらず、近々に改修に入る予定であったこと。それでもまさか倒れることはあるまいと、冷静な判断をしていた。それでも建屋の揺れは、一分近くも続いたろうか。
当時はまだ携帯電話の「ワンセグ」でテレビを見る時代であった。二人はそれぞれ携帯を取り出して震源地を確認していたが
「先生、地震は東北地方らしいですよ。」
とNHKの第一報。その時我々は未だ大惨事になるという予感もなく、
「えらく大きい地震みたいですが、東京大丈夫でしょうね?」
程度の認識しかなかった。
ところが15時30分過ぎであったろうか、福島原子力発電所への津波到達が報じられ、その付近の防波堤を超えてくる津波の様子が映し出されると、二人の態度は一変
「こらぁ福島の原発危ないなぁ。急ぎ東京に戻らなあかん!」
と慌て始めた。(この稿続く)
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2018年11月25日

10年前の思い出から

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10年前の今日の内容から思い出した、その後の悲惨というか大変難儀をした経験。
ブログを読み返せばたぶん書いてあるのだろうが、現時点での記憶を頼りに思い出している。
「蜂窩織炎」を患ったことは昨日も書いた。
熱の出たのがたぶんアレキサンドリアのホテルが最初だったろう。
ただその時は風邪だとしか考えなかった。
そして帰国するころになって、右足首が痛み出しよくよく見れば、赤黒くなって腫れている。だから帰国して次の日だったか、その次の日だったか、南千里にある皮膚科に行った。その皮膚科を知っていたというのではなく、秘書のNさんがネットサーフィンして探してくれたのである。そして診察を受けたところ、医師は足首を見るなり
「熱はないのか?痛みはどの程度か?」
等々、えらく真顔で問いただすではないか?そして
「蜂窩織炎です。晩酌の習慣があるなら、いましばらくは禁酒です。」
とおっしゃる。私は
「どの程度まじめに禁酒せなあかんのですか?」
と返したところ、
「蜂窩織炎は、常在菌が真皮のさらに下に入り込んでいます。抗生物質で治療しますが、常在菌だけに効果があるかどうか?お酒を飲めば血の巡りがよくなって、運が悪いと敗血症にまでなりますよ!」
とダメを押された。
「12月になれば第一週目にはサンフランシスコへの出張があるのですが?」
の質問には、
「足の痛みがなくなればいいですが、今の状態では無理でしょう。」
という。
「じゃぁ、熱が下がったら車椅子で行きますから、それなら・・。」
という問いに、いささかあきれ顔で
「行く元気があるならどうぞ。」
とおっしゃった。
ともかく熱は二三日でおさまったものの、足首の痛みはしばらく取れなかった。
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2018年11月02日

中国の勢い

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「English Corner」と言われても耳慣れない言いながら、私には何となく想像は出来た。
「多分、英語会話の能力を高めたい若者が、集まっている集会なんだろう。」
程度の軽い気持ちで出かけて行ったところ、参加者の多さやその熱心さに圧倒された。あの場では、少なくとも私は外国人、そんな私に若者たちが次々と話しかけてくる。
「どこから来たのか?」
「何をしているのか?」
「大学では何を教えているのか?」
「日本はどんな国だ?」
「アメリカに行ったことはあるのか?」
比較的簡単な内容の会話が多かったのは事実であるが、いやはやもう次から次から雲霞のごとく湧き出てくる。それが徐々に経済政策を進めていたとはいえ経済解放前の中国である。彼らは、疲弊した共産主義経済の底辺から、一獲千金とは言わないまでもなんとしても這い上がろうと、精一杯の努力をしていたのであろう。そして
「日本は良いなぁ。マイカーを持って、衣服も洒落ていて、本当にうらやましい。私達の国はいつ日本い追いつくのだろう?自分たちの生きている間には、とても無理だろう。」
と、異口同音に愚痴る若者達に
「あなたたちの情熱があれば、すぐに追いつき追い越すよ!」
と答えた。言い様こそ違え、先日紹介した松下幸之助さんの
「皆さんは必ず日本い追いつき、また日本にない技術を開発するでしょう。最初に松下にその技術を売りに来てください。」
の言葉に通ずるものがあると、今になって思い返している。
今の中国の勢い、松下さんお言葉から30年、私と若者達との会話から20年で、現実に中国は日本を追い抜き去り、世界第二位の経済大国になっている。
実は1990年代の後半、上海の街を訪れたことがある。その折繁華街に、欧州や米国のデザイナーズブランドのショップを多く見かけ、ある店で
「失礼ながら中国の経済状態で、こんな高いものを買う人がいるのですか?」
と尋ねたことがある。その時の店員の答えが印象深かった。
「中国の人口は日本の10倍以上です。中国でも日本でも、超のつく金持ち・資産家は1%以下でしょうが、お金持ちのレベルは似たようなもの。となると我が国の購買力は、日本の10倍を下りません!」
納得せざるを得なかった。
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2018年11月01日

30年前の熱気

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霜月朔日 2018年もあと二ヶ月を残すのみ

北京・蘭州の長距離汽車旅行は、4人部屋の寝台車で(たぶん特等だったのだろう)、早い話しコンパートメント仕様、昼は椅子、夜は二段ベッドであった。
30年前の記憶を手繰り寄せると、大同、呼和浩、包頭、銀川を経由して汽車は進んでいった筈である。そして内モンゴルを走る汽車は、夜ともなると結構冷えたので、夏服しか持っていない私は寒い思いをした。やがてようやく蘭州と聞かされ、それでも汽車がしばらく止まってしまったのをうっすらと覚えている。
汽車が鉄橋を渡るときWさんから
「この川は黄河です!」
と聞かされ、豊富な水量に驚くとともにその水が黄色く濁っているのを見て、
「なるほど黄河。」
と納得したのもかすかな記憶に残っている。
その蘭州には二三週間は居たろうか?
滞在は蘭州の街の中ほどに位置するホテルで、高原大気物理研究所にも歩いて行ける距離であった。その研究所には原則朝から夕方まで滞在したのだが、蘭州の朝の明けるのが遅いのにはいささか閉口した。何せ中国は全土時差がなく、北京に比べると少なくとも一時間は遅かったのである。
四人の若者達とは四六時中一緒に行動した。一番印象に残っているのは
「English corner がありますから。」
と言って連れて行ってもらったのはあの夕暮れの若者たちの群れ。公園の一角に集まって、ともかく英語会話力をものにしようという、あの熱気であった。
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2018年10月31日

北京から蘭州へ

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北京郊外での実験は、20日間程度であったろうか。
蘭州高原大気物理研究所の教員や学生のやる気とは裏腹に、明らかに準備不足、機材不足は否めず、昨日も書いたように共同研究としての成果は皆無であった。ただこれも昨日書いたように、若い研究者たちとの繋がりができた。北京郊外での期間が終わって、Sさんが帰国したのち、私は彼らの本拠である蘭州を訪問した。訪問したというよりは、Wさんに連れられ正味二日間の汽車旅行を楽しんで(??)蘭州まで移動したのである。汽車旅行となったのは私の希望で、郭教授から
「この共同研究は、中国科学院と日本学術振興会の研究・教育共同のプログラムです。だから観測のあとは蘭州に行ってもらって、あれこれ学生たちに講義をして欲しい!」
の申し出があり、
「それなら汽車で行きたいなぁ。日本では汽車に乗ることはまずないから。」
とお願いした。これに対し
「経路は、西安等を経由しての南回りと、内モンゴルを経由しての北回りがある。どちらも48時間程度。ただし大変疲れますよ。」
のことであったが、例のWさんと相談して、北回りを選んだのであった。
汽車は四人部屋の寝台車、今となっては随行してくださった研究所の職員の方の名前すら覚えていないけれど、Wさんと私に加えもう二人がいた筈である。
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