2020年05月14日

十四年前の今日

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14年前の今日

数日前のことになるが,横浜の石井選手が2000本安打を達成した。
プロ生活18年目の達成で,投手として入団勝ち星も挙げている。
これは打撃の神様川上選手以来との事である。
投手から野手に転向したきっかけを
「野球って毎日やるものではないのか?と考えて」
とTVで語っていたので,自分で転向を決断したらしい。
プロ野球選手の場合,アマチュア時代の投手それも主戦投手が野手に転向して,
一流となることが多く,石井選手の成功も驚くには当たらないかもしれない。
ただ「野球は毎日やるもの」と自分で転向を決めたところに凄さを感じるなぁ。
ただ西武ライオンズとの日本シリーズで活躍していたたのが,
つい最近のことのように思え18年選手であるとは少し以外であった。
本音でもう少し若いのかと思っていたので調べてみたら,
あの日本シリーズは1998年のことで,既に8年前。
多分その頃が選手としても一番油の乗り切っていたのであろう。
その後途方も無いスランプも経験,よるも眠れないほどに落ち込んでいたとき
奥方から
「そんなに大変なら,思い切って野球を止めたら!」
といわれ
「家族には迷惑をかけられない!」
と再起できたと言う話しは,泣かせる話である。
2000本安打達成の日のインタビューも,涙ながらに
球団関係者や仲間達に感謝の言葉を述べていて,彼の苦労人振りが感動的であった。
それにしても
「そんなに大変なら,思い切って○○を止めたら!」
と助言できる奥方も凄い。そしてこれは一つの極意に違いない。
我々の仕事もスポーツ選手とは違った意味で,スランプもあり壁もある。
そしてそれを,克服できずあるいは乗り越える事ができずに,
埋もれてしまったり,諦めてしまったりしてしまう,仲間や後輩を多く見ている。
そんな時
「そんなに大変だったら,思い切って止めたら!」
と助言できる自信を持ちたいものだと,
石井選手の2000本安打達成の話題から考えている日曜日の朝である

ご常連様の中は、このブログで時々何年か前の今日という内容をご覧いただくことに気付かれていらっしゃるかともいようと思う。明日からはそのことについて披露してみたい。ご期待ください。
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2020年05月08日

思い出話77

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我が家の愛犬アリスの臆病なことは、何度か紹介している。
自身が犬のくせに、犬族にはとりわけ馴染まない。
散歩中犬に出会うと、それこそ尻尾を巻いて私の背後に隠れようとする。
そのアリスが最も苦手とする相手のお犬様に、マンション一階の知り合いの小型犬いる。その小型犬はアリスと正反対に結構気が強く、アリスに限らず他の犬を見かけようでものなら、猛然と駆け寄り、激しく吠えたてる。リードで引っ張っている、飼い主もとどめるのに必死の体である。アリスを散歩に連れ出す時刻には、大概ドアが閉まっているのだが、たまに半開きになっていることもあって、アリスにとっては受難であり、今夕はつらい散歩となった。アリスの逃げ出そうとするさまは、飼い主としては大いにつらい。そしてふっと私自身の、小学生自分の似たような体験を思い出した。
私の通っていた小学校は、川向こうの隣の町内にあった。今でこそその川には橋が架かっていて、10分程度で通える距離ながら、私の子供の頃は川を下って別の町内を通って行かねばならなかった。その町内の八百屋に同じ年恰好の子供がいて、私が八百屋の前を歩いていると、店の奥の方で仁王立ちして私を睨んでいることが多かった。私は彼の睨む目が怖くて、一人での下校時には
「今日は出会いませんように!」
なんぞと念じたものでる。
ただ後日談がある。
中学校に進級すると、同じ中学校に通うようになったのだが、たまたまその八百屋の子供と一緒の組になった。YT君というのが、曰く
「善さん達のが怖かった!」
ということで、双方同じように怯えていたのである。
60年以上も昔の思い出である。
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2020年04月24日

思い出話 76

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あの当時、50年前には阪大電気系の3年生学生には、夏休み時の「工場実習」が課せられていた。今風の言いようならインターンシップということになろうか。
この年の学生担当教授は、またまた例のN教授で、
「河内の善やんは、どこに工場実習行きたいんや?電電公社か、それとも通信機メーカーか?」
と、名指しで私に尋ねたのは、工場実習実施の説明会であった。
G君と私は若干悪乗りして、
「放送局がいいですね。放送は通信技術の寄せ集めでしょうから。どうせならNHKの北海道支局に行ったみたいなぁ。」
と返事をしたところ
「北海道支局は無理かもしれへんけど、交渉してみてみるわ。しかし放送に目をつけるのは、なかなかのもんや。」
と、予期していた以上の反応であった。私達は、当然却下されると考えながら、北海道支局なんぞと無茶ぶりしたと自覚していただけに、意外であった。
ただ一二週間後に呼び出され、
「善やん、北海道はやっぱり無理やった。NHKなら東京の技術研究所というのもあるけど、そこはK君が先に手ぇ上げたからなぁ。どや、この際朝日放送にするか。夏の甲子園大会もあるし、いい経験ができるでぇ!」
ということで一件落着。G君と私は夏休みの前半を、朝日放送に通って過ごすことになった。放送局の場合工場実習というより、インターンシップそのもので、早稲田大学からアナウンサーとしての就職の決まっていた、M君という一学年上の学生を加えた三人が実習生であった。ただ最初の数日間は三人ひとまとめであったが、甲子園の大会が迫ってくるとG君と私は、高校野球中継の準備に借り出された。半世紀も昔のことで、テレビカメラも大きくかつ重かった。そんな重いカメラをカメラマンが銀傘の上にまで肩に担いで上るというのを、地上にいてケーブルを手繰ったり送ったりして手伝った。今日なら無線で片手に入るほどの大きさで、なおかつ性能がはるかに上のカメラができていることを考えれば、炎天下でのあの時の苦労はなかなかのものであった。
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2020年04月23日

思い出話 75

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ゴールデンウィークが明けると、工学系の学科らしい通信工学実験が始まった。実験課題は八項あり木曜の午後の時間帯、実験はおおむね午後四時までかかった。中には短時間で終わるのもあっけれど・・・。そしてそのレポートは翌週の水曜日夕方までに提出と決められており、実験に参加してレポートを期限内に出せば、原則単位は取れるという風に聞かされていた。一斑は確か5人構成で合計八班があって、順番に課題を回るのだが、一つ前の班にU君という、めったに講義に顔を出さないというつわものがいた。実験の単位だけは、落とすわけにはいかないと知っている筈なのに、全く頓着しない風で、レポートは同じ班の友人と私達が「代筆」したというのが実際のところであった。私達の班が手伝ったのは、出席番号が近かったのと、前の週に私達のやった実験を、U君の班が一週遅れで実施するので、あれこれ実験結果を使いまわせたからであった。
U君に関しての後日談。60歳を前にした同期会に、U君が出席した時のことである。互いの名刺を交換したところ、某大メーカーの工場長という肩書で、
「おい、おいほんまか?冗談やろう!」
と、同級生の大半がいぶかしがったが、名刺に嘘のある筈もなく、本人が訥々と語ったところによれば、
「会社に就職して、アンテナの部署に配属されたので、真剣にアンテナや電波伝搬の勉強をした。大学四年間は本当に遊びまくっていたからだろう、自分でいうのもなんだが、乾いたスポンジが水を吸うように、知識が身に付いた気がする。東京タワーの放送用のアンテナは入社何年目かに、僕が設計した物なんやで!IEEEのMTT にも論文として掲載されたねんで。」
ということであった。これこそまさに君子豹変すである。
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2020年04月22日

思い出話 74

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私の二十歳の旅立ちは、日曜日の午後であった。
万年カレンダーで調べてみるに、多分4月11日日曜日だったことになる。というのも翌日が月曜日で、一時限目からの講義を、いまだに覚えているからである。
R 君は下宿の部屋を見て
「十畳もあるんか、広いのう。せやけど安普請やなぁ。隣の声が聞こえるやんけ!」
と、感心していた。
私達はそんな部屋に、整理ダンス、洋服ケース、やぐら炬燵それに布団を運び込み、そしてR君は
「今から帰ったら、暗うなる前に木積につかしょ!」
といって、私にねぎらいの言葉をかけさせる間もなく、そそくさと帰っていた。
私はそのそっけなさに、拍子抜けしたけれど、
「あれがR君の友情表現の仕方やもんなぁ。」
と、一人合点していた。
しばらく大の字になって畳の上に転がっていると、数日前に転居を終えていたG君がやってきた。
「善さん、今着いたんか?晩御飯6時からやけど、この下宿、学食と同じ経営者や。昼飯と晩飯おんなじ味やでぇ。昼の売れ残り晩飯に回してるちゅう噂もあるで。」
が第一声で、ある意味貴重な情報であった。その日の夕飯は、G君と一緒に下宿の食堂で摂ったけれど、日曜日の夕方だけにあまり人を見かけなかった。書き忘れていたけれど、この下宿、下宿人200人程度とべらぼうに大きい下宿で、一番の取り柄といえば、その大浴場であったろうか。
翌日の一限目、G君と私は大教室の「電気計測」の講義を受講に出かけた。電気系三学科の共通科目で、必修科目であったと記憶している。ただその講義担当は、電気工学科のN助教授で、学生から見てもまるでやる気のない講義で、すっかり興覚めであった。
「講義なんか受けても分からない。自分で勉強してほしい。単位だけとればいいから。」
というのが、開口一番。教科書もおざなりに熟すだけで、一回目の講義から興味を無くしてしまった。多分G 君の印象も同じだったのだろうと、理解している。
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2020年04月21日

思い出話 73

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二年生後期の定期試験が終わって、長い春休みを迎えた。半年以上続いた自宅待機による講義の遅れは、残りの一年半ですっかり取り返していた。そして大阪大学工学部は、とりあえず平常を取り戻していた。私はその長い春休み中、家業のプロパンガス販売を手伝いながら、4月になったら下宿生活をしようと、思案を巡らせていた。
大阪大学工学部は、吹田万国博覧会場の北に隣接していたのは何度か説明してきた。さらに工学部に隣接して、万国博覧会の訪問客を狙ったプレハブ建ての簡易宿舎があり、万博閉幕を期に、下宿屋に模様替えをしていると聞いていた。友人のG君も
「善さんの水間からよりは少しはましやけど、毎日通うんはかなりしんどいなぁ!」
といい、この下宿屋が大学にも歩いて行けることもあって、私達はそこに下宿しようと決めた。偶然なことながら岸高、予備校と一緒だったS君(そのころは韓国名のH君)がすでにその下宿の住民で、私は何やら縁を感じたけれど、その後は急激に疎遠になってしまった。
私はまずおばあさんに、下宿したいと考えていることを告げた。私の家の本家筋の母の従兄弟が、早稲田大学に進学したものの、結局卒業することなく終わったという不名誉な経験がトラウマとなっていて、おばあさんは即座には納得しなかった。
「そんな昭和初期の古い話を言われても。」
と私は説得を試みたが、結局いつもの「親族会議」が開かれることになった。
伯母(母の姉)、私がおじいさんと呼ぶ祖母の弟、私がおばあさんと呼ぶ祖母の妹、それにおばあさんの息子のJさんが集まっての話し合いである。結論は恥ずかしながら
「善一郎も二十歳になったんやし、本家のMちゃんみたいなことにはならんやろう。」
と、一応主張が認められることになった。ただおばあさんは
「毎週末には、帰ってくること!」
と、その点だけは譲らなかった。私もその条件には異論がなかった。というのも、原則G君から週末には自宅に帰るようにする、と聞かされていたからであった。
そして4月、布団などは友人のR君が軽四輪トラックで、吹田まで運んでくれた。
R君の横に乗った私の、20歳の旅立ちであった。
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2020年04月17日

思い出話 72

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三島由紀夫の事件は、ともかく私には衝撃だった。大学は工学部を選んだとはいえ、曲がりなりにも文学少年だったからであろう。実際岸和田高校の同級生達は、私が文科系に進学したと考えていたようで、40歳になった頃の同期会では
「へぇ、善さん科学者になっていたんだ!」
と、驚くものが多かった。
ともかく三島由紀夫の事件が、自分自身の大学生活を考えるきっかけとなったと、昨日も書いた。我々の学年の不幸は、大阪大学入学が決まった途端、7か月も野放し状態で、そんなことは言い訳にはならないけれど、多くの学生が「大学生としてのやる気」をなかなか持てなかった点にあるというのが私の実感である。私自身も同様であったが、三島さんの事件が、大仰にいうなら大学生活を考えさせるきっかけになったのである。そして多分あの頃から、
「これが大学の講義だ!」
と感激した、電磁気学に関係する研究室に入って、関連する研究をして、可能なら大学院にも行こうと、少しずつ真剣に考えるようになったと記憶している。
こんな具合に1970年が暮れて行った。
その頃には交通事故で重体となったJさんも、すっかり元気とはいかないまでも、日常生活には戻っていたことも関係して、12歳の頃から育てて貰った母の叔母の家から出て、可能なら自活していきたいと考えるようになったのである。さらに、親友のY君も元気になって、社会人として活躍し始めていたことに、刺激を受けたのも一因なのである。考えようによっては、私はちょうど20歳で、二十歳の旅立ちを迎える頃だったからであろう。
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2020年04月16日

思い出話 71

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大阪に戻ると、二年生後期の講義が待っていた。正確には工学部の専門の講義というべきだろう。先日も書いたように、私は仮進級ながら、皆と同じように工学部の学生となった。図学の単位未修得は私以外に何人かいたようだし、図学以外の科目をとれなかった級友もいたようだ。大学に入学して、ストライキの影響で半年以上も講義から解放された学年だけに、勉学意欲を立ち上げるのはそれぞれ一苦労だったのだろう。実際私達の学年には、仮面浪人で結局東京大学に進学した者と、身を持ち崩して大学を去ったものが何人もいたのであった。
工学部の講義は、電気通信電子三学科一緒に受講する科目が結構多かった。電気系科目以外の必修科目はさらに大人数で、階段教室での受講となった。統計や材料力学の講義が俗にいうマスプロ教育で、まったく興味が持てなかった。
一方解析学や電磁気学は
「さすが大学の講義!」
と思わせるものがあり、私は真剣に受講した。とりわけ電磁気学は、普通ならクーロンの法則から入って積み上げていくのだが、大阪大学の電気系では、いきなりMaxwell の方程式から入るという演繹的な講義方法で、私には画期的だなあと感心させられた。結局この強烈な印象が、私の将来を決することになったのだから、人生は面白い。とはいえ、これらの科目以外は、端的にいうなら、手を抜きがちな普通の大学生だったというべきだろう。
そんな時大変な事件が起こった。
1970年11月25日のことである。
その日は水曜日で、午後の講義は選択科目だった筈で、私は幼馴染の同級生とあっていた。そして帰宅しようと難波に向かったら、号外が配られていて、三島由紀夫が自衛隊市谷駐屯地を占拠したというのである。
「まさか、冗談やろ。」
と考えたけれど、占拠は現実で最後には、三島さんは割腹自殺してしまうのであった。
あの事件の私に与えた衝撃はなかなかのもので、以来大学生活も少しは真面目に考えるようになったといえば、言い過ぎだろうか。
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2020年04月15日

思い出話 70

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私達が、輪島のユースホステルにたどり着いた頃、辺りはすっかり暗くなっており夕食開始の直前であった。さすがに二日目だけに、私達には、便所掃除の罰則も課されなかった。晩御飯の後、例によって親父の観光案内があり、私達に猿山岬灯台訪問の印象を尋ね、外の客達に猿山岬灯台を熱心に進めていたけれど、その日の客は皆、旅行書にも詳しく載っている狼煙の灯台を目指すということだった。関東からの二人連れはさらにもう一泊して狼煙灯台に行くというものだから、その影響もあったのだろう。一方鹿児島出水市からの女性は、翌日は金沢に戻って北に向かうということであった。G 君を含めた私達三名は、翌朝朝市を楽しんでというよりひやかして、輪島から金沢に向かった。余談ながら、あの時お世話になった輪島線は21世紀初頭に廃線となっており、2007年か8年に車で能登半島を駆った際に輪島駅に立ち寄ったら、旧駅舎が道の駅になっていた。
金沢の駅で北に向かうという出水市の女性と別れ、G君と私は金沢市内の定番の金沢観光を楽しんだ。金沢でも二泊をと考えていたので、比較的ゆっくり見て回った中で、印象の強かったのは、忍術寺の異名を持つ妙立寺、石川近代文学館の二つで、とりわけ文学館の女性館長の話が面白かった。この北陸行きの目的の一つは、その当時私が愛読していた五木寛之の作品に「風に吹かれて」という随筆があり、その巻頭に犀川の堤防に肘をついて横になっている五木さんの写真があって、ミーハー的ながら、同じポーズで写真を撮ることであった。五木さんは石川県出身の作家ではないけれど、何年か住んでいたことがある筈で、文学館にもいくつかの作品が展示されていた。さらに直木賞を受賞されてまだ10年とは経っていなかったと記憶しているが、青春の門もようやく筑豊篇が出た頃だったのではなかろうか。少なくとも私は、これで大いに満足し、金沢で二泊したのち東尋坊を訪ねることはあきらめて、大阪に戻った。
そうそう、もう一つ書き忘れた。金沢旅行という私達に、同級生のU君が
「もっきり屋という喫茶店が、兼六園の近くにある。雰囲気が良いんで是非寄ってきたら。」
といわれていた。ただこれは結局探しきれず、50年も経っての最近気になってグーグル検索してみたら、これがなんとまあかつての近代文学館のあたりに現存するではないか。当時はインターネットの無い時代で、足を使ってのだったので探しきれなかったのだろう。
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2020年04月14日

思い出話 69

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私達5人は、灯台を目指してひたすら歩いた。
勝手気ままな話をしながらの道中で、その気ままな話が疲れを感じさせなかったのだろう。鹿児島からの女性は、大学卒業の記念の一人旅で、日本海沿いに北海道を目指しているということであった。関東からの男性二人連れは、最後まで学生なのか社会人なのかを明かさなかったが、多分学生だったのだろう。 
やがて私達は、目指す灯台に着いた。
林が途切れたと思ったら、いきなり目の前が日本海で、小さな灯台がちょこんと立っていた。
ただ灯台の立っているのは、海面から200m以上もある断崖の中程で、ユースホステルの親父の吹聴した
「東尋坊よりも、はるかに迫力がある。」
の宣伝文句をなるほどと感心させる迫力であった。当日は快晴で、私達は灯台のまわりで、ユースホステルで作ってもらった弁当を食べ、少しくつろいだ後、断崖を貼り付くように作られてある小道に沿って、降りてみようといことになった。関東の二人は登山靴をはいていたが、G君と私は革靴であった。作られてある小道を見る限り、降りていくに支障はないように思われた。女性はスニーカーであったが、降り始めてすぐ
「実は高所恐怖症で、ひざが笑って進めない。」
と弱音を吐いて立ちすくんでしまった。関東からの二人は委細構わずどんどん降りて行ってしまったので、私はなだめすかしながら、ゆっくりと降りることに決めた。私が
「ともかく下を見ないことやでぇ!」
と激励していたら、後について来るはずのG君が眼下に向かって何度もシャッターを切っている。
「何してんねん?」
と尋ねる私に
「波の跳ね上がりがすごいで。波の動きを表せる様に移せないかと思ったんや!」
と返ってきた。実際のぞいてみると、断崖の隘路に入ってくる波が、最後には大きく跳ね上がって、150m程度は離れているだろうに、迫力はなかなかのものであった。下を覗いている私に、鹿児島からの女性は
「お願いだから覗くの止めて、ともかく降りようよ!」
と訴えた。何分かかったろうか、最終的に私達は断崖を降りることができた。ただ帰りを考えると気が重かったのに、上を向いて進むだけだからだろうか、例の彼女の足取りは、ことのほか軽かった。
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