2022年03月23日

武勇伝

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幼馴染のY君が、大立ち回りを知らせてきよった。
関係している財団の監査役らしいんやけど、あんまし運営がええ加減やから、注文付けたら、逆に梯子外されそうになったらしい。せやけど外された梯子なんかを気にせんと、正論で通して梯子外した理事を退任に追い込むことができたちゅうんや。るもう現役外れて、欲得抜きのボランティアやよって、このクーデター成功したんやちゅうわけや。73歳の爺やけど、ほんまに意気盛んや。
Y君の大立ち回りから、思い出したことがある。
現役の教授の時やから20年近く昔の事や。
結構大きな競争的資金の、中間審査依頼された。
責任者は、その分野の権威ある教授で、もう名誉教授やったか私大の教授やったか覚えてへんけど、実働部隊はその権威者の三人のお弟子さんで、皆さん教授やったかな。ただ中間審査や言うのに、業績らしいものが上がって来てへん。論文が無いから悪いちゅうわけやないけど、中間審査会で
「研究結果が、まるで論文になってませんが、なぜですか?」
「こんな状態で、明確な答えが無いようでは、中間審査は合格させることはできません。」
ちゅうたら、座長がやな
「○○先生の企画ですし、一応中間審査合格ということで・・・。」
と言いよるんで、
「この審査は、合格させるための審査ですか。私は合格とは思いません。なぜ研究が進んでいないのか、その自己分析無しでは後半の研究またぞろ進まないのではありませんか!」
と譲れへんかったんや。
事務方困っとったけど、多数意見で結論出して、しゃんしゃんや。
ちなみに10憶以上の研究費配分されてたけど、研究期間終了後も際立った成果はなかったように記憶してる。
若い頃の、この天邪鬼爺の武勇伝や。
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2022年02月08日

追悼 郭昌明老師4

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つらつら考えるに、郭昌明教授の「大気電気学という科学分野」への貢献は、同世代の世界中の研究者と比べても、全く装飾が無いというよりも、むしろはるかに秀でていると、私は信じている。実際実際ご自分の国中御国はXiuShu Qie女史というリーダーを輩出されているし、我が国には王道洪教授を送ってくれ、今は日本の第一人者として活躍してくれている。寂しいことながら、大気電気学と分類される私達の研究分野は、若い人達にはあまり人気が無い。だからというべきだろう、例えばアメリカ合衆国で、例えばイギリスで、はたまた例えばフランスで、次代を担うリーダーが育っているかといえば、答えはNo に近い。そんな現状にあって、中国もそして我が国も少なくとも後十数年は安泰であるように思われる。そして彼らの次の世代も、Qie女史や王教授が確実に育てている。それに若い世代が取り組めば、「古いと考えられている大気電気学」にも新しい研究主題が見つかるものである。かかる意味で、私は郭さんには、研究者として次世代を育てるという一番大切なことを教えていただいたと、感謝している。
ただ残念なのは彼と最後に会ったのは、多分2009年の北京で開催された国際大気電気学会で、以来会う機会を持てなかったことである。お互いすっかり歳を重ねてしまった今、もう一度お会いして語り明かしたというのが本音である。
だから今は彼との日々を思い出しながら、静かにご冥福をお祈りしたい。合掌。href="http://blog.with2.net/link.php?226990" target="blanc">
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2022年02月07日

追悼 郭昌明老師3

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その後二年ほどして私は、郭さんの弟子の一人から手紙を受け取った。
その頃には私は大阪大学に籍を移しており、
「蘭州で、修士の学位を修めてあるので、是非大阪大学で博士の学位を取りたい。ついては大阪大学に留学したい。留学の費用は、中国科学院が出してくれる。」
といった内容であったと記憶している。それとは別に郭さんからは
「蘭州では制度上、博士の学位を出すことができない。ついては王道洪君を指導して欲しい。ただし彼は私達の後継者の一人だから、博士号を取ったら二三年日本にいるのはともかく、必ず中国に返して欲しい。」
といった内容の手紙を受け取っていた。そしてこの内容の議論は、国際会議などで出会う度に何度となく繰り返したものだが、世紀の変わる頃には郭さんの弟子の一人Xiusiu Qie女史が、指導者として成長したこともあってだろう、真剣には「返還要求」を受けることがなくなった。
郭さんとの思い出は結構沢山あるけれど、最も印象的なのは夜を徹しての議論となった
「ロシアの開放政策が適切か、中国の開放政策が適切か?」
に関してである。その議論は、郭さんとロシア系米国人のMazurさんに私を加えた三人で、ソ連の崩壊、中国の経済開放政策から数年は立っていたろうか。確か伊丹空港近くのホテルの一室で、Mazurさんは中国の経済開放が正しいと主張、郭さんはロシアの思想的な開放が正しいと主張され、私は聞き役であった。議論は盛り上がってはいたけれど、結論は出る筈もなく、夜の白み始めたのを合図に、それぞれの部屋に分かれた。そしてこれは私の憶測ながら、郭さんは文化大革命で苦労しただけに、思想的な開放を熱望されていたのだろう。
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2022年02月05日

追悼 郭昌明老師1

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10月のある日、秋の夜長を読書ならぬネットサーフィンで楽しんでいたら、40年来の友人、いや先輩の郭昌明氏の訃報が届いた。何年か前に体調を崩されたことを気いていたし、確か私より10歳は年上の筈だったから
「また一人、逝ってしまわれた。」
としみじみ、郭さんとの40年近くにわたる私の勝手な思い込みの、「友情」を思い返した。
そもそも郭さんとの最初の出会いは、私が名古屋大学の空電研究所に席を得て、
「さて研究者として何をやっていこうか?」
とあれこれ迷っていた頃、先輩の仲野さんが
「帰還雷撃の速度を、光学的に測る!」
と、提案をされた1980年代前半にまでさかのぼる。その時私は関連の雑誌であるJGRに、Changming Guo and Philip Krider による光学観測の論文を見つけて、真剣に読んだことを覚えている。だから「出会い」と言っても論文を通してで、そして何故か私は、このChangming Guo という研究者に憧れ
「ぜひ会ってみたい!」
と考えたものである。ちなみにこの時私は、郭さんを、私より若い研究者と信じていたうえ、あの当時の中国の事情私達は、はっきりとは知らなかった。
ところが、実際に会うことのできる機会が、思いのほか早くやって来た。1986年の夏だったと記憶しているが、中国科学院から二人か三人の研究者が、空電研究所にやってくるというのである。そしてそのうちの一人が、郭昌明だった。ただ恥ずかしながら、この時点で私は、郭昌明とChangming Guoが同一人物だとは、考えていなかった。
そしてあれこれ議論するうち、Kriderとの共著論文があるということが分かり、
「あなたが、あのChngming Guoなの。私はもっと若い研究者だと信じていたよ。ただお会いできて嬉しい。」
と素直に申し上げたら、はにかんでいられたのを思い出す。そしてこの出会いがきっかけとなり、私は1988年に中国を三か月弱訪問することになったのである。
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2022年01月17日

神戸震災の思い出5

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73歳誕生日、阪神の震災から27年
神戸地震の思い出話を続ける。
二月の声を聞いてから、電力会社のお偉方との会食があった。
あの頃、つまり1995年には、福井県三方郡の岳山でレーザーで落雷を引き起こすための野外実験をしており、その報告会を終えての懇親会だったと記憶している。共同で野外実験を実施している電力会社の研究所は尼崎市内にあり、懇親会はその界隈の料亭で催された。
ただ問題は会合場所への移動である。
私自身は当時助教授で、それでも工学部電気工学科の代表としての位置づけだったけれど、レーザー研究所の実働部隊には、常の事ながらお声がかかっていなかった。そして名誉教授の先生を筆頭に、二三名の教授がその会食に招待されていたので、タクシーでの移動となっていた。ただ尼崎界隈は、震災の被害は相当なもので、どの道を通っても大渋滞しており、わずかな距離ながら小一時間はかかったろう。ともかく阪神高速の湾岸線の倒れているのを目の当たりにして、私は改めて震災のすごさを感じていた。ただ気の毒だったのは、電力会社の研究所の若手スタッフで、懇親会を無事予定の時刻通り開催するために、神経を擦り減らしていらっしゃった。若手スタッフといっても、私より五、六歳若いだけで、大学なら中堅どころといった歳なのに、すざまじきものは宮仕えといったところであったろう。
余談ながらこの若手、京都大学出身の秀才Sさんで、今は鬼籍に入られており、
「レーザ誘雷がSさんの命を縮めたのでは?」
なんぞと、未だに考えさせられるときもあるほどである。
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2022年01月16日

神戸地震の思い出4

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インドネシアの滞在を終えて、帰国したのは1月27,8日頃だったろうか。
神戸の大地震発生から10日余り、インドネシアでは亡くなった方々の数の多さは認識していたけれど、被害のすごさは実感の外であった。関西空港に降り立った後、南海電車、地下鉄、京阪電車と乗り継いでの帰宅も、取り立てて遅れるということもなく、私の中では被害の大きさそしてその後の混乱は、全く埒外となるのであった。
次の朝、実はこの認識の甘さ、悪さを痛感させられる羽目になる。
あの当時、私は守口の自宅から吹田の大阪大学まで、中央環状線を経由しての自動車通勤であった。中央環状が渋滞で動かないときには、並行して走っている近畿道を摂津南から利用すれば、自宅を出て30分もあれば職場にできた。
だからそのつもりで、午前七時前に自宅を出た。
鳥飼大橋からは渋滞らしく動きが悪い。
「この調子だと、近畿道だな。」
と考えながら、それでもいつも以上に流れの悪い鳥飼大橋を渡り終え、摂津南の入り口から近畿道に上った。そして近畿道にもあふれんばかりの自動車があって、全く動いていないことを知ったのである。緊急車用のレーンも動く風はなく
「なんじゃこれは!」
を、頭の中で繰り返し混乱の現実を実感して行ったのであった。つまり、神戸の震災では幹線道路がずたずたになり、救済のための物資の運搬さえもままならぬ状態だったのを、大地震直後から10日間海外出張だったため、浦島太郎なみに認識できた居なかったといったところだったのだろう。その後この混乱は二月一杯は続いたろうか、私は翌日あたりから電車通勤に変えたと記憶している。
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2022年01月15日

神戸地震の思い出3

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関西空港を飛び立った、17日夕刻に時間を少し戻す。
500人以上の定員の筈が、搭乗者数は50名もいなかった。
搭乗券は持っていて席は決まってはいたが、キャビンアテンドの方から
「こんな状況ですから、好きな席にお座りください。」
と言われ、多くの乗客は窓際に座った。
シンガポール航空のジェット機は、関西空港の滑走路を真北に走り、離陸後は六甲に向かう。冬場の俗にいう六甲おろしが離陸を助けるのだそうだ。そしてゆっくり旋回を始めて南に進路を取り始めた頃、私は眼下に神戸の街のあちらこちらから煙の上がっているのを見た。まだ完全に陽の落ちていない夕暮れ時で、街のあちこちで火の手の上がっているのも見ることができた。この時の私の気持ち、その後何度か話した事もあるが、
「私の国が燃えている。神戸の街はどうなるんやろう。」
といった風で、46歳にして初めて本当の愛国心を意識できたというのが正直なところであったろう。
13時発が、17時過ぎ発まで遅れたので、乗り継ぎのシンガポールチャンギ空港についたのはもう真夜中、機内では
「お客様方の乗継便多くは、もう出発してあります。ですから今夜はシンガポールのホテルでお泊り頂いて、明日の便を用意させて頂きます。ご心配なく。」
と知らされていた。空港からはバスんで、都心のホテルまで運ばれたのだが、シンガポールの街の旧正月のお祝い準備の飾り付けがえらく印象暦であった。
記憶に間違いなければ、あのホテルはマンダリンオーチャッドであった筈である。
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2022年01月14日

神戸地震の思い出2

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27年経った今でも、午前5時46分のあの揺れは、記憶に新しい気がする。
守口市のマンションでの仮住まいだったが、階が高かったというより、最上階に近かったからでもあろう、良く揺れた。地震だと気づいてから、その揺れがえらく長く続き、ブランコに乗っているような感じで揺れだした時、なぜか
「地震でこのマンションが倒れるんやったら、ほとんどのマンションが倒れるやろう。せやからこのマンションは大丈夫や!」
と、変に冷めた自分が居たのを覚えている。
ちなみに神戸の震災の16年後の東北の震災の時、大阪大学の電気系棟の最上階にいたのだが、あの時も大いに揺れた。発生が午後三時前で多くの教員、学生が居たので、もし倒壊していたら大惨事になっていたろう。国の耐震基準を満たしていない建屋で、補給工事の決まっていたけれど、運良く倒れることがなかった。
話を神戸の震災に戻す。
NHKテレビ報道の第一声
「東海地方で、大地震があった模様です。」
だから、ついに来たかの印象をまず持った。
ところが十数分後に訂正があり
「阪神地方で大地震があった模様です。」
に引き続いて
「大きな被害は、報告されていません。」
と、の事であった。
当時大学生であった息子は誇らしげに
「アメリカとは、技術力が違うんや!」
とつぶやいていたが、その数年前の意サンフランシスコ地震で、ベイブリッジが落っこちて多くの犠牲を出したことを考えていたのだと、聞かされた。
言い訳にしかならないが、私が日本を発ってインドネシアに向かったのには、こういう背景があっての事、大惨事となっていたことはジャカルタ到着後に知ったのであった。
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2022年01月13日

神戸地震の思い出

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間もなく神戸大震災の日がやってくる。
1995年1月17日午前5時46分の発生だから、27年経過した。
風化させたくないけれど、世間の人達の記憶はどんどん薄れる。世の常とはいえ、大いに悲しい。かくいう私自身の記憶も、はなはだ頼りない。
何度か書いているように、あの日私は日本の国を離れて、インドネシアに出張した。歴史にもしやたらは意味の無いことながら、敢えて
「もし伊丹空港出発だったら。」
と考えれば、決して出かけていなかったろう。
運の良いことにと言おうか、当時住んでいたのが京阪沿線で、京阪電車はすぐに動き出したし、大阪市営地下鉄は止まってはいたが、南海電車は昼頃には復旧、だから関空には午後一時前には到着していた。そもそも午前七時過ぎに関西空港にかけた電話が繋がり
「搭乗メンバーが揃えば離陸します。多分数時間遅れとなりますから、ゆっくり来てください。」
との返事で意を決した次第。
それに午前七時頃のNHKニュースでは,地震の大きいことは何度も繰り返してはいたが、大惨事に至らないといった印象の内容を報じていた。そんなことは言い訳にはんらないが、ともかくその日に私は大阪を離れたのである。
だから半日遅れでジャカルタにつき、先発隊の愛工大Y さんから開口一番
「河崎さんよう来たなぁ。これんかと思っていたで!」
と言われたとき、本音で
「大袈裟やなぁ!」
と考えたものであったのである。
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2022年01月08日

黒部の太陽を観て

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BS「黒部の太陽」をやっていた。
私の大学に入る前の1968年の封切りで、浪人中にどこかの劇場に見に行った。
あの時は、それなりに感激した記憶がある。ただ今回観て
「なんやえらい浪花節やなぁ!」
といった印象で、
『観て損した!』
といった感が否めない。
まぁ感性は年齢とともに変わるので止むを得ないのだろう。
小説にしても、映画にしても、かかる意味で年を経てもう一度というのは、良いことに違いない。ちなみに20年程昔の人気番組、NHKのプロジェクトXでも、「黒四」は取り上げており、この方がはるかに良かった。
ただBSの番組表に「黒部の太陽」を認めてみて観る気になったのは、1970年大学二年の時、親友のG 君と北陸に遊んだおり彼の地を訪ねたことを思い出したから。あれは大学二年の前期試験を終えて二週間近くの休みがあり、ユースホステルを利用しての気ままな旅だったと記憶している。当然国鉄の周遊券を買い求めての貧乏旅行、おまけに全くの無計画行き当たりばったり出会った。黒部渓谷のトロッコ電車に乗ったのも、朝早く金沢につきすぎで、もう少し先まで行こうということになり、偶然宇奈月で降り立ったからである。ただ結果としてはこの偶然が、私達をトロッコ電車に誘うことになったのであった。
半世紀も昔の事である。
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