2020年04月13日

思い出話 68

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宇奈月温泉の安宿に一泊したG君と私は、翌朝金沢に戻った。
本来予定など立てていない気紛れ旅、
「このまま輪島に行こう!」
と、私達は能登半島の先端を目指した。
気紛れ旅とはいえ、訪れたい場所やユースホステルの所在地は確認してあった。輪島では珠洲の狼煙灯台と輪島の朝市が目当てで、宿泊は輪島市内のユースホステルということにした。本来ユースホステルは、前もっての予約が原則ながら、大概の場合空きベッドがあって、春休みや夏休みの繁忙期でない限り、まずは困ることがないというのが常識だった。
はたして輪島のユースホステルは、
「予約の無い客には、便所掃除を命じている。」
という条件付きで泊めて貰えた。
このユースホステルの親父は、それなりに愉快な方で、夕食時客を集めて観光ガイドをしてくれた。珠洲の狼煙灯台を訪ねるという客が多かったのに対し
「ここに三泊する気なら狼煙灯台を訪ねるのもいいだろうが、二泊しかできないのなら、猿山岬灯台を奨める。東尋坊なんぞよりはるかに迫力があるから!」
とえらい力の入れようあった。その迫力に押されたわけでもなかろうが、G君と私は即座に猿山岬探訪を選んだ。そして関東からの男性二人連れと、鹿児島県出水市の女性一人旅が私達と同行ということで、合計五名の道中となった。猿山岬は観光地でも何でもないいうなら陸の孤島みたいなところだからと、弁当を作ってくれた。
翌朝私達は乗り合いバスで、門前町総持寺まで行き、乗り換えて道下(とうげと読んだ筈)という村まで行って、あとは山道を歩くという行程であった。片道は10q以上は有ったろうが、若かったのだろうあまり疲れはしなかった。途中「深見」という村で、子供をおんぶしているおばぁさんに出会い、写真を一緒に移した。住所も名前も聞いていなかったため、「深見のおばぁさん」あてで送ったら、翌年年明けに丁寧な令状が来て
「母は、元気にしています。春は鯛の季節ですので、またお越しください。」
と書かれれあった。残念なことに、50年経った今でも、この約束は果たせていない。
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2020年04月12日

思い出話 67

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万国博覧会が9月中頃に、大盛況のうちに終了し、私達の2年の前期試験も終わって、昨日話したように図学未修得の仮進級ながら、私は工学部に進むことになった。私は夏休みの間中、貝塚市の市民プールでアルバイトをして過ごしたので、小遣いもいくらか溜めていた。それで、岸高、予備校と一緒で通信工学科まで一緒になったG君と、10月の初めに北陸方面に旅行することにした。旅行といっても、ユースホステルを泊まり歩くという貧乏旅行で、急行自由席まで利用できる、北陸周遊きっぷを利用した。往路は、今でいうJR大阪駅から、鈍行で北陸線を富山だったか新潟だったかに向かう鈍行の夜行列車を利用した。午後10時20分頃の発車で、電子工学科のI 君が見送りに来てくれた。大阪大学の工学部には、電気、通信、電子の各工学科があり、定員はそれぞれ40名で、三学科から20名ずつで一クラス60名を構成しており、I君は同じクラスだったのである。このI君とは何故か気が合って、行動を共にすることが多かったから、見送りに来てくれたのだろう。この列車は冬場にスキー客がよく利用するということであったが、さすがに10月初旬はほとんどが空席であった。G君と私は、二人でひとます4人分の席を利用し、仮眠しながらの北陸行となった。当初の計画では、金沢で降りてと考えていたのだが、金沢駅着は午前5時前でまだ真っ暗、二人で相談してもう少し先まで行くことにした。そして降り立ったのだ宇奈月でそのまま宇奈月温泉まで行って、黒部渓谷まで行った。ただ有名なトロッコ電車を利用しての黒四ダムには、費用が高すぎたかあるいは予約がなかったからか、行くことができなかった。記憶に間違いなければ欅平辺りまで行ったはずで、絶景はそれなりに楽しむことができた。紅葉はあと半月から一か月後との説明を受け、残念に思ったことは未だに記憶深い。
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2020年04月11日

思い出話 66

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1970年の万国博覧会は、大学生相応の興味を持っていた。とりわけその前の年のアポロの月面着陸には大いに感激したし、月の石を持って帰って万国博覧会の展示に供するという計画には、さすがアメリカ合衆国と感心した。さらにそれを実現したという国の力には、畏敬の念を抱かされた。実際アメリカ館は人気が高く、何時間も並ばねば入館できなかった。さらに入館できても月の石の展示は、じっと立ち止まって見ることなどできず、列の動きに流されて通り過ぎながら見るだけで、
「期待してたのに、なんや黒い石なんや!」
程度の印象しか残らなかった。
ちなみに最新の研究結果によれば、この月の石、どうも太古の地球にできた可能性が高く、巨大隕石の衝突で、地球からはぎとられて月ができたという学説も、あながち荒唐無稽ではないかもしれないとさえ考えさせられている。
この万国博覧会には、大学の同級生達と何度か出かけたし、中学の同級生とも何度か出かけた。そのころは健康を回復して仕事についていたY君とは、そんな機会が持てなかったのは、今にして思えば何やら不思議である。
一度大学の同級生達と夕方からの割引を利用して訪れたら、台風の接近とやらで、多くの展示館が早めに閉館し、がっかりしたことを、いまだによく覚えている。別のもう一つ、岸高の同級生のHさんがクボタ館のコンパニオンをやっており、G君と二人で訪ねて行っていくつかの展示館を、並ばずに見学させてもらったのも懐かしい思い出である。
「人気の高い展示館はずるっこできないけど、普通の込み具合の展示館は待たずに案内できるわよ。」
といわれて、何館かを見学、電電公社もその一つだった。電電公社は近未来の装置を紹介しており、テレビ電話もその一つであった。ただ今日のモバイルやインターネット全盛の状況から見れば、レーザーと光ファイバー実用化のあの当時の状況が、電電公社の第一線の研究者たちに、将来の展望を見誤らせていた(というと失礼ながら)というのが、本当のところだったのだろう。
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2020年04月10日

思い出話 65

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松下講堂の封鎖解除を受けて、大阪大学での講義が始まった。
石橋の教養部は依然封鎖されており、吹田に移転した直後の工学部跡、京橋旧工学部学舎を利用しての開講であった。ただし各日の開講で、今と違って土曜日がまだ休みがなかった時代だから、火木土曜日の投稿にも違和感はなかった。多くの講義はあまり興味が持てなかったけれど、数学解析は私には興味深かった。線形代数学の講義は、理解し難さではなかなかのもので、こちらは授業には出ずもっぱら自学自習を決め込んだ。一番面白くなかったのは図学で、工学部の学生には必修科目であったけれど、どうしても真剣にはなれなかった。今となっては時効だから正直に話すが、S君というやけにまじめで秀才に見える級友がいて、三月末の試験の際には隣に座って教えて貰おうと考えた。ところが図学の試験が始まってすぐ、このS君もまるで分っていなかったということが判明、周りに座った4名含め5名が欠点となってしまった。必修科目の追試はなく、一年後の定期試験の受験をする以外方法はなく、したがって教養から工学部への進級は、仮進級という汚名を着ることが確定した。余談ながら翌年は何とか合格し、三年生からは正式な進級となったのだが、実際は仮進級による不利は何もなかった。その後カリキュラムでは、いつの間にか図学は無くなった筈で、本来的には幾何学の重要さを教える筈の科目だったろうにと、教え方の工夫次第と、これは勝手に思い込んでいる。
11月に開講し、春休み返上で一年の講義が終わること、石橋の教養講義棟も封鎖解除され、1970年の4月からは、石橋学舎での講義が始まった。その前の月の3月には、工学部吹田学舎の南側で万国博覧会が始まっていた
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2020年04月09日

思い出話 64

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機動隊に何名か引き抜かれているうちに、我々のスクラムは全く体をなさず総崩れ状態になった。だから仲間の多くは、外に向かって逃げ出した。機動隊はそういう逃げ出す学生には目もくれず、少しずつにじり寄ってくる感じだった。私は何を考えたのか、逆に松下講堂に向かって走った。中は薄暗く乱闘状態は小休止といったところであった。それでも不意に角棒で殴ってこられ、私は思わずそれを取り上げたら、その相手は背中を向けて逃げて行った。私はその角棒をもって奥に向かって進んだ。ほどなく大講堂らしき場所に到着し、何人かの教官の方がいて
「ご苦労さん、封鎖解除できた。君は新入生らしいけど、ここが松下講堂や。間もなく機動隊が入ってきて、ここを守ってくれる。うちの大学は封鎖解除を、教員と学生だけでやったんや。東大とは違う。」
と誇らしげにおっしゃった。その年の一月の安田講堂事件と、比べていたのだろう。しばらくするとその教官の言った通り、機動隊が整然と列をなしてやってきた。そのころには何人かの教官が集まってきており、何やら筋書きのあるドラマを見ているような気がして、いささか阿呆らしくなった。封鎖解除の茶番劇がなんとも白々しく思えた。私は本来なら入学式が行われたであろう松下講堂の壇上にもう一度目をやり、その場を後にした。あとで知ったのだが、封鎖解除派は若手教官と体育会系の学生ということであった。
家に帰るとNHKのニュースで、大阪大学・松下講堂の封鎖解除のニュースが流れていた。ただ石橋の教養部の封鎖は依然として続けられているとも報じられていた。
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2020年04月08日

思い出話 63

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花まつり(俗にいうお釈迦様の誕生日)故郷の村では、会式(えしき)と呼ばれていたお寺の行事があった。護摩を焚いてあれこれ祈願する、今年なら「コロナ撲滅」といったところであろうか。緊急事態宣言の出た今年は、中止になっているのだろうか?

1969年10月の下旬だったろうか。私は中之島の、大阪大学本部界隈に出かけて行った。噂では、闘争派に占拠されている松下講堂の封鎖を解除するというのである。現場に到着すると、機動隊のバスが何台も停車されていて、機動隊が列をなしていた。その前には封鎖解除を目論む教官や学生が、松下講堂の前にはバリケードの前に、封鎖を継続しようとする闘争派が並んでいて、対峙していた。私は心情的には闘争派を応援したいと考えてはいたが、半年以上に及ぶ自宅待機にはうんざりしていたことも事実で、立場を決めかねていた。その時背後から
「河崎、久しぶりやのう。封鎖解除の応援か?」
と声を掛けられ、振り向くと岸和田高校の最初の三年生の同級生が、学生服姿で立っていた。ちなみにその彼の名前を知らなかったけれど、ともかく見覚えのある顔であった。彼は
「機動隊に腕掴かまれても反抗したらあかん。すぐには機動隊は入らへんけど、入ってきたら気ぃつけろ。彼等には、学生が解除派でもスト派でも一緒やから、反抗したら逮捕されるかもしれへんよって、腕掴まれたら黙って言うこと聞くんやで!」
といって、どこかに消えていった。
そのうち自然と、機動隊と学生の間に人だかりのスクラムができて、機動隊、中立学生、解除派、封鎖継続派の四重構造が出来上がった。中立の学生は、ともかく機動隊の介入だけは御免という態度で、卑怯なようだが、それでも阪大の学生を守るべく、松下講堂を背にして、機動隊に対峙した。そして何時ごろだったのだろうか、ワーッと歓声が上がり、解除派の学生・教官が松下講堂に突入したことが予想された。歓声を合図とするように、機動隊の列がじりじりと私達のスクラムに迫っては来たが、即座に私達を突破するという風ではなかったが、それでも一人、二人と腕を掴まれ囲みの外に引き抜かれていった。
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2020年04月07日

思い出話 62

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大阪大学に入学したものの、講義の開講は目途が立たず、手持無沙汰な毎日を過ごしていたのは、正直なところであった。それでも親代わりに育ててくれた母の従弟のJさんの交通事故で、プロパンガスの配達はある意味責任を取る形となったのは言うまでもない。ただこの配達はある意味もぐりでやっていたので、これを機会に正式に免許をとろうと考えた。丙種化学という免許で、二日ばかり講習を受けたのち試験を受けるというもので、大学受験の化学試験に比べれば、随分簡単であった。以来大威張りで配達・販売ができる資格を、得たことになった。さらに高校二年の時軽四輪車の免許を取っていたので、数回普通車運転の講習を受け、、これも比較的簡単に普通免許に書き換えることができた。技術試験所のアルバイト料が入ったので、英会話の学校には通い始めてみたが、これは期待外れで、三か月の受講の後やめてしまった。ただ英会話の学校で仲良くなった女性と一度だけデートした。茨木に住んでいるという女性で、確か和歌山県の有田の出身で、一人で住んでいるという話だった。
吹田キャンパスに行こうと、梅田駅で地下鉄から降りたら偶然出会い、
「夕方会おうよ。」
と誘われたのである。とはいえ朝とその夕方の二度会ったきりで、以後全く疎遠になってしまった。確かその女性は大学を出て努めているということだったので、少なくとも私よりは二三歳は年上だった筈である。
そうこうするうちに、中之島の封鎖を解除するために協力するよう有志からの連絡が入った。そして闘争派からは、これまた何としても封鎖を継続するから応援を頼むという連絡が入った。確か10月の半ばではなかったろうか。
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2020年04月06日

思い出話 61

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意気揚々で始まった自主講座は、一月もしないうちに立ち消えになってしまった。それでもすっかり気の合うようになった数人は、週に一二度はN教授のところに集まるようになっていた。集まったところで、何かすることがあるわけではなかったけれど、ともかく集まっていたのである。そして六月のある日N教授は
「アルバイト代わりに、君ら阿波座にある技術試験所に行ってみるか?コンデンサーの性能試験に、学生アルバイトがいるらしい。はんだ付けくらい皆出来るやろ?」
と、希望者を募った。そして希望した4名は次の日からおおよそ二か月半ほど試験所に通うことになった。作業は極めて単純で、抵抗、コンデンサを千個以上も並べてはんだ付けし、電圧をかけて恒温箱に入れ、摂氏200度程度だったろうか、の高温の中で数日間放置し、取り出して一つ一つ劣化具合を調べ、またはんだ付けして恒温箱に入れて数日間放置という繰り返しである。ちなみにこの期間中に、アポロの月面着陸があって、休憩時間にはその話で大いに盛り上がったものである。なおこの時の仲間とは、大学を卒業するまで行動を共にすることが多かった。
話は変わるが、N 教授は何故か私のことを、いつの頃からか
「河内の善やん!」
と呼ぶようになった。だから私は何度も
「河内ちゃいます。泉州です。」
と、訂正したのだが一二か月もすれば、またまた河内の善やんになってしまうのであった。そのN教授も数年前には鬼籍に入られ、今となっては懐かしい思い出である。
このN教授とはもう一つ思い出がある。
それはいよいよ卒業が迫った来た、4年生の時のことである。学園闘争の最後の波で、私達の学年は、4年生の後期の学年末試験で、何十単位も取らなくてはならない事態を招いていた。とりわけタカ派だった電子工学科のO教授は、私達にはことのほか厳しく、私は前期の試験問題を完答した筈なのに、不可をつけられた。O教授のその科目の単位がなくても、私は卒業できるだけの単位が揃いそうだったけれど、N教授は
「善やんO先生のところに行こう!」
と私を連れて行ってくれて、
「O先生、この男左翼違います。河内の善やんいうて、通信校学科のまとめ役ですねん。O先生、こいつストライキの時取りまとめ役しとっただけですんで。」
と、紹介とも言い訳ともつかない説明をしてくださった。
そのおかげなのだろう、追試となった後期試験の成績は見事に優であったのである。
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2020年04月01日

April Fool

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今日は、April fool である。
だからといって、今日の内容が「嘘」という分けでは決してない。
まぁどこぞの国の総理大臣の答弁は、嘘も結構多いちゅう話やけど、今日の話はわいの愛犬アリスの話しや。
三日ほど前の明け方のこっちゃ。
何やら苦しそうにして、ベッドから飛び降りて、えずきよるねん。
早い話、げろしそうな感じやねん。
ゲホ、ゲホちゅうて、ほんまにしんどそうやった。
ほんでもどすかなぁと心配しとったら、ほとんど出かけとんのに、そのまま飲み込んでしまいよった。ほんでともかく収まったんで、
「まぁええか。それにしてもなんやねん?」
とちょっとだけ気懸りが残ったんや。
ほんで次の日の明け方や。またまたベッドから飛び降りよって、ゲホ、ゲホやり始めたんや。わいも二日目だけに、今度は気合入れて、ゲホ、ゲホに合わせて背中こすっちゃった。犬も人間と同じでえんかどうかは知らんけど、背中から口に向かってなでたったんや。
ほんならとうとう吐きよって、また飲み込もうとしよるけどそれは止めたんや。
よう見たらえろう細長うて、10センチほどあったかな。
それを取り上げてみたけど、どう見ても植物や。
「アリス何喰うたんや?」
ちゅうて尋ねても答えるわけない。
本犬はげろしてすっきりしたんか、ケロッとして盛んに尻尾振っとる。ほんでベッドに飛び乗ってそのまま寝よった。まぁこれで一安心やけど、わいはげろしたんが何か知りとうてじっと見て見た。どう見ても植物やでこれは・・。
「アリス、犬族はこんな職太消化できへんねから、もう食うたらあかんで。」
と声をかけておいた。
それにしてもネギかなぁちゅうて考えとったら、かみさんが
「それ蘭の葉っぱちゃいますか?」
といいよったけど、それにしては太いやないか。
ほんであれこれ考えた末の結論は、
「多分、バナナの皮や!」
ちゅうこっちゃ。しかしげろしてよかったで。下手したら腸閉塞もんや!
ほんで昨日、会社で犬のことよう知ってる同僚に尋ねてみたんや。そしたらなんと
「善さん、うちの大型犬はソックスの見込みよって、その晩げろしよった。獣医に聞いたら、戻さなかったら開腹手術ということやった。」
と教えてくれた。何を飲み込むかはともかく、ようある話らしいんや。
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2020年03月26日

思い出話 59

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私とおばぁさんは、病室で不安な夜を過ごした。
本来ならJさんの妻のEさんも付き添うべきだろうが、小学3年生と幼稚園年長の子供がいてということで、事態が変わったら知らせるという約束で、夜中すぎに帰って行ったのであった。
ともかく長い夜であった。
主治医は一時間おきに様子を覗きにきて、明け方の検診時に
「かなりの出血ですし、外に出たということは、多分脳内には出血がないと考えれますので、一命はとりとめられるでしょう。」
と、つぶやくように教えてくれた。
それを聞いたおばぁさんは
「善一郎、ご苦労さんやったなしばらく横になり。」
と私に仮眠を奨めた。
仮眠だけに眠りも浅く、午前七時前に目が覚めた。
ただこの騒動で、私はすっかり和歌山県立医大への入学手続きのことを忘れてしまった。
私に医学部行きを願っていたおじいさんですら、すっかりだったのである。
そしてそのことを思い出したのは、午後3時も過ぎた頃だったろうか。確かにこれは自分の不注意といえば不注意だったのだろうが、一大事が影響していたことも言うまでもない。だから結果としては、私は医学部行きをあきらめざるを得なかった。
「まぁこれで迷うこともなくなった!」
と、私は自身に言い聞かせた。

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