2020年06月29日

思い出話 93

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卒業研究のために配属された、研究室での思い出をつづっている。
大学四年生、1972年の秋から1973年春先までのことをあれこれと思い出している。
工学部電気系の研究室なのに、博士課程の先輩7人の内、5人までが相対論的な電磁界理論に関わっているという、大いにユニークな研究室であった。かくいう私もそんな先輩達にあこがれ、いっぱしの理論研究志向だったから、今から考えるとお恥ずかしい限りである。ただあの頃は純粋だったうえ、怖いもの知らずであった。
ファインマンの力学を読んでいた日、
「あれ、重力だって伝搬するんだろうか?」
と不思議に思い、声を出して質問、というより自問に近い形で口走ったら
「善さん、それが重力波なんや!」
と、何人から異口同音に答えが返ってきて、
「東北大学の、千葉先生がウエーバーの追実験やってるんやで!」
と教えてくれた。
一年後の秋、電気学会の電磁界理論研究会でその千葉先生にお会いする機会があったけれど、東北弁訛りがきつくどちらか言うとおとなしい御仁で、なんだかうだつの上がらない先生だなぁというのが第一印象であった。
話は変わるが、相対論的電磁回路論に関しての研究は、私が大学院に入学する頃から下火になり、直接指導してくれていたTKさんからも
「善さん、博士課程まで進学する気やったら、長くできるテーマ考えた方がええで!」
と助言された。
電磁界理論の枠組みの中、何をやればという模索が修士課程に進学して始まった。
TKさんからは
「善さん計算力あるし、四年の卒研の経験が生かせるんがええやろ。相対論ちゅうても、境界値問題解いただけやしなぁ。弾性表面はなんかどうかなぁ?」
とも助言を受けた。
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2020年06月28日

思い出話 92

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昨日も書いたように、卒業研究の主題は
「相対論的な速度で移動する飛翔体からの電磁放射」
で、指導者のTKさんからの説明によると、
「ロケットの大気圏再突入の際、ロケットが大気との摩擦で高温となって、プラズマ状の膜ができる。プラズマは異方性だから、このような状況下で外部、例えば地球との交信が困難となる。そういった具体的な問題の解決につながるんだ。」
で、数値計算で求めたのは直線状のアンテナからの放射パターンであった。低速の場合原理的には等方的な放射パターンなのだが、高速(相対論的速度)になるほど、放射パターンにヌル点が表れるので、その方向には電波が放射されない、早い話その方向とは通信できない、といった現象になるという結果であった。
「ほらな。数値的に放射パターン出してやらな、式だけではなんも分からへんやろ。求めた式の具体的な数値を計算するだけやよって、皆のやってる数値解析とは根本的に違うんや。」
と教えられ、そんなものかと納得した。ただ光速の0.9倍とか0.8倍とかいった速度で大気圏に再突入するようなロケットは、現実には存在せずこの研究は、その後続けることはなかった。
余談ながら1960年代から1970年代にかけて、相対論的電磁理論の研究が私達の研究室で盛んになったのは、メリーランド大学のウエーバーによる重力波検出の論文が、ある意味端緒になったのだろうと理解している。ただウエーバーの「共振型重力波検出」の結果には、批判的な研究者が多く、その後干渉型の装置が考案・建設され、2010年代の大発見につながったのは、我々の記憶に新しい。
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2020年06月27日

思い出話 91

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11月のその日以来、二週間おき程度に札幌に電話をかける習慣が、身に付いてしまった。
電話したからといって、取り立てて深刻な話をするという分けではなく、二週間の出来事などを4〜5分伝えあうだけのものであったが、私にはそれだけで十分であった。不思議なことに、他人の奥さんに定期的に電話をしているという罪悪感は、全く起こら無かった。高校三年生以来のプラトニックな恋愛なのだから、罪悪感の無いのも当然といえば当然かも知れなかった。それに受話器の向こうでは、その人は昔の儘のその人であり、屈託がなかったことも、二週間おきの電話の一因であったのかもしれない。いずれにしても、以来長く続くことになろうとはその時は、少なくとも私は思わなかった。
プラトニックな恋愛の話は、さておき卒業研究に話題を戻す。
同級生達が大型計算機センターに日参しているのに、私は研究室でほとんど過ごした。数値計算とは無縁だと信じていた。なんといっても「相対論的な速度で移動する飛翔体からの電磁放射」の解析解を求めているのだから、数値計算とは無縁だと信じていた。いっぱしの理論解析が、私の卒業研究だと理解していたのである。年が明け一月の末頃だったろうか、指導してくれていたTKさんが
「善さんよう頑張ったなぁ。一応期待していた解析は、ほぼ終わったで。」
と仰ったので、それならいよいよ卒業論文を書くのかと期待していたら、
「明日から、求めた解析結果の数値計算や。計算センターに行ってもらう。」
というではないか、
「FORTRANは取り敢えず知ってますが、今からプログラムして数値計算なんてできませんよ。」
という私に、
「皆がやってるような、数値解析とちゃうねん。君の導出した解析解の、具体的な数値を計算するねん。」
と説得され、助手のMNさんからは、森口繁一のFORTRANの本を手渡され
「河崎君、一週間でできるよ!」
と励まされ、私は本音で
「話がちゃうやん!」
と考えたりもしたが、実際やってみると一週間足らずで数値計算ができてしまった。
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2020年06月26日

思い出話 90

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「ともかく大学院入学試験は、合格しました。」
その人の一方的な問いかけが一息ついたとき、私はようやく入学試験結果の報告ができた。
「だから、少なくともあと二年は学生です。」
と続け、逆に札幌の生活はどうかと尋ねた。
「今年の二月にオリンピックあったでしょ。だから札幌には地下鉄もあるし、都会だから大阪と感覚的には変わらないかなぁ。11月になってからは結構寒い日も多いけど。」
と答えてから、4〜5年は札幌暮らしになりそうだと教えてくれた。
「そんなことより、いつまで学生を続けるつもりなの。またまた親類の方に迷惑をかけるの?」
と現実的な話題になった。私は、大学三年生の春から独り立ちの意味もあって、下宿生活を始めたと答え、大学院に進学したらすべて自分で賄うように親類縁者からは告げられていることを伝えた。
「そんなこと、当たり前なんじゃない!」
と手厳しいコメントが即座に返ってきて、それでも最後には
「毎日とは言わないから、そうね一週間に一度くらいは電話欲しいなぁ!」
の、期待を持たせる一言で電話を終えた。
私は、電話での会話の余韻を感じながら、席に着いて日々読んでいる教科書を開いた。不思議なことに、これが意外と集中できて、気が付くと助手のMNさんや先輩のSTさんが来られていて
「善さん、えろう真剣に本読んでたなぁ。声かけても返事がないので、居眠りしているのかなぁと思ったけど、時折ページめくってたしなぁ。」
と、妙な感心をされてしまった。
午後には、前日まで七転八倒していた難解な計算式も、すらすらと理解でき、卒業研究指導のTKさんから
「思いのほか早く理解できたねぇ。一山越した感じかな。でもまだまだ山あり谷ありだから。」
と、ある意味お褒めの言葉を頂いた。
こんな風に、その日は私にとって濃い一日となった。
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2020年06月25日

思い出話 89

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卒業研究が佳境に入る頃には、私の生活パターンは子供の頃以来の、午後10時までには就寝して、午前4時頃起床という形に戻っていた。NHK第二放送の英会話も漏らさず聞くようになっていた。確かこの年から英会話の講師は、松本亨から東後勝明に代わっていて、最初は違和感を感じたものの、いつの間にか聴き慣れてしまっていた。ラジオの英会話のことはともかく、下宿ではほとんど一番最初に朝食を済ませ、8時過ぎには研究室の席に付くようになっていた。昨日も書いたように、午前中は英語の教科書をよみ、午後には卒業研究の課題に取り組むという形である。午前中のこの習慣は、直接指導してくれている博士課程のTKさんや、一年先輩のMKさんがそうしているのを知り
「独創的な研究には、基礎的な知識が大切なんだ!」
と教えられた気がしたからである。
そんな11月のある日、私は思い切ってその人に電話しようと考えた。
下宿の机の上に置き去りにしてあった葉書を取り上げ、研究室に向かった。
不文律では、大阪市内06内は電話をかけても良いことになってはいたが、他の地域には原則教官以外かけてはいけないことになっていた。ただ早朝で、研究室には私以外は誰もいなかったので、少しくらいなら良いだろうと、自分自身を納得させたのである。そう思案すると、今まで抑えていた自分の気持ちを抑えきれず、研究室に入ってまず受話器を取り上げた。ダイヤル式の黒電話の最後の数字が回りきると、しばらくして呼び出し音が聞こえ、そして
「はい、MKです。」
と懐かしい声が、耳に届いた。私の、善一郎ですという呼びかけに
「あら、もう電話貰えないかとあきらめていたわ。もう三か月になるから。」
と、返ってきて
「今どこなの。多分大阪よねぇ?」
と、その人は一方的に続けた。
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2020年06月24日

思い出話 88

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三日前の夏至の日、日本では日食があったそうだ。
日食といえば、1958年4月19日小学校の校庭で、日食の観測をしたっけ。
当時私は、小学四年生だった。私の記憶に残る最初の日食である。


卒業研究が本格化して、研究室にいる時間がさらに長くなった。
ただGM 君は、大学院入学試験が終わると
「善さん、僕10月からは泉佐野から通うんで、下宿引き払うわ。」
と、あっさり下宿生活を止めしまい、私達は午後9時頃に研究室を後にすることが多くなった。
泉佐野まで帰るには、それより遅く研究室を出ると、南海電車の最終の急行に間に合わなくなるからである。そして私は彼と別れて、下宿の部屋に戻るのであった。
余談ながら一二か月前に紹介した、二年前に北陸旅行で知り合った関東の女の子が、大阪を訪ねてきたのがこの頃だった。
私は、その人からの葉書を気にしながらも、さらに一か月以上が過ぎた。
11月の声を聞く頃には、GM君は大型計算センターに入りびたりとなった。GM君を直接指導していた博士課程学生の、今は鬼籍に入られてしまったOMさんが、変分法という数値計算で、光ファイバーの伝送特性を解析するという研究をしており、GM君は数値計算の実施を指示されていたのである。あの頃は大型計算機万能の時代で、同じ研究室に属する4年生8名の内、6名が大型計算機センター通いをしていたと記憶している。
私はといえば、午前中には電磁理論の英語の教科書を読み、午後は指示された計算式の理解に七転八倒していた。
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2020年06月23日

思い出話 87

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北海道から届いたその人からの葉書は、長い間下宿の机の上に置かれていた。
私達の学年は、4年生だというのに、ほとんど全員3年後期の定期試験を受けていなかったので、9月になって前期試験が始まると真剣にならざるを得なかったのですある。翌年の3月までに、卒業に必要な単位をそろえないと、大学院への進学も夢と消えてしまうことが、みんなが理解していたというのが、本当のところだったのだろう。3年生学年末の学生ストライキの代償は、やはり大きかったのかもしれない。
10月に入ると、博士課程のTKさんが
「河崎君、ぼちぼち卒業研究始めよう!」
と私に声をかけ、
「電気系図書室で、紹介しとかなあかん雑誌教えるから。」
と、私を図書室に連れて行った。そして何冊かの学術雑誌を指定して
「一か月に、最低二度はここにきて論文探すんやで!」
と指示をしてくれた。
「以前、自分のやってる研究とほとんど同じで、内容がさらに進んでる論文見つけたことがあるんや。論文は新規性が勝負やから、そうなると半年、一年の苦労が水の泡なんやで。」
と教えてくれた。
今日なら、ネット検索で十分できることながら、あの頃はそんな風にして世界中の競争相手に、注意をしておかねばならない時代だったのである。
ちなみに私は、自分の後輩たちに、久しく同じように教え続けたものである。
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2020年06月22日

思い出話 86

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すっかり忘れていたが、昨日は夏至だったんだ!
まぁそんな経緯もあって、私は大学院に入学することになった。
少なくともあと二年は、修士課程に通うのである。
その週末、おおよそ一月ぶりで貝塚に戻り、母の叔父、母の叔母、それに母の姉(私にとっては伯母)に、大学院に進学することを報告した。
私がおじいさんと呼んでいた母の叔父は、それこそ手放しで喜んだ。
私がおばあさんと呼んでいた母の叔母は、何も言わず黙って聞いていた。
私の伯母は、
「善一郎、大学卒業するまではお母さんの残したお金に、私があれこれやりくりして援助できたけど、来年4月からは自分で何とかせなあかんで。大学院で勉強するなんちゅうなことは、この村には例のないこっちゃからなぁ!」
と、言ってから
「それでも嬉しいこっちゃ。壽和子もきっとよろこんでるで。」
と、10年前に他界した母の名前まで出して、涙ぐんでいた。
いろいろな節目節目には、親類縁者の集まっての話し合いがありこの時も同じであった。私にしてみれば、一年半前に下宿を決めた折、私なりの旅立ちを覚悟していたので、ある意味すでに納得してことであった。ただおばあさんは
「大学の卒業までは、毎週末貝塚に戻りや!」
とだけ言って、家族会議は終わった。
よく月曜日私は、下宿に戻って行った。
「この下宿もあと半年か?この後どこで済むんかなぁ?」
と考えていたら、北海道にと言っていたその人からの葉書が届いていた。
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2020年06月21日

思い出話 85

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次の週の入学試験は、散々であった。
筆記試験に引き続く面接の際には、指導教授から
「河崎君、首を洗って待っておくように!」
とまで、釘を刺された。
だから、十中八九は不合格だろうと、観念していた。
不合格なら、就職以外には道はあるまいと考えたものの、九月の声を聞くようになっての就職先に、果たしてどんな可能性があるのだろうと、否定的な思案が巡るばかりであった。
落ち込んでいる私に、同じ研究室のM助教授が
「首を洗って待てという先生の言葉は、深い意味を持っているんじゃないかなぁ!」
と、暗に合格していることをほのめかすような助言をくれた。
私にしてみれば半信半疑ながら、かすかな希望に夢を託して合否発表までは、就職のことは棚上げにしておこうと、自分に言い聞かせた。
それから二日後の合否発表の日、私は教授室に呼ばれた。指導教授は
「M助教授がほのめかせたと思うが、君は合格だ。それも最下位での合格だが、順位は気にしなくて良い。だから今後良い研究をして成果を出すように。」
と、訓示された。
その後管理棟まで、合否発表の掲示を見に行くと、私の受験番号は確かにあったのである。
そして私の所属している研究室の受験生4名は、全員合格していた。隣の研究室のKS君、彼とは何故か馬が合って仲良しだったのだが、残念ながら不合格だった。それも次点だったということで、以来すっかり疎遠になってしまった。彼にしてみれば、
「なんで、河崎まで?」
といった、逆恨みに近い気持ちが宿ったのかもしれない。
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2020年06月20日

思い出話 84

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「昔の恋人なんて・・・。」
と口ごもる私に、
「善一郎君の気持ちはともかく、私は純粋に好意を持っていたのよ。」
と言ってから、
「でももう終わっちゃったの。昔の思い出、昔の恋人なのよ。」
と、言いながら私の目を見つめた。
「で来週には、善一郎君は大学院の入学試験ね、私は北海道への引っ越し!ともかく今度は浪人しないでね。合格通知札幌で待ってるから。」
と言って、立ち上がった。
そして信一郎君を立たせて
「おじさん、いやお兄さんかな、にさようならを言って!」
と言い聞かせながら、私には
「ついて来ちゃだめよ。」
と、ぴしゃりと告げた。
私達は喫茶店の入り口で別れ、茫然と見送る私をその人は、振り返ることもなく去って行った。
時計を見るとまだ11時で、私は大学の研究室に向かった。
いつの間にかカンカン照りとなっていて、キャンパスに着く頃には汗びっしょりだった。
研究室には、助手のMNさんだけが居られて
「河崎君、今日は遅かったねぇ。」
と、朝の挨拶をする私に顔もあげずに答えた。
「あれお盆明けの今日あたりから、ぼちぼちYK君が来るんちゃうんですか?」
と、私が尋ねるのに対して、ようやく顔を上げ
「お盆前から、全然連絡がないんだよ。」
と、不満そうに独り言ちた。
「GM君に電話しますので。」
とことわってから、受話器を取り上げ、研究室にきているので、昼ご飯は誘って欲しいと告げた。
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