2020年02月15日

思い出話 24

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
日が代っての午前一時前、私は家に帰った。
田舎だけに、戸締りなんぞはしておらず、座敷の戸も開け放しておいたので、横になっても十分涼しかった。蚊取り線香の煙がゆらゆら薄明かりの中に見え、江州音頭は、かすかに聞こえていたが、眠りを妨げられることもなく、急激に記憶が薄れていった。
習慣とは不思議なもので、午前四時には目が覚めた。さすがに初日だけに、盆踊りの囃子はもう完全に止んでいた。三時間足らずの睡眠だったけれど、私の目覚めはすっきりしていた。それでも水道を思いっきり開け、顔をじゃぶじゃぶと洗った。朝の二時間半、私は大切にしたかったのである。五時を過ぎると東の空が明るくなり始め、またまた暑い日の来ることを予感させていた。私はその午後、相も変わらず忙しく過ごした。プールに行って泳ぎたいなとも考えたけれど、暇がないうえおばぁさんから
「善一郎、お盆に泳いだら足引っ張られて溺れるでぇ!」
と諭され、でも
「誰が足引っ張るねん?」
との問いには、答えが返ってこなかった。
その日、Y 君と私はやはり浴衣を着て踊り場に行った。しばらくは踊りの輪を見ていたけれど、輪の中にはその人はいないし、Y君から
「今日は、踊ってないなぁ。」
と念を押され、
「今日はけぇへんちゅうてたでぇ!」
と答えると、
「ほな今日は帰ろよ。」
と誘われ、早めの帰宅となった。帰り際Y君は
「明日会社の人と出かけるんで、盆踊り付き合えへんでぇ。また17夜一緒に行くわ。」
と告げられた。私は勝手に、女の子とどっかに行くんだろうなと想像していた。
翌16日は、さすがにお盆里帰りの最終日だけに、ガス配達の注文はあまりなかった。それでも夕暮れてから一二軒は有ったように記憶しているのは、江州音頭を聞きながら配達したことを覚えているからである。
私は夕食後は、自宅に行って浴衣に着替え、踊り場に行こうかどうかを迷っていた。彼女は今日の予定を何も教えてくれていなかったので、行っても会えるかどうかをも分からないし、相棒のY君のいないことも、決断を鈍らせている一因であった。
私は決断できないまま、それでも江州音頭を聞きながら、縁側に一時間ばかり座っていた。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 01:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日常生活

2020年02月14日

野村克也さん逝く

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
野球解説者の野村克也さんが亡くなられた。
正確には亡くなられて数日経つとはいえ、野球狂としては取り上げないわけにはいくまい。
私は生まれも育ちも大阪府南部で、親類縁者の大半は南海ホークスファンであった。
だから大阪球場にはよく連れて行ってもらった。小学校の高学年で、ちょうど野球に興味を覚えだしたころである。当時は西鉄ライオンズの全盛期で、南海ホークスの応援に行くのに、西鉄ライオンズがよく勝つものだから、私はすっかり西鉄ライオンズのファンになってしまった。それでもライバルチームの、野村選手や杉浦投手には憧れた。あの頃我々は、杉浦投手のアンダースローを真似たり稲尾投手のピッチングフォームを真似たものである。西鉄ライオンズには中西太というスラッガーがいたけれど、確か腱鞘炎だたかな、選手生命は短かった。一方南海ホークスの野村捕手、体が頑強にできていたのだろう、1982年に引退するまで、「生涯一捕手」を貫いた。そして最後の二年は元のライバル球団である西鉄ライオンズから西武ライオンズとなった球団で、捕手を務めた。その二年間で松沼(兄)投手の才能を開花させ、一人前の投手に育てあげた。
その野村さんが、生涯で出会った投手の中で最高だったのは、西鉄ライオンズの池永投手だと仰っていたという話を聞いたことがあった。それを先日のNHKの追悼番組でも流していたという。池永投手は、下関商から西鉄入りしたのだが、実働5年で100勝しており、野球狂の私はピッチングフォームを真似たりしたものである。私事はさておき、野村さんの眼鏡にかなった池永投手ながら、解説者を含め現役時代を知っている人も随分少なかろうと思う。ただ71歳の爺、現役当時を知っているわが身としては、いまだに憧れているのである。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 01:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 時の話題

2020年02月13日

思い出話 23

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
Y君とその人のことを、一度も話したことはなかったけれど
「おっ善さん、H君の姉ちゃんいてらしょ。一緒に踊って来いよ。」
と切り出してきた。なぜY 君が私の淡い恋心を知っているのか不思議な気がしたが、多分Hちゃんから聞いたんだろうと、一人合点した。
「もう一時間ほど、他所の踊り場見てくらぁ。」
と言って、いそいそと暗闇に消えていった。
私はその場に佇んでどうしようかと迷っていたら、輪の中の彼女が私に気付いて小さく手招きをした。それをきっかけに私は輪の中に入って、その人の前に入って踊った。輪の中に入った頃は、普通に踊っていたが、4,5分してわざと180度回転し、その人と向かい合う形になり、踊りながら話した。時々はまとまな方向を向いて踊り続けたので、外で踊りの輪を見ている人にも、踊りの輪の中の人にも、あまり目立たないのだろうと、勝手に理解していた。実際江州音頭が、私達の会話をうまい具合に隠してくれていた。
毎日の出勤は今までと同じこと、月初めの一週間は相も変わらず早い電車に乗っていること、17夜は、翌日が仕事だが水間の踊り場で踊るつもりといったことを教えられ、私からは休み中午後はガスの配達を手伝っていること、たまには中学校の近くの市営プールに行って泳ぐこと、元の同級生は皆、社会人か大学生になってしまったので、本音で遊び相手の少なくなったことを話した。そして17夜は水間の踊り場で会うことと、9月最初の週にはまた難波までついて行こうかなといったことを話した。
「善一郎君は、お盆の間も大きな家で一人寝てるの?」
と尋ねられ、
「先祖が皆帰って来てるから、一人ちゃいますよ。」
と答えたら、本当やねぇといって笑っていた。それでも一時間近く踊っていただろうか、拡声器から聞こえる音頭の音が小さくなり
「12時を過ぎましたので、拡声器の音を下げます。お帰りなる方は、明日もまた8時ころから開始しますので、ぜひお越しください。今夜はあと一時間くらいつづけます。」
の放送があり、それを機に多くの踊り手が判ら離れた。私達も輪を離れ、その人は明日は踊り場には来ないことを私に告げて去って行った。そして気が付いたらY君が、踊り場の隅で私を見て笑っていた。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年02月12日

思い出話 22

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
その後私達は、出会える機会がしばらくは、なかった。
梅雨が明ける頃高校が夏休みに入り、高校に通わなくなったので、事態は悪くなっていた。私は早朝の受験勉強以外は、家の手伝いに精を出した。日曜日は、もう社会人となっているY君ともあって話すこともあったけれど、時間的にはすれ違うことも多かった。
そして8月に入ると、おばあさんから
「今年は、浴衣ぬうたるでぇ。Y君のお母さんと話したんや。盆踊りに着たいやろう。」
と、告げられた。前年までは、普段着で盆踊りに参加していたけれど、これは私を大いに喜ばせた。Y君からも
「ちょうど盆休みやから、ほな一緒に出掛けよか?」
と言われて、私は有頂天になっていた。今日の若者に比べれば、本当に他愛無いものである。
大阪南部の泉州地域は、盆や祭りの盛んな地域であった。8月14日から三日間は各町内で、そして17日は水間観音の境内踊り場は、近郷から人が出て結構な賑わいになる。17夜と呼ばれていて、ほとんど徹夜で踊り続けるのであった。
今日でもそうだが、8月中頃のお盆休みには、就職して故郷を離れている者が多く帰省してくる。大仰にいうなら一時大家族に戻るのである。だからあの頃は、盆と正月はプロパンガスの配達も忙しかった。当時はまだガスボンベを台所に置いて、ゴムホースで厨房器に直接つないで使っていた。そしてその後プロパンガスの普及で、一方ガス漏れによる爆発や火災事故が頻発し、規制が厳しくなって配管の工事が必要となったが、まだまだ規制の緩かった時代であった。ちなみにその二年後、私は正式にガス・揮発油等の取扱い免許を取得するのだが、高校三年生のあの頃は、いうなら無免許で家事を手伝っていたのであった。ともかく日が暮れてご飯時になっても、なかなか開放はされなかった。そもそもY君と私は、そんなに早いうちから踊り場に行こう何ぞとは話し合ってなかった。だから出かけたのは午後10時を過ぎてであったろう。
「町内の踊り場、最後に行ったらええやん。木積や水間まわってみよう!」
ということで、二人は浴衣で下駄をはいて家を出た。当然たもとにはたばこが入っていた。Y君は就職してから、喫煙の習慣がすっかりついていた。私はと言えば、ある意味面白半分、留年しているとはいえ、まだ高校生だったのだから。
初日だけに10時過ぎといっても、人のではまだまだで、水間漢音の境内の夜店も人はまだまだまばらだった。
「やっぱし、最終日の16日やないと盛り上がれへんなぁ!ほんで水間は17夜やで。」
勝手に納得して、11時頃だったろうか、私達は町内の踊り場に戻った。そして私は、踊りの輪の中に、例の彼女の浴衣姿を見出した。意気消沈していた私は、突然気分高揚するのを感じた。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 12:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年02月11日

漂流豪華クルーズ船

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
思い出話は、一日お休みをもらって、新型コロナウィルス肺炎の話題を。
というのも、大型クルーズ船の乗客・乗員4000人弱が、下船させて貰えず、まさに閉鎖空間にいるので、保菌者の数がどんどん増えている。昨日でもはや130人超か・・・。
友人がブラックユーモアに近い内容をぽろりと漏らした。
「下船したければ、新型コロナウィルス肺炎にかかればいいんだよ!」
笑えない冗談ながら、実際発病すると有無を言わさず隔離病棟に運ばれるので、確実に下船できる。ただこうなると、下船するのも命がけということになる。
確かに国を守るという観点からは、乗客は一切下船を認めず、出向地に戻っていただきたいような気もするが、一方人道的な立場からは、全員の下船を認め一定期間の隔離を強いるべきではないだろうかとも考えている。というのも、このままの日を重ねれば、豪華客船とはいえ閉鎖空間だけに、最終的には全員保菌者となってしまうのじゃないだろうかと考えるからである。さらにはそういう事態になれば、世論が日本政府の対応を厳しく非難するに違いない。
「野蛮な国だ!」
なんてレッテルは、本当にありがたくないもんなぁ。
ついでに言うと、福島の汚染水いよいよ海洋投棄に踏み切るのだろうか?
これと併せて、ますます野蛮国に成り下がるかもしれない。
取り越し苦労にならなければよいがなぁ。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 00:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 時の話題

2020年02月10日

思い出話 21

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
午後10時過ぎには、R 君も帰ってしまい私は一人になった。
あの頃には私は再び、朝四時頃の起床を心がけていて、だから就寝の時刻は過ぎていた。座敷の真ん中に布団をひいて大の字になったら、Hちゃんの言葉が気にかかっていた筈なのに、すぐに眠ってしまった。ただ多分夢の中だったんだろうが、Hちゃんの
「恥かかんようにせぇよ」
「あのおばはん出戻りなんや」
という二つの言葉が、頭の中をグルぐるぐる回っていたような記憶がある。
そして夢の中で
「なんで、彼女と仲ようしてたら、恥かくねん!」
を繰り返していた。多分眠りは浅かったんだろう。
それでも翌朝は、午前4時に目が覚めた。
「あの人、出戻り娘なんや。そいでもわいの好みにぴったりや。ピッタリはええけど、ワイは一体どうしたいちゅうんやろう?」
と、覚醒してゆく頭の中で考えていたけれど、答えが出るとは、到底思えなかった。
ともかく私は気を取り直し、期末試験に頭を切り替えた。頭を切り替えたといっても、私は特別なことはしなかった。定期試験は、日頃の積み重ねが結果として出るのでと、考えていた。記憶に間違いがなければ、二三日もすれば一学期の期末試験が始まる筈であった。
そんな期末試験も終わり、夏休みとなった。昨年同様、同級生たちは急に大学受験を意識し、大阪市内の予備校の夏期学習に通う者も少なくはなかった。二回目の三年生で同級になった友人が、この友人が私をパチンコに連れて行ったりしたのだが、
「善さんどうするねん?」
と尋ね、私は
「どこにも行かへんよ!」
と返した。彼は、夏休みを期に大阪市内に通うようになって、遊び癖が付いたのか、かえって成績は低下の一途を辿り大学受験はうまくいかなかった。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 00:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年02月09日

思い出話 20

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
次の日も私は、早めの電車に乗った。
さすがに彼女は、そのことについては何も言うことはなかった。
水間駅から貝塚駅までの15分足らずだが、私にはそれだけでも十分わくわくしていた。
確かに急行に飛び乗りたいという衝動も、自分自身の中に感じてはいたが、無茶をすることでその人から良く思われないかもという不安感が、私を思いとどまらせた。
自制心ということになろうか。
結局早朝の逢瀬は、週末の土曜日まで続いた。
その日彼女は貝塚駅での別れ際に
「善一郎君は土曜の午後は自由なの?」
と尋ねたけれど、私はかぶりを振って
「土曜の夕方は、ガスの配達忙しいんです。」
と答えた。
「あら残念、一週間のお礼に昼ご飯でもご馳走しようかと思ったのに。」
と、本当に残念そうな顔で、その人は私を見つめた。そして
「来週からは、また元通りの出勤時間。朝早く駅にきてもいないからね。」
と、私に告げた。
その日の夕方、Hちゃんがいきなりやってきた。大学に入ってからは、初めてではなかったろうか。そしていきなり
「善さん、最近H君とこのおばさんと、よう一緒におるんやて?」
と、詰問した。
「おばさんちゅうても、ワイらから見たらあ姉さんやでぇ」
と返事する私を無視して、
「恥かかんようにせぇよ。あのおばさん出戻りって知ってんのか?」
と続けた。
「お前も、本来やったら高校卒業してる筈やし、遊ぶんやったらええけど、気ぃ付けよ。」
といって、縁側に座って煙草に火をつけた。そして私にも煙草を出して
「お前ももう吸うんやろ。ええねんかくさんで!」
といって、あとは何も言わなかった。
静けさがまた戻ってきたが、ほどなくバイクの音が聞こえて、
「善さん、予備校の試験やねん。数Vの積分の問題教えて欲しいんやしょ。」
と、R 君がやってきた。それをきっしょにHちゃんは立ち上がり、もう一度私をじっと見つめて
「分かってるな!」
念を押した。R君はあっけにとられていた。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 12:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年02月08日

思い出話 19

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
次の日も、私は家を早く出た。
その朝、彼女は私より早く水間駅に着いていたようで、既に席に座っていた。
私に気付くと、えらく真顔で
「今日は急行に乗っちゃぁだめよ!」
と言ってから、となりの席に付くようにと促し
「昨日は遅刻したでしょ?」
と続けた。
私は、学校に着いたのは一時間目の中頃だったこと、だから部室で時間を潰したたことを正直に話した。そのあと話題は私の境遇に及んで
「善一郎君は、お母さんが亡くなった後は、おばさんの家にいるのね?」
と尋ねられ、少し話が弾んだ。
「正確には母の叔母の家です。居候ということになります。でも高校に入ってからは、夜は自宅で寝ています。」
「あらそうなの?あんな大きな家で一人寝ているの。怖くない?」
「怖くないけど、風の強い日は家全体が、ギシギシなって気持ち悪い程です。一人で寝るのはさみしいけど、同級生が時々勉強しにやってくるので、気が紛れます。」
と答え
「お姉さんも来てください、大歓迎します。」
と続けると
「馬鹿ねぇ。」
と一笑された。
「あぁそうそう、おばさんの家でお世話になっているから、学校から帰るとガスの配達お手伝いしているのね。高校は岸和田高校って聞いたけど、秀才なんだ善一郎君は。」
「手伝いしているのは、別に義務感からではないんです。皆忙しいので、役割分担です。それから僕は、秀才ではありません、天才です。」
と答えると、笑いながら
「不良の天才君か・・・。あれ今日はサングラスは?」
と尋ねられ、
「お姉さんの前では、かけないことにしました。」
と答えると
「あら、素直なんだ。でもそれは誤解よ。電車の中では目立つので、不良にまれるかもしれないでしょ。手術したんだから、道を歩くときはかけていいのよ。」
といったあたりで水間電車は、貝塚駅のホームに滑り込んでいた。
私たち二人は、地下道を急いでくぐり抜け、ホームの中程まで歩いた。
そして私はその人の乗った急行電車を見送った。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 09:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年02月07日

思い出話 18

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
私は、7月を待ちかねた。
そして
「授業に遅刻してでも、難波までは送って行こう!」
と、自身に強く言い聞かせていた。
毎日を慌ただしく過ごしていたからだろうか、その日7月3日は思いの外早くやって来た。
梅雨明けはまだまだ先で、空はどんよりしていた。
おばぁさんは例によって、
「善一郎、今日はえらく早いなぁ!」
と声をかけ、
「学校で調べたいことあるねん。」
と答えて、私は通りに出た。
通りには彼女は見えなくて、それでも私は水間駅に急いだ。
しかし、駅にも車輛にも彼女の姿は見当たらなかった。
私は
「きっと来る筈や。」
と、わけのわからない自信を抱き続け、車輛の最後尾に立って改札口を見つめていた。
やがて駅舎からは運転手が、のしのしといった感じで出てきても、改札口には依然として彼女が現れなかった。ところが車掌が、発車のベルを鳴らそうとホームの柱に近づいたころ、小走りしてくる数人の人ごみの中に、私はその人を見つけることができた。
その人は肩で息をしながら、最後尾から乗車してきて、すぐに私に気付いて
「あら、善一郎君今日は早いのねぇ。」
とおばあさんと同じ様に尋ね,
「また病院で診察かな?」
と続けた。私はかぶりを振って答えたら
「フーン。高校生も早く学校に行くことがあるんだ。」
と、一人納得していた。
貝塚駅に着くまで、私達はどんな話をしていたのか、今となってはまるで記憶の外だけれど、貝塚の駅に着くころ
「急行は中頃に乗るんやったねぇ。早よう降りてホームの中頃に行っとかな。」
と彼女を促し、南海貝塚駅のホームを急い出歩いた。
ほどなく窓の空いた急行がホームに入って来た時
「それじゃぁここで!」
という彼女の言葉をさえぎって、私は一緒に急行に乗り込んだ。
そして車輛の中ほどまで進んで、この前と同じように二人並んで吊革を持った。
「高校にはいかないの?」
という問いに答える代わりに、
「難波までお姉さんを守ります。」
と答えると、
「それはうれしいけど、無茶をするのはきょうだけよ。それからサングラスを外して、普通の高校生になりなさい!」
と、えらく命令口調で私を諭した。私はその言葉にはおとなしく従ったけれど、その後の乗客との格闘は、先日と同じであった。
難波駅では、
「有難う助かったわ。でも学校に行くのよ。さぼったらだめよ。」
と背中を押され、和歌山行きの急行に乗り込んだ。私はポケットからサングラスを取り出して、それを見つめながら席に着いた。

lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白

2020年02月06日

思い出話 17

⇒⇒⇒⇒⇒ 投票を願います!
翌朝、私は前日の朝と同じ時刻に出かけようと、準備をしていた。
おばぁさんが
「善一郎、今朝はえらい早いんやな?」
と声をかけてきたけれど、
「学校で調べたいことあるねん!」
と曖昧な返事をして、私は家を出た。
通りには水間駅に向かう何人かがいたけれど、彼女の姿は見えなかった。
水間駅にも水間電車の車輛にも彼女はいなかった。
ちなみに当時の水間電車は、ラッシュ時でも高々2車輛で、通常ははわずか1輌で運行、ドアは乗降客が手動で開け閉めするのであった。私は、気落ちしている私自身を感じながら、貝塚駅で乗り継いで隣の蛸地蔵まで各停に揺られていた。それから二三日ばかり、私は早い時刻の電車に乗ってみたが、目論見はすべて外れてしまった。
それから何日かしての週末、プロパンガスの配達に出向いたら、例の女性が出てきた。同じ町内だろうとは考えていたが、全くどの家かは知らなかったので、大いに驚いた。
「あら、プロパンガスの配達、お手伝いかえらいわねぇ!」
という彼女に、
「こちらの方だったのですね。」
と答えるのが精一杯で、
「ガス漏れしないように、しっかりつないでおいてね。」
といった言葉にも全く上の空で、生返事すらできなかった。
それでも作業は5分程度で終わり、私もようやく落ち着いてきて
「朝早く水間電車で出会って、難波まで一緒に行って以来ですね?」
と尋ねることができた。
「早い日もあるんだけど、普通の日はもっと遅いの。水間駅九時の電車。その頃には南海電車もあまり混んでいないし。」
という意外な返事であった。ただ私にしてみれば、それが判っただけでも十分なのに、
「七月の第一週は、毎日早いの。この前一緒になった電車。」
とまで教えられ、独り有頂天になっていた。そしてその日は、夕暮れ時まで高揚していたのは言うまでもない。
lanking.gif
クリックして投票を!


posted by zen at 15:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白