2020年06月19日

思い出話 83

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私達は、窓際のテーブルに向かい合って席をとった。
信一郎君と呼ばれた男の子は、その人の隣にちょこんと座っていた。
「それにしても4年半ぶりですか?」
と、私はようやく口を開くことができた。
「最後にあったのは善一郎君が、予備校に通い始めた頃の5月だったから、昭和44年以来かな?」
と彼女は、返して私を見つめた。
私は、またまた何を言っていいのか分からなくなって、黙っていると
「恋焦がれていた女性と久しぶりに会って、嬉しくないの?何か怒ってるみたい・・・。」
「怒ってませんよ。でも何を言っていいか分からなくて。」
「成長していないなぁ。じゃ私からいろいろ報告するわ。結婚が5月、次の年の10月末にこの子が生まれたの。だから今信一郎は、2歳半。この子の名前は、私の好きだった君の名前から一部貰ったのよ。」
と一方的に話して、
「どう、少しは感激した。」
と私を覗き込むように、見つめた。私はようやく
「『信一郎挨拶しなさい』と仰ったとき、少し驚きました。まさか、僕の名前からとったなんて!」
と答えると
「正直言うとね、いくつかの名前の候補があった中で、私が信一郎を迷わず選んだの。これも何かの縁でしょ。」
と、その人は付け加えた。コーヒやジュースが運ばれて来た頃、私の緊張もようやく解けて、素直に話ができるようになった。
「北海道に転勤ですか。それにしても遠いなぁ。」
という私に、
「札幌市の豊平区って聞いてるわ、住所は。またはがきでも下宿に送るから。」
と言って
「夏休みじゃないの今は?」
と不意に話題を、私のことに切り替えてきた。
「来週には、大学院の入試があるんです。本当のところ、この三週間余り落ち着かなくて。」
という私に、
「へぇ、まだ勉強するんだ。来年には就職かと思ってたのに。」
と意外そうな顔で答えた。そして
「落ち着かなかったのは、まさか私のせい?」
と尋ねたので、
「これも何かの縁でしょう。」
と答え、
「時々見かけたって書いてましたが、声をかけてくれたらよかったのに。」
という私に
「旦那や両親と一緒にいるときに、昔の恋人に声をかけるなんてできないわよ、馬鹿ねぇ。」
とつぶやくように答えた。
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2020年06月18日

思い出話 82

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よりにもよって、大学院入学試験前のある意味重要な時に、その人からの手紙があり、出会いの約束までしてしまうなんぞというのは、
「なんというめぐりあわせ。」
と、悔やんでみたところで致し方なく、かなり非効率的な3週間を過ごして、8月17日を迎えた。
GM君の研究室に行こうという誘いを
「午前中野暮用ができたんや。昼過ぎに研究室に行くわ!」
と、やり過ごし私は9時半ころまで下宿のベッドで、横になっていた。それにしてもあの日の一時間半は、時計の進みがとてつもなく遅く感じられた。それでも私は、約束の場所には5分前に到着して、その人が現れるのを待った。ほどなくして背後から
「待たせなかったよねぇ!」
と、声をかけられた。てっきり古江台の方から歩いてくると、その方向を見ていたので
意表を突かれる形となった。慌てて振り返ると、懐かしいその人が二三歳の子供の手を引いて立っていた。
「暑いし、子供連れだから近くだけど、バスに乗ったの。」
と、言ってから
「信一郎挨拶しなさい。ママの古いお友達。大阪大学に行ってる秀才さん。」
と続けた。そして
「秀才で無かったわ、天才だったっけ善一郎君は。」
と、私がかつてその人に言った言葉を思い出すように訂正した。
「立ち話もなんだから、お茶でも飲もうよ。御馳走するから・・。」
と、時計台の下の喫茶店にさっさと入っていたので、私は従うしかなかった。その間私は一言も話すことはなかった。
朝の10時過ぎだけに、店にはあまり客もいなっかったので、私はほっとしていた。
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2020年06月17日

思い出話 81

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それでも私は次の朝、いつも通りに研究室に出かけた。
午前8時過ぎの研究室には、いつものようにまだ誰も来ていなかった。
通信方式の教科書を開けてはみたが、まったく手には付かなかった。あれこれ考えてもどうしてよいのかの結論は浮かばず、9時過ぎになったので思い切って電話をかけてみた。あの当時は携帯電話の無い時代で、研究室に黒電話があり、大阪市内の06地域には、自由にかけてよい不文律があったのである。
三度か四度呼び出し音があり
「はい、MKです。」
という懐かしい声が」耳に飛び込んできた。おおよそ四年半ぶりに聞く声だったが、歳月の経たことを感じさせない響きがあった。一瞬返事に詰まっていたら、
「もしもし、こちらはMKですが、どちら様ですか!」
と、ややきつい口調に代わった。
私は覚悟を決めて
「ご無沙汰してます。河崎の善一郎です。」
と返したら、
「あら、手紙届いたのね。それにしても懐かしいわねぇ。あれから元気だった?」
と、屈託のない応答である。
「今いいんですか?ご主人はいらっしゃらない?」
という私に、
「人妻に電話をかけてくるんだから、善一郎君も随分成長したのねぇ。」
と言ってから、
「もう出かけてるから・・。子供は幼稚園だし、私独りだから。それにしてもお互いにえらく近くに住んでいたのぇね。」
という。そして
「手紙にも書いたけど、お盆明けの8月20日の日曜日に北海道に引っ越すの。」
と続けてから、
「しばらく会う機会もないだろうから引っ越し前に、一度会っておきたいと思って、手紙書いたの・・。」
と、私を驚かせた。
そして返事に困って黙っている私に
「昼間に堂々と会うんだから、人の目なんか気にしなくてもいいのよ。」
とえらく強気な態度である。さらには
「17日か18日の午前中、北千里の時計台で会おうよ」
と、一人で話を進めだした。
結局私達は、17日の午前10時の再開を約束して、私は受話器を置いた。

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2020年06月16日

思い出話 80

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以前にも書いたように、私は大阪大学工学部のキャンパスまで、歩いて15分程度という下宿に住んでいた。友人のGM君も同じ下宿で、研究室に向かうのも、研究室から下宿に戻るのも一緒ということが多かった。
あの頃の工学部電気棟は、集中冷暖房で夏期の場合、夕方は5時になると冷房は停止した。5月中は冷房がなくても取り立てて困るということはなかったけれど、梅雨末期の7月ともなると、冷房の停まってしまった夕方の研究室は、受験勉強には不向きであった。といっても下宿の部屋はさらに暑く、暑さと闘いながらの大学院入試勉強であった。
下宿は朝晩のまかない付きで、夕飯を終えて大浴場で一風呂浴びて後、夜の9時頃に研究室に向かうこともあった。研究室は7階8階という比較的高い階にあったので、その時刻ともなると窓からの風はそれなりに涼しくなっている日もあったからである。
そんな受験勉強に明け暮れていた、7月の末であったろうか、下宿の部屋に戻ると一通の手紙が届いていたのだが、差出人には見覚えがなかった。だから中を確かめることもなく、その日は午後9時頃研究室に行って、日が変わる頃に下宿の部屋に戻った。そして横になったら、枕の上に置き去りにしておいた手紙が、頭の下敷きになった。止むを得ず寝ころんだまま封を切って、手紙を読みだしたら愕然となった。4年前に私の前から消えてしまった、その人からの手紙であった。
「北千里駅近くの古江台に住んでいること。何度か北千里の駅で私を見かけたこと。御主人の転勤でお盆が明けたら北海道に引っ越すこと。」
といった内容で、電話番号も書き添えられていた。その晩私はなかなか寝付けなかった。
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2020年06月15日

思い出話 79

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卒業研究の実質的開始は、9月初旬の大学院入学試験が終わってからというのは、入学試験の倍率がおおよそ二倍弱といった具合で、団塊の世代末期の我々にとっては、いつまでたってもこの種の競争がついて回っていたからである。
それはさておき、週に一回だけ「輪講」と呼ばれる、英文の教科書を読む集まりがあった。博士課程の先輩は時折顔を出す程度で、修士一年、二年生が、その輪講を取り仕切っていた。私の所属した研究室は、7階と8階にあり8階には光ファイバーの研究グループが、7階には電磁界理論と静磁波のグループが居室としており、都合三グループがいたことになろうか。ただいずれのグループにとっても基礎となるのが、電磁界理論や電磁波で、それまで日本語の教科書で勉強していた内容を、英語の教科書でさらに詳しく理解しようというのが、輪講の目的であった。
輪講以外には取り立てて「義務」はなかったけれど、私達はほぼ毎日研究室に出向いた。今にしてみれば馬鹿みたいだけれど、大学院入学試験の受験勉強が、主たる日課となっていた。隣の講座では、先輩たちが大学院入試の模擬試験を実施していた。
以前にも話したことがある話題ながら、私達の学年は大阪大学での最後のストライキを完全実施した学年で、四年生になっても未修得の単位が多かった。だから入試勉強が、即ち定期試験の準備にもなっていたのである。
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2020年06月14日

思い出話 78

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講座配属は4月中頃であった。
指導してくれる教員や大学院生との顔合わせが有って、
「修士コースを受験したい!」
という学生には、先輩達は
「まぁ卒業研究の実質的開始は、大学院入試が終わってからやなぁ。」
と異口同音であった。8人の講座配属の内進学を希望したのは4名で、比較的優秀と同級生から評判の高かった、KT君とYK君の両名が
「大学院には進学はしないで、電電公社に就職する。」
と言い出したのには、大いに驚いた。確かKT君は、前年の工場実習と呼ばれていた、今日でいうインターンシップで電電公社の通信研究所で一月を過ごし、それがきっかけで就職希望としたようだった。そして実際この二人は成績が良かっただけに、すんなりと電電公社への就職内定を取り付けていた。私達の所属していた通信工学科は、その名の通り通信技術に特化した学科で、国内的にも珍しく、電電公社に就職していく卒業生が多かった。さらに修士課程や博士課程を修了したのち、電電公社に就職していく者も多かった。
「博士号をとるのは良いが、つぶしがきかないので就職先に困る。」
という、今日の風潮から見れば、信じれないぐらい簡単に電電公社の研究所に採用されていた。高度成長期の真っただ中だったとはいえ、一般には博士修了の就職はあまり容易ではなかったのは事実である。必ずしも皆が皆、今日のモバイル時代を予想していたのではなかろうが・・・。
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2020年06月13日

思い出話77

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時計の針を20年近く戻して、大学生から大学院生になる頃の思い出話を、再開したい。
私にとって、初恋とは言えないまでも、それでも甘酸っぱい思い出を残して、その人は嫁いで行ってしまった。ぽんと何かがはじけてしまったようであったが、それでも一年の予備校生としての私なりの研鑽の甲斐もあって私は大阪大学の学生になった。大学生としては決して経済的に恵まれてはいなかったけれど、それでもどうにか学業を続けながら、時には友人との貧乏旅行も楽しんだ。そういう意味で、高校、予備校、大学と一緒であったGM君の存在が大きかった。ちなみに彼とは、卒業研究の講座配属先まで同じで、その縁は未だに続いている。
そして入学の頃から漠然と抱いていた、「大学院に進学しよう!」という希望を、真剣に考え始めたのは四年生になって、卒業論文のための研究室配属された頃かあらである。私は電磁界理論の講義に魅了され、当然のように通信工学科第一講座を希望した。希望はしたものの、
「人気が高く、思い通りに行くだろうか?」
と大いに心配したのだが、それは全くの取り越し苦労で、講座の人気という意味ではその講座は思いのほか低かった。だからちょっと背伸びして選んだ卒業論文のテーマ「相対論的電磁理論」が、認められた。そしてその直接面倒見てくださるのが、博士課程一年生のTKさんであった。先の書いたように、GM君も同じ講座を選び彼は当時の先端技術である光ファイバー伝送技術の理論研究に取り組むこととなった。
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2020年06月12日

球梅雨近し

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先週からプロ野球の練習試合が始まっている。長距離の移動を避けるべく東地区8チーム、西地区4チームに分かれての練習試合である。3月のオープン戦が終わって、さて一週間後にペナントレース開幕となった頃の自粛要請、甲子園春の選抜が中止になる等して、プロ野球の開幕の延期が決まった。野球狂としては、曰く言い難かったけれど、現時点では安全距離を保っての社会活動以外の妙案はない。それゆえ已むを得ぬ仕儀と、諦めていた。
それでもとうとう、6月19日からのセパ両リーグの同時開催が決定し、球春ならぬ球梅雨と相成っている。ただ当分は、無観客での試合になるのだろう。この間、プロ野球選手にも数名の感染者が出ていたけれど、さすがというべきか彼らは重篤化はしなかった。
無観客といえば、相撲3月場所は無観客だった。競馬も無観客で開催されている。ヨーロッパでは、サッカーの試合も無観客だという。プロスポーツが無観客で実施されたら、団体としては収入激減。テレビの放映権があるとしても、入場料収入の皆無は馬鹿になるまい。アメリカ大リーグでは、開催可能試合数が例年の三分の一程度の50試合になる模様で、だから給与も三分の一と経営者側が発表、選手側から猛反発が出ていると、マスコミ報道が伝えている。金銭が絡むと、エゴとエゴのぶつかり合いになる、とりわけ狩猟系民族は。
そんなことよりも、アメリカ合衆国の差罰主義に対する抗議、なかなか収まりそうにない。給与闘争なんぞより、もっと深刻な問題だろうに・・・。

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2020年06月11日

学術振興会様々

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実験は、結局のところ成果無しに終わってしまったが、実験終了後は蘭州を訪れ、さらに敦煌まで足を延ばしたあたりの顛末は、拙著「雷に魅せられて」に書かせてもらってある。
さて私は9月初旬日本に戻った。
あの頃、空電研究所における雷放電研究グループの立場が微妙であり、私とNMさんは工学部のロケット誘雷実験と一緒に研究する枠組みが大切だと、リーダーの竹内助教授を説得していた。学術振興会の予算で、中国を訪問したことですっかり強気になっていた私は、NMさんの
「堀井先生を代表にして、インドネシアでのロケット誘雷実験を日本学術振興会に提案しませんか?」
という戦略に一も二もなく賛同して、申請書作りをしておいた申請の採択が届いた。これは結構大きな国際共同プロジェクトで、翌年1989年1月には総勢10名余が大挙してインドネシアに出かけることになった。
そんな風で大いに盛り上がっていた折、今度は母校の大阪大学から耳寄りな話が届いた。
電気工学科電力工学講座の木下教授が定年退職し、雷放電研究のポストが空いていそうだというのである。私は
「うまく採用されたら、雷放電の研究は継続できるし最高だなぁ。」
と思案し、結局翌年の転勤に至るのだが、その経緯は別の機会に披露することにしたい。
いずれにしても中国から帰ったら、インドネシアでの野外実験の話や、大阪大学への転勤の話やらが、一緒に吹き出してきてそれまでの空電研究所での10年弱の苦労が一挙に実を結ぶことになったのである。その後はといえば、インドネシアに引き続き、トロント、アメリカ、オーストラリアと立て続けに海外観測がの申請が採択され、1990年代がある意味、それまでの苦労が実を結ぶ10年となったというべきだろうと考えている。
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2020年06月10日

解放前の中国

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日本では時の記念日
二時間近くも走ったろうか、私達は陽坊村の、ロケット誘雷実験場に到着した。
そこは何と人民解放軍の、戦車の演習場であった。演習場だけにひたすら広かった。片側には二階建ての蒲鉾型建屋があり、郭教授から私達の光学観測装置はその二階に設置するようにと薦められた。SSさんは
「観測は、誘雷さえうまくいくなら最高の環境だ。ただ毎日通うのは願い下げた。近くのホテルを探してくれるよう、交渉しよう。」
と、スタッフとの紹介も済まぬうちに、私達の意見を郭教授や劉教授に投げかけた。
郭教授は
「この辺りには、外国人用のホテルはないからなぁ。」
と思案顔であったが、二三日内にどうにかするからという返事で、私達はその日の夕方は北京市内に戻った。
ところが翌日郭教授から
「南口村に、人民解放軍の招待所があり、その貴賓室をお二人のホテル代わりに使えるよう交渉した。実験場まではいつもの自動車で15分程度。毎朝迎えに行くし、夜中に雷雨があるようなら、迎えに行くから。」
と話があり、私達は早速に荷物をまとめて「引っ越し」した。
以来おおよそ一ヵ月、私達は南口村と陽坊演習場を行き来することになるのだが、その間天気の良い日には八達嶺長城や明時代の十三陵に連れて行ってもらった。その時の世話役の一人がWDさんなのである。
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