2020年06月09日

中国での実験

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ウプサラの会議の直後、7月8月と私は中国で過ごすことになる。
1988年といえば、解放前の中国である。
中国ヘは、日本学術振興会への申請が採択され、中国科学院蘭州高原大気物理研究所の実施するロケット誘雷実験に参加して、先日来話している光学観測を行うことが目的であった。この申請は、科学研究費の奨励研究を除けば、自分自身で考えての内容での初めての申請であった。名古屋大学空電研究所に勤務していた私は、冬場には工学部教授の堀井先生がリーダーである奥獅子吼高原でのロケット誘雷実験にも参加しており、多分その折にでも中国行きの話をしたのだろう
「中国の実験には、中部大学のSSさんも参加させるから、一緒に行ってくれないか!」
と堀井先生から提案され、二人して中国に出かけた。
SSさんは、ご自身で設計・製作されたストリークカメラで観測を提案し、私はといえばNMさんの設計によるフォトダイオードを8列に並べた光学観測器で、パソコンで制御してのディジタル記録をするつもりでいた。そしてこれが一年後にトロントでの観測に使われるようになったのだが、その顛末は数日前にすでに述べてある。
くどい様ながら、解放前の中国である。
伊丹空港を出発して北京空港に到着、到着ゲートには郭教授、劉教授に加え何人かが迎えに来てくれていた。私の観測装置は何日か前には航空貨物で送ってあったが、SSさんのストリークカメラは、確か手荷物による持参であった。ただカメラは当然アナログカメラで、通関手続きは思いのほか簡単であった。
私たち二人は黒塗りのロシア製の6人乗り乗用車に乗せられ、確か友諠飯店(彼らはFriendship Hotelと呼んでいた)に滞在中泊まるようにと案内され、翌日実験場を訪問すると告げられた。そして翌日私たち二人は、早朝やってきた研究所の学生らしき一人と一緒に、例の乗用車で陽坊(ヤンファン)村にあるという実験場に向かった。記憶に間違いなければ友諠飯店は北京市の北西部にあり、陽坊村はほぼ北に60q程、有名な八達嶺との中間に位置し10分ほども走れば道路はもはや舗装されておらず、自動車は田園地帯をひたすら走り続けるだけであった。小一時間走っても目的地に着く様子はなく、SSさんがいきなり
「河崎さん、これなら実験にならないよ。こんなに時間をかけて通っていたのでは、意味がないから、もっと実験場に近いホテルを頼んで欲しいなぁ。一時間以上もかけてたら、雷雨が終わったしまうから!」
と言い出された。私自身もこの道を毎日通うのは大変だなぁと考え始めていたので、
「まずは実験場を見たうえで、私からその旨交渉するよ。」
と、彼の意見に賛同した。
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2020年06月08日

ICAEを開催したい

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一昨日の話の続きである。
私の発表が、アメリカの同業者達には、理解してもらい難かった様ながら、フランスの同業者には評価してもらえたのは事実だった。いずれにしても、雷放電研究者としての私自身の存在を、認めて貰ったのは間違いなく、それが自信となったというべきであろうか?
そしてスウェーデンの留学を終えて帰国した1986年の秋に、URSI(Union of Radio Science International )のE分科会から翌年の総会の雷放電のセッションでの招待講演依頼が届いた。大学院学生時代、尊敬していたST先生が、やはり招待講演の依頼を受けたと喜んでおられたのを思い出し、私自身も大いに名誉だと考えた。ちなみに1987年のURSIは、イスラエルのテルアビブで開催され、その折URSI主催のエクスカーションで死海を訪ねたのは、今となっては40年近くも昔の思い出である。
そして1988年6月のICAEを迎えることになる。
私のセッションは、日本の冬季正極性落雷(自然雷)が、確かに存在することを二冬北陸で観測し世界に知らしめることに貢献してくださった、日本人にとっては大恩人のマルクス・ブルック教授が座長で、私の発表にもいろいろ気を使って盛り上げてくださった。ブルック教授には、日本人の兄弟弟子が多く、私が空電研究所のスタッフということで、好意をで接してくれたのに違いなかった。そんな応援もあって、私の講演は同業者との議論が盛り上がり、私なりにも十分に対応でき、私は
「この分野で国際的に十分やっていけそうだ。」
と確信めいたものを持ったのである。
そう考えると、
「この会議を日本でも開催したいものだ!」
と考え、日本の大御所の先生たちに
「ぜひ日本に誘致してくださいよ!」
と投げかけた。ただウプサラでは残念ながら、準備不足もあって誘致に至らず、次回は1992年セントピーターズブルグと決まった。そして大御所の先生達から
「河崎さん、そう考えるなら次回の会議で誘致してみたら。四年あれば準備もできるだろう!」
と発破をかけられたのである。
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2020年06月07日

国際会議に出席

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話題が少し前後している。
国際会議に生まれて初めて出席したのは、1983年のFlorida でのICOLSE (International Conference on Lightning and Static Electricity) である。国際会議に出席するようになった一番の理由は、勤務先の空電研究所では、国際会議で発表して成果を評価してもらうことが当たり前のように行われていたからであり、同僚たちの積極性に啓発されたというのが正直なところであったろうか。それにその前年の11月から翌年の1月にかけて、ノルウェーでの雷観測を故竹内先生のお供で実施し、帰国途上にマンチェスターに立ち寄った際、講演を強いられて大恥をかいたことも、一因となっている。
ちなみに初めての講演の時の座長は、当時すでに超著名であったアリゾナ大学のP. Krider教授で、
「生涯初めての講演だから、質疑応答の際にはサポートしてほしい!」
と、セッションの開始前にお願いに行ったら
「ゆっくりはっきり話せばいいんだ!」
と背中を押され、以来私の発表スタイルは、その有り方を貫いている。
その翌年には東京のIEEE EMCの会議で、人工雑音の研究内容を発表し、1985年のウプサラ大学への留学につながっていくのである。そして6月ウプサラ大学滞在中にパリでのICOLSEに出席、私自身内容にはかなり自信のあった講演で、その時の座長はフロリダ大学のM. Uman教授であった。あの時は質疑応答も私なりにはほぼ完璧であったと自負があり、講演が終わった途端フランスONERAの何名かが壇上にやって来て
 「お前の発表は、本当に面白かった。あの内容は古典的な雷放電しか分かっていないUmanには理解が無理だったろう。実際Uman 座長もあっけにとられていたように見えたぞ!」
と、大絶賛してくれた。だからこの発表で私は、国際会議での発表に自信を持つことができるようになったのである。なおこの時の一人、P. Richardとは今日でも親交が続いている。
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2020年06月06日

雷の進む速さ

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昨日、拉致被害横田ひとみさんの父上、滋さんが亡くなった。享年87歳 合掌。
今日は、少し専門的な話で恐縮。
昨日の内容に関してである。
あの頃NMさんの設計した光学観測器で、雷放電の過程で「帰還雷撃」に伴う発光を観測していた。帰還雷撃は、大地から雷雲に向かって進む電流で、当然発光も同様に進行すると考えての観測であった。端的にいうなら、パルス波が、大地から雷雲に向かって移動するのである。
私が大学院学生であった時代、光ファイバーによる通信が主題の研究室に在籍していたので、
「放電路が円形かどうかはさておき、ファイバーを伝搬する光パルスと同じように考え得る!」
と確信しした。だからいろいろな高さからの発光信号を調べてみれば到達する時間差で、確かに速度は測れるだろうけれど、
「その速度って、信号の先端の進む速度なんだろうか?」
と思案し、さらに
「光ファイバーと同様に考えれば、信号の進む速度は周波数に依存する。いわゆる分散があるのではないか?」
と、考えたのである。
「だから信号の先端で速度を計測すれば、速度は観測系の感度に依存するはずで、帰還雷撃という現象の速度を求めたいなら、グループ速度を求めねばならないだろう。」
と、推論したのである。
放電路をファイバー形状とみなしたとしても、はたまた放電路をプラズマ状態とみなしても、いずれにしても周波数分散の有るのが当たり前というのが、私の発表の大前提であった。そしてこれが、理屈っぽいフランス人大気電気学者には大うけし、一方Uman教授のような大御所には、ぴんと来なかったようなのであった。その結論として私は、
「大先生といえども、少し観点が違えば大いに頼りないものなんだ。だからこれなら私も対等に議論できそうだ。」
と自信を持てるようになったのである。以来私は
「国際会議は、確かに成果を世に示す場には違いないが、それにもまして自分の理解を同業者に示して、議論してもらう場。」
と考えるようになったのである。
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2020年06月05日

ウプサラICAE

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トロントの事を思い出したついでに、もう一度1988年のことを回顧している。
あの年1988年の6月に、ICAE(国際大気電気学会 International Conference on Atmospheric Electricity)の国際会議がウプサラで開催された。私にとって初めてのICAEで、それまで雷放電の国際会議といえば、ICOLSE かIEEE のEMCしか知らなかった。いや正直言って、国際会議出席はある意味高根の花で、私ごときにはまだまだ敷居が高いと考えることも多かった。ただウプサラは1985年に一年滞在した地で、その折世話になったスベンさんが主催となれば、駆け付けないわけにはいかないと、先輩のNMさんにも焚きつけられて、おっとり刀での参加となった。
あれから30年以上を経てしまっているので、随分と変わってしまっているのだろうが、物価の高いこと以外は、住み心地の良い町で、私にとっては、未だに大好きな街の一つである。1988年の会議は6月で、日暮れが午後10時頃だったろうか、川べりのレストランで、東京大学のIMさん、張教授、せんぱいのNM さんと私の四人で随分と遅くまで話し込んだ。その折出た話が、トロントで観測をしてみないかという誘いであったのである。それが会議出席の、収穫の一つであった。
つけてもあの会議では、多くの大気電気研究者と知り合うことができた。一番の収穫は、ニューメキシコのマルクス・ブルック教授と知り合えたこと、オクラホマのマズールさんとますます浸しくなったこと、あたりだろう。いずれにしても
「雷放電の研究をやるなら、この会議で認められなければならないんだ。」
と、判ったことが最大の収穫だったと、いまだに信じている
余談ながら、私が国際会議で発表をして何とかやれそうなという自信めいたものを得たのが、ウプサラ滞在中に出席したパリでのICOLSEで、そしてこの1988年のICAEでは自信が、確信に代わったのであるが、また明日にでも・・・。
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2020年06月04日

トロントCNタワー

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6月4日(1989年)は、天安門事件の起こった日である。
あの頃の私はといえば、名古屋大学から大阪大学への転勤を一か月後に控えていながら、カナダトロントへの出張で慌ただしくしていた。CNタワーへの落雷を、光学観測しようと提案して、トロント大学やマクマスター大学から招待を受けていたのである。
転勤前の3週間ほどをトロントで過ごしたのだが、この時はすでに鬼籍に入られた空電研究所技官の長谷さんと出張した。空電研究所での先輩のNM さんが設計した、雷放電の進展速度を光学的に測定する装置を、トロント大学の屋上に設置してCNタワーへの落雷を観測した。ただこの年1989年の成果は皆無で、1993年までの5度の夏を経て、大いなる成果を出し、それが一番弟子WDさんの学位論文の一部となっている。
この観測に至った経緯は、その前年1988年スウェーデンのウプサラで開催された国際大気電気学会(ICAE)で知り合った、今はこれまた鬼籍に入られたマクマスター大学の張教授から、
「NMさんや河崎さんの光学観測なら、CNタワーを狙うのが最適だよ!」
と教えられ、Canadian National Science Foundation に張教授に応募して頂いたら採択されたというのが本当のところなのである。トロント大学ヤニセフスキー教授が招待主ということで、大学の宿泊施設に泊めていただいて、電気工学科の研究室に毎朝通った。ヤニセフスキー教授の研究室にはマイク技官がいて日本のアニメーションオタクで、それでも技術的にはいろいろ役に立ってくれた。早い話長谷さんが装置の概念や稼働法を詳しく教え、私達が帰国した後でもきちんと操作可能なように手配した。装置が稼働しだすと天気の良い日は大いに暇で、CN タワーを訪問したり、ナイアガラの滝を訪問したりしたものである。

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2020年06月03日

サーキットブレーカー緩和

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シンガポールでの、サーキットブレーカー緩和の第一ステップが昨日から。
いやはや道路上の自動車は、ほぼ以前通り。とりわけ走っているタクシーの数が多い。
ということは、通勤者の数が増えたということだろう。
半面、昨夕のパシリス公園、散歩する人の数が大いに減ってしまった。コロナ効果で健康維持を目指して、朝夕に散歩する人が多く、多数が健康志向だったのが、社会が平常に戻った途端(?)、生活がほぼ元通りになってしまうということか?
喉元過ぎれば熱さを忘れる、つくづく人間って、愚かだなぁと思う。
ただ有り難いことに、現時点ではこの国での感染者の劇的な増加は報告されていないようだ。
一方日本もほぼ同じ時期に緊急事態を解除したが、途端に東京では30名を超す感染者が出て、一日後の昨夕に緊急事態宣言が再び出される始末。
そもそも、今回の新型コロナウィルス、感染か否かの意味で、存在の検知ができるとしても、本質的なことは未だ霧の中じゃないか。感染者数が減ったのは、経済活動を制約して、安全距離をとるようにしているからだけであって、どこぞの総理がおっしゃっているように、決して新型コロナウィルスを制御できているからではないことは明々白々。
ここは我慢強く、安全距離を忘れずに、根気よくワクチンのできるのを待つしかないというのが、私の理解である。
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2020年06月02日

弟子と出くわす

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私が大阪大学に転勤したすぐの頃の弟子たちの思い出である。
先日、超ドライなKT君のことはすでに述べてある。
あの頃雷放電の研究に関わっていた学生に、AY君、NM君もいた。
AY君は中国地方の電力会社に、NM君は関東の大メーカーに就職、今日でも健在だろう。AY君はKT君やNM君よりは一学年上であったが、比較的おとなしい性格で山本さんが直接面倒を見ていた。そういう意味では、正確には弟子と呼ぶにはふさわしくないかも知れない。
あの当時はまだ大型計算機が幅を利かせていた時代で、それでも研究室にはパソコンも出回り始めていた。何台かのパソコンは、大型計算機の端末機としても利用できるように設定されていた。今から考えると、メインフレーム(大型計算機)からパーソナルコンピューターへの過渡期だったということになる。ちなみに私は大型計算機世代で、空電研究所当時の経験を思い出して、AY君に、ビデオ観測した放電路画像の三次元処理をやってみたらと助言した。当時としては画期的で、電磁界観測も併せて行っていたので、良い研究になるという確信めいたものがあった。それにジョイスティックを使って放電路の三次元画像を、希望する任意の視点から見ることができ、AY君は大いに喜んだものであった。
しかしこれが山本さんの逆鱗に触れた。
「河崎先生、私の指導している学生に、勝手にあれこれ指示しないでください!」
と、叱責されAY君にも随分気まずい思いをさせてしまったのである。それでも修論発表を無事終え、気まずさを修復しないまま、AY君は社会に飛び立って行った。
後日談がある。
10年ほどたったある朝、東京出張の帰りに羽田空港で、偶然AY君にでくわした。どちらが先に気付いたかはもう覚えいないけれど、AY君は何のわだかまりもなく、電力会社での勤務に関して話してくれたのであった。
一人前の電力マンになっている「弟子」と、久しぶりに出会って嬉しく思ったものである。
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2020年06月01日

水無月朔日

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水無月朔日
シンガポールのサーキットブレーカーが続いている。
完全なロックダウンではないものの、外食や集会は禁止だし、安全距離確保に関しては、それなりに厳しい。ただ今日からいくらかの制限解除もある。会社への出勤は、かなり緩和されるとも聞く。ただ私のような高齢者は、もう一か月、自宅からのオンライン勤務を強いられているらしい。これはCEOのアンカウさんに直接確かめたから間違いはないようだ。
「まさか、このまま首になるんじゃないでしょうな?」
と冗談半分で尋ねたら
「もうしばらくは、働いてもらいたい。」
と、笑顔が返ってきた。
テレビ会議は、相手の顔も見え真意を確かめやすく、これだから有難い。
サーキットブレイカーという名目下での、在宅勤務が始まって一ヵ月半、おかげでというべきだろうか、夕方の近くにあるパシリス公園への散歩がすっかり習慣化した。そして5月の一日平均が10,000歩を超えたのは、我が事ながら目出たくもある。かみさんとアリスの三人(?)で夕方6時前から出かけ、一時間半ほど歩く。公園内で、アリスはかみさんの自転車と競争して爆走、すっかり走ることに興味を覚えてしまったようだ。
それなのに犬を怖がる悪癖は依然として抜けない。公園までの道すがら、他の犬に会おうものなら尻尾を巻いて逃げまどっている。爆走中は出会う犬は目に入らないらしいので、どうにかこういう状態を保てないものかと、あれこれ思案している。
しかし困ったものだ。可愛がって育てたのはいいが、アリスは自分を人間と信じているのかもしれない。だから他の犬を怖がる、臆病者になってしまったのだろう。犬嫌いの犬なんて、まったく有り難くないものなぁ。
日本では、小中学校の休校も今日からはあらかたとけると聞く。
とりあえず、一歩前進か?
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2020年05月31日

そんな無茶な!

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UT君のことで思い出深い一件が有る。
1994年の5月の事だったろうと思う。
ICOLSE(International Conference on Lightning and Static Electricity)が、アメリカ合衆国オハイオで開催された。雷と静電気に関しての国際会議である。私はこの会議に、1983年以来継続して出席していたので、当然その年も出席のつもりで準備していた。発表内容は、修士2年になったばかりのUT君の、電界多地点観測の成果であった筈である。私はあくまでも付き添いのつもりで、UT君の国際会議デビューを飾る予定であった。あの頃UT君当人は、まだ博士課程に進学するかどうかを決断できかねていたので、国際会議の場で外国人の仲間たちに評価をしてもらえば、本人も踏ん切りがつくだろうというのが、私の本音であった。
ところが出発の直前になって、私の出張がどうにもこうにもできなくなった。大学の委員会、電気学会の委員会がダブルブッキングで、おまけに絶縁診断の委員会にも松浦教授の代理で出張せねばならなくなってしまったのである。止むを得ず、オクラホマのマズールさんに国際電話をかけ、
「私の弟子のUT君がICOLSEに出席する。私も行くつもりだったが、どうにも行けなくなってしまった。申し訳ないが面倒を見てやって欲しい!」
とお願いした。マズールさんとは、1985年以来の付き合いで、何度か来日もしており、北陸のロケット誘雷も経験している間柄。二つ返事で引き受けてくれたので、次はUT君を呼んで
「申し訳ない。一緒に行けなくなった。マズールさんに頼んであるので、ともっく一人で頑張ってくれ!」
と因果を含め送り出した次第である。それでも会議場には毎日のように電話をして、マズールさんに様子を聞きながら、
「UTの発表内容は、非常に良かった。発表も、質疑応答もそつなくこなしていた。」
との報告を聞いたときには、我が事のように嬉しかったのを覚えている。
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posted by zen at 00:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 雷人独白