2020年10月19日

多地点同時落雷

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うかつなことながら、昨日の話題の浦島伝説、実は本所浜の浦島が日本最古だと、ネットサーフィンで判った。
さて今日の話題である。
1980年代後半に、名古屋大学空電研究所の一員として、三方郡美浜町で実施した、複数台のビデオカメラによる観測である。
何度かこれまでにも書いているように、あの頃は我々にとってGPSはまだまだ先の技術で、技官の二人が一番腐心したのはすべてのビデオカメラの時間同期であった。二人は時分秒に加え、10分の1秒毎のカウンターを製作して、ビデオ画面への重ね書きを実現したうえ、全てのカメラの画面の走査開始が同時となるよう設計してくれた。ビデオカメラは、一秒間60コマだから走査の開始が同時出ないと、本当の意味の同時性が確認できなくなるからである。確かに今日の技術と比較すれば、まだまだ十分でないことは事実であるが、あの時点で実現できる精一杯の観測であった。そしてその努力もあって、複数の送電鉄塔から上向きに放電の開始する光景を、何例も記録できたのである。残念なことにあの時点では現象論的な解釈はできても、放電物理の立場からはきちんとした解釈はできなかった。先輩のNMさんは国内の電気学会や、ICOLSEの国際会議で観測事実として発表したけれど、あまり評価されなかった。ところが最近になって、1秒10万コマという高速ビデオカメラが利用可能となり、100マイクロ秒といった短時間の間に、複数の上向き放電が観測されたという論文が関連雑誌に掲載されるなどしており、高構造物から「同時に上向き放電が開始する」現象への注目度が高くなっている。気障なようだが、私達の観測は時代を先取りしすぎていたということになる。
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2020年10月18日

本庄浜の浦嶋伝説

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蒲入から南へ数キロ宮津側に戻った辺りに、本庄地区がある。
蒲入分校の本校に当たる、伊根町立本庄小学校のある地区である。
その小学校の隣に、浦嶋神社というのがあった。
名前からも想像に難くないように、例の浦島伝説に関係している神社であった。本庄浜がごく近くにあり、その浜で太郎が亀を助けたという伝説が残っていた。浦島伝説は日本中いろいろな地区に残されているらしいが、ここもその一地域だと聞いて、浦嶋神社で亀の木彫りを買った覚えがある。
一方北へ数キロ、丹後半島の先端を目指せば、経が岬の灯台があった。1980年代になってリメークされた映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台となった灯台で、私が観測を始める前年に撮影が行われたということであった。
この地では、先にも書いたように1986年87年の二年間雷観測を行った。私が、多地地点での観測を始めた頃である。本体の三方郡美浜町からは、車で4〜5時間はかかる遠隔地での観測である。GPSの実現までは、余すところ数年で、時間同期の取れた多地点の観測は、まだまだ容易でなかった。ちなみに宮津から丹後半島に入って、私の運転では優に二時間かかる蒲入までを、地元の人は一時間で走ると聞かされたが、最後までそんなに速くは、走れなかった。
ただそれから数年後、電力会社の援助により、SAFIRを稼働したのだが、その際この地域にある太鼓山の頂上に20m程度のポールを立てVHFアンテナを稼働した際、随分と役に立ったのだから、苦労は人生の無駄にはならないということなのだろう。
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2020年10月17日

蒲入漁港めし

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蒲入地区の思い出を語りたい。
丹後半島先端の寒村だとの印象だったが、これが意外と違った。
地区のはずれが漁港になっており、漁業協同組合の建屋があった。
そしてその建屋の脇に、直径数メートルはあるだろうプロパンガスのタンクが設置されていた。不思議に思って民宿の親父さんに尋ねたら、
「蒲入地区全戸が、プロパンガスの配管完備なんです。」
とのこと。失礼ながらと伺えば
「3,4年前に鰤の豊漁が続き、漁師はもちろん漁協も大儲けでき、その頃地区全戸のガス配管工事を行ったんです。プロパンガスですが、漁協のタンクから各戸に供給されているので、実質都会のガスと同じです。」
とのことであった。
「そういえば毎晩、毎晩のおかずが鰤で豪勢な民宿だなぁと考えていました。」
と返すと、
「実は鰤をお出しするのが、正直一番安くつくんです。」
とのことで、大笑いさせられた。
「私は魚が好きですが、一週間近くも鰤ばかり頂いていると、食傷気味になります。たまにはコロッケでも野菜炒めでもいただけませんか?」
とお願いしたら、
「ほかのものを食べたいなら、隣の地区のスーパーマーッケトに買い出しに行きたいので、車で送り迎いしてくださいよ。」
と頼まれて、天気の良い日に買い出しに付き合った。
そんなわけで夕食は、すっかり違ったメニューとなり、同宿の土木作業員の人達にも、大いに喜ばれたりした。
このブログを書くにあたり、グーグルのストレートビューを覗いてみたら、蒲入地区には「漁港めし」の看板を掲げた、レストラン(?)までできて、それなりに繁栄もしているようである。
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2020年10月16日

本庄小学校蒲入分校

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話があれこれ、前後することになる。
丹後半島先端の伊根町蒲入地区での無人観測を思い出したい。
1986年秋三方郡美浜町の観測準備が終わった翌日、私は技官のNHさんと観測出張用のランドクルーザーで、国道27号線を若狭湾沿いに西に進み、宮津から丹後半島に入った。当時は携帯電話はまだまだなかったし、グーグルマップやGPSナビゲーションもちろんその影さえなかった。あるのは昭文社の全国道路地図帳だけで、それを頼りの観測器設置の候補地探しである。ただ当初から、美浜の若狭湾はさんで対角線にある、丹後半島の先端には狙いを付けていた。
美浜界隈の落雷や雲放電による電磁界は、海上伝搬して丹後半島に到達することになるので、大地導電率による減衰や歪が少なかろうというのが、その根拠であった。そして現地入りして見つけたのが伊根町立本庄小学校の蒲入分校で、高学年の児童は本校に通うと聞かされて、
「まるで二十四の瞳のようだ!」
と感傷に浸った記憶がある。
分校には女の先生が二人いて、
「校庭のフェンスにアンテナを置かせて欲しい。そして毎朝フロッピーディスクを差し替えて欲しい。」
とのお願いに、快諾をもらえたのは幸運であった。ちなみに今日ではもはや本校に統合されてしまって、蒲入の分校はない。
もう一つの思い出は数日後、伊豆大島の三原山が噴火し、全島民避難という事件があり、その放送を、この蒲入の民宿で一緒に泊まっていた土木工事の作業員の方々と、テレビに見入っていたことである。あれは1986年11月21日である。
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2020年10月15日

多地点での観測

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福井県三方郡美浜町での冬季雷観測は、送電鉄塔への落雷を複数台のビデオカメラで記録することが、一番の狙いであった。実際は1983年から4年間は続いたろうか。一方あの頃は,夏季雷の観測も行うようになっており、1986年までは群馬県藤岡市、1987年、88年は滋賀県南郷町であった。藤岡市の体育館は日航機が御巣鷹山に墜落したとき、犠牲者の遺体置き場になったので、記憶に残っているご常連様もいらっしゃるだろうか。藤岡の観測を除き、冬も夏も高圧送電鉄塔への落雷を観測対象としており、観測機器は最近何度も紹介している、落雷や雲放電に伴って放射される電磁界の、スローアンテナ、ファーストアンテナであった。これに加え同じく雷放電に伴って放射される、磁束密度をループアンテナで受信し、デジタル記録をするように配慮した。懐疑的なTT助教授を説得するのに、
「丹後半島の先端と美浜の同時観測を実現するには、丹後半島は無人観測でなければ、現実には人手や機械が足りません!」
と、説得したのである。
「じゃぁ、丹後半島伊根町の観測は河崎君の研究テーマにしよう。」
と、とりあえず納得させたのは、大仰なようながら大いなる進歩ではなかったろうか。実際伊根町の無人観測では、逐一解析するのはほとんど不可能なほどの大量の磁界波形が記録でき、1988年のICAEスウェーデンウプサラでの発表に発展していく。そしてその会場で親しくなったマルクス・ブルック教授から、スローアンテナ、ファーストアンテナの機能を併せた広帯域電界アンテナの利用を教えられ、一データ一メガバイトの記録系を製作し始めるようになった。そしてこれ以降私の雷観測は、全てディジタル記録へと移行し、1989年の大阪大学への転勤とつながっていくのである。
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2020年10月14日

冬季雷観測

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私達は当然次の年1983年も、誘雷実験に参加するものと考えていた。
が、事態はそんなに簡単ではなく、次の年は埼玉大学と共同で学術振興会に申請したノルウェーの冬季雷観測が採択され、TT助教授と私は、11月末から翌年1月中頃までの長期出張することなった。例によってスローアンテナ、ファーストアンテナを用いた、雷放電に伴う電界変化の観測で、これまた例によってアナログ記録である。ただ私はこの雷観測に参加しての経験から、「海外学術調査」に申請して、研究予算を獲得することのノウハウみたいなものを会得したような印象を持っている。実際大阪大学に転勤してからは、アメリカオクラホマやフロリダでの観測に引き続いて、1995年から2010年までオーストラリア・ダーウィンでの観測を15年間にわたって実施、定年退職するまで続けることができた。オーストラリア・ダーウィンでの観測については、これまでに何度も紹介している。
さて北陸での観測である。
ロケット誘雷実験への参加は、しばらく中断し1987年までは福井県三方郡美浜町での観測となった。TT助教授が関西電力との共同研究を計画し、さらには美浜原発から関西地方への送電系統に、二回線事故の発生したことが強く関係していると理解している。二回線事故は電力会社にとっては重大な関心事でもあったので、研究費も潤沢に提供してくれた。そしてその数年間の間に、記録系がアナログからディジタルに変わっていったし、アナログ記録のデータもAD変換装置を利用してディジタル処理するようになっていった。
1988年になって私達は、ロケット誘雷実験に参加するこちになった。そのころは誘雷実験は、奥獅子吼高原で実施されるようになっており、これはこれでなかなか思い出の多いが、それはまた明日にでも。
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2020年10月13日

ロケット誘雷実験

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1981年の冬季雷観測中、先輩のNMさんと私は、名古屋大学工学部が中心となって実施しているロケット誘雷実験の成果について、あれこれ議論し
「来年は、この観測の代わりにロケット誘雷実験に参加したい!」
との結論に至っていた。
ただTT助教授は、工学部のHK教授とは歳格好も近く、ある種のライバル心からだろう
「君らと学生でやればいいじゃん。僕は誘雷実験には参加しない。」
と、突き放すような態度であった。
直弟子のNMさんにしてみたら、そこでひるんでしまうところだったのだろうが、比較的気楽蜻蛉の私は、
「じゃぁ次の冬は、T先生はゆっくりしてください。」
と答えたものだから、方針はすんなりと決まってしまった。
そんなわけで1982年は11月末からは、石川県金沢市郊外の河北潟に雷観測バスとともにCバンドレーダを運搬して、ロケット誘雷実験にい参加した。空電研究所にとって一番肝心なのは帰還雷撃の光学観測で、誘雷のためのロケット発射架台から2q程離れた位置に観測バスやレーダを設置した。この観測で私は、名古屋工業大学のNKさん、石川高専のSHさん、中部大学のSSさんと知り合い、それが7年後に始まるインドネシアでのロケット誘雷実験の伏線となるのだが、この時はまだ知る由もない。
誘雷実験の立場からは、レーダで雷雲の発達状況を知りたいということだったのだろうが、私にはあの当時レーダで雷雲の識別なんぞできるわけもなく、NKさんやSSさんからあれこれ尋ねられて、本音で弱ってしまったのを覚えている。それでも私が観測に当たっていた10日ほどの間に、何度か誘雷に成功するのを目の当たりに見て、参加したことが有意義であったと確信したのは言うまでもない。それにこの時の光学観測で、博士課程学生になっていたTN君の博士論文のネタが一つと、私にとって初めての雷放電の論文のネタができたのは、おおいな成果であった。
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2020年10月12日

ディジタル処理

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NMさんも、デジタル処理にはいささか懐疑的で
「落雷の速い変化が、サンプリング点とサンプリング点の間に起こったらどうなるのだ!」
といって、譲らなかった。
「観測系の帯域の二倍以上の周波数でサンプリングすれば、ナイキストの定理から、観測にかかっている現象は原理的には再現できるのです。自然がそれ以上の速い変化をしている場合には、観測系そのものが対応できていませんから、いずれにしても見えませんけど。」
と説明をしても
「ナイキストの定理は知っているけれど、やはりサンプリング点とサンプリング点の間の見落としが気になるねぇ。」
と、頑固一徹譲らなかった。
アナログのTT助教授に関して驚かされたのは、一週間程の間に、例の装置を駆使して、一冬に観測した全雷放電数の発生時刻のリストを完成させ、
「これを頼りに、ファーストアンテナのデータを詳しく調べる!」
と、意気軒昂であった点であろうか。
それでもディジタル処理の便利さ、早い話人海戦術でなく、おまけに一週間かけて作成できた雷放電の発生時刻リストが、ほとんど実時間にできるのを見知ってからは、このグループもアナログからディジタルに急激に移っていくのである。
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2020年10月11日

データ解析

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1981年の冬季雷観測は、年明けまで続いた。
当時私はまだ、同じ研究室ながら人工雑音のグループに所属していた関係上、あくまでも助っ人だったこともあって、正月の現地滞在は免除してもらったと記憶している。三国町から戻ったのは、二月の声を聞いてからだったろうが、研究室に戻るとTT助教授は早速観測したデータの解析に取り掛かった。まずはスローアンテナデータの再生ということで、ペンレコーダの記録を見ながら、落雷や雲放電してそうな時刻のあたりを付け、データレコーダの出力を、光学機械に入力し感光紙に焼き付けるのである。残念ながらその光学機械の名称は覚えていないけれど、私はある意味愕然とした。そんな私にTT助教授は
「河崎君、ほらここに電界変化があるだろう。これが多分落雷だ。この時刻のファーストアンテナのデータをその内再生して調べるよ。まずは、ペンレコーダとスローアンテナのデータを全部確認して、雷放電の発生している正確な時刻の一覧を作るんだ!」
と、えらく興奮して教えてくれた。そしてその作業の手伝いを、修士課程学生のTNさんに命じ腕組みをして見守っていた。
私はその場をそっと離れ、隣の実験室にいる技官のNMさんやNHさんのところに行って
「あのデータ処理、超アナログやけど。ディジタル処理できなんんかなぁ?」
と小声でたずねた。NMさんは
「去年、2チャンネルのAD変換器購入してあるけれど、TTさんディジタルを信用しないんだ!データを見落とすかもしれないといって、使おうとしないんだよ。」
と笑いながら答えてくれた。そのAD変換器は、サンプリング速度が2MHzで、ファーストアンテナの帯域が1MHzであることを考慮してあった。そして私は、TN君をそそのかして、ディジタル処理を奨めた。ちょっとしてクーデターであったろうか。
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2020年10月10日

アナログ記録

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今時の若い人達にはなかなか信じて貰えないかもしれない。
40年前の観測データの記録はアナログ方式で、スローアンテナの出力はオーディオ用デッキを、ファーストアンテナの出力はビデオ用デッキを、それぞデータレコーダーとして用いていた。そしてこのことは、昨日も書いた。ちなみにスローアンテナもファーストアンテナも、雷放電に伴って放射される電磁界を観測するアンテナで、スローアンテナはLF帯、ファーストアンテナはMF帯が可動域となっていた。用いていたデッキはすべてオープンリールで、オーディオ用は自動反転方式になっていて二時間の記録可能であったが、ビデオ用はわずか一時間しか連続記録できないといった具合であった。
ちなみに私が雷観測でディジタル記録を始めたのが1986年の秋からで、丹後半島先端の伊根町にNECのパソコンで制御する装置を設置して、福井県美浜町での観測と同時観測の可能性を模索していた頃である。考えてみれば、わずか5年ほどで、観測の形体がアナログからデジタルに移行し始めるのは、1980年台の目覚ましい技術革新と、それをいち早く修得し装置改良に取り組んでくださった技官のNMさんNHさんの二人に負うところが大きいと信じている。ただTT助教授も先輩のNMさんも、ディジタル技術には懐疑的であまり前向きではなかったが、アナログ記録のデータをディジタル化して数値処理し、便利さを強調した私や今は岐阜大教授になっている当時の博士課程学生TNさんの貢献もそれなりにあると信じている。
時計の針を1981年に戻す。
深夜になっての発雷、私にとっては生涯で最初の冬季雷観測、時間が来れば記録されたテープ交換し終了時刻を書き留めるといった作業を繰り返していた。ただ観測バスが飛ばされそうな勢いの風が間歇的に吹き、これが冬季雷との認識を持ったのである。
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